第2話 橘ヒロヤ、任務を開始する
日の出前に起きて水分を取った後、格闘術の基本のステップや蹴りの訓練をする。
ヒロヤは次に、銃の安全装置を外して、再び付ける訓練をする。
銃の調子、こちらも大丈夫。思っていたよりは自分は緊張していないらしいと、ヒロヤは息をつく。
記者たちの言葉が、ザッピングのように頭の中で再生される。初めての任務、最年少、あのハイパワーストーン社。ヒロヤは首を振り、前を見据える。
「俺はただ、妃奈子お嬢様を守ればいい」
妃奈子お嬢様と口に出せば、ザッピングは電源ごと切れる。
彼女を守る。
それが己の仕事の達成となり、生きるための報酬を得ることになる。それはヒロヤの存在価値の証明になるし、なによりヒロヤを守る。
初めての依頼者。ヒロヤとしてはこの先何人もの人を守るのだから、いちいち依頼者を意識するのは嫌だ。だが、記者や世間の声のせいで、彼女が初めての相手だということを意識させられてしまう。
メイドに扮して彼女を守ることに成功したヒロヤは、制服に着替えた。
スカートを履いていたのはほんの僅かな間だが、スラックスを履くとやはり安心した。だが、この安心は余計な感情だ。自分の中の普通やスタンダードに構っていれば、隙を生むかもしれない。スカートでもズボンでも裸でも、精神状態を変えずに守らねばならない。
「お嬢様、だなんてやめてください」
妃奈子の言葉に、ヒロヤはぎくっとした。
そして少し共感できた。
思えば自分も、世間から最年少だと騒がれていて、誰も橘ヒロヤそのものを見ていないと感じていたかもしれない。ヒロヤは反省した。
まさか、妃奈子を呼び捨てにするわけにはいかないが、少しだけ、彼女の想いをくんだ呼び方をしなければならないと思った。
妃奈子さんと呼ぶと喜んだ彼女を、可愛いと思ってしまったことを恥じつつ、ヒロヤは頷き返した。
この人を守ることに抵抗はないなと、ヒロヤは彼女の背を見ながら思った。
通学路に危険はない。おしゃれな歩道だ。
同じ制服を着た者たちはなんとなく上品で、学校のレベルの高さを思わさせる。
「ヒロヤさん、とお呼びしても?」
妃奈子の足取りは重くない。先ほど命を狙われたというのに随分落ち着いていると、ヒロヤは感心する。身体能力はあまり高くなさそうだが、肝は据わっているのかもしれない。
「ヒロヤでもいいです」
「あなたが妃奈子と呼ばないのに、私がヒロヤと呼ぶだなんてできません」
護衛のために少し後ろを歩くヒロヤを、妃奈子は毎回振り返る。
時折妃奈子に向けられる周りの人からの視線に、妃奈子は振り向かない。
「ヒロヤさんは私のために高校まで選べないだなんて、嫌ではないのですか?」
後ろを見ながら喋ったせいで、妃奈子は歩道のレンガの隙間につまずきかけた。ヒロヤは慌てて妃奈子に近づく。
「大丈夫です」
妃奈子が恥ずかしそうに目を逸らす。そして、さっきの質問に答えてくださいと言いたそうにヒロヤを見つめてくる。
「最高位護衛者の資格を取るには、高卒程度の学力を持ってないといけません。だから俺は高認資格ももう持っています。ですから高校はどこでも大丈夫です」
「あら、頭がいいのね。教えてもらいたいです。何がお得意なんですか?」
なんで依頼者と護衛者の関係でこんな初対面の友達みたいな会話をしているんだろう、自分は徹底的に依頼者を守るプロだというのに、とヒロヤは思った。しかし依頼者を無視するわけにもいかない。
「国語が得意でした」
「へえ! いいですね」
妃奈子が明るい顔をした。ヒロヤは首を傾げる。
「私、数学しか得意じゃないんです……」
理系なんだなとヒロヤは思ったが、守ることに関係はない。
二人が入学する『私立霰ヶ丘高校』は、家柄が良い者と、一般の高い学力を有する者が入学する。学校の理念として区別をしない。
妃奈子は家柄の枠ではなく、一般受験で通ったそうだ。
代々続いた家ではなく一代で上流階級になった桜井家を家柄枠にするか揉めることを考慮して、家柄枠を使わないことにしたと、桜井親子が言っていた。
「わあ、満開ですね」
妃奈子が、霰ヶ丘高校の校庭の素晴らしい桜並木を喜んで指さす。
ヒロヤに振り返っているので、同意か、何か言葉を求めているのだろう。ヒロヤは無言で頷く。
ヒロヤにとって、桜は悲しい花だ。最高位護衛者養成訓練校の退校勧告が出されるのは桜の季節だ。年上の退校者達を見るのは辛く、彼らから最年少のヒロヤに向けられる視線も辛かった。
入学式、四月五日。桜がはらはらと花びらを落とす。まだほんの少し冷たい春風が、妃奈子のこげ茶の髪を揺らす。柔らかい髪で、ふわっとしている。
男女ともにグレーのブレザーだ。
妃奈子に制服が良く似合う。ヒロヤは鍛えた太ももがスラックスの上からでも分かってしまう。
ふと強い風が吹いて、妃奈子のスカートをめくった。突風が去った後、妃奈子が恥ずかしそうにこちらを振り返る。見えてしまったか不安なのだろう。ヒロヤは首を振った。実際に下着らしいものは見ていない。
太ももに巻かれたディザイアモンドのリングは見た。ヒロヤは真剣な顔になる。
周りから、いくつかの視線が妃奈子に集まっている。妃奈子というより、ディザイアモンドに。写真を撮ろうと携帯を出した同じ制服の人間をヒロヤが睨むと、彼は恐れたように立ち止まった。
♦
入学式が終わった。
体育館の綺麗に磨かれた床とパイプ椅子の摩擦音があちこちから響き渡り、新しい教室への移動が始まる。なんとなく、皆落ち着かないでいる。
高校自体に危険は少ないようなので、自分は妃奈子を守るだけでなく一人の高校生としてもふるまわなければならない。
あまりお粗末なふるまいをして、妃奈子の評判に傷を付けないようにしなければと考え、ヒロヤは妃奈子を視界に入れながら歩きだした。
ざわざわしているが、まだ控えめな雰囲気の一年三組の教室に足を踏み入れる。皆、普通の身体能力だ。ヒロヤにとっての普通は、対人格闘などで敵に打撃を与えられるかどうかで判断されるので、決して一年三組に運動神経がいい人がいないというわけではない。ヒロヤの基準は他と異なる。
妃奈子が教室に入ると、皆が動きを止めて妃奈子を見る。『本当についてる』というひそやかな声がヒロヤに聞こえた。妃奈子は一切耳を貸していない。まさか、聞こえていないわけではないだろう。『意外と可愛い』という声に、顔が関係あるのかよとヒロヤは呆れた。皆、おおっぴらにではなくひそひそと騒ぐ。
次に妃奈子の一歩後ろにいるヒロヤが教室に入った時、教室が、一瞬しんとした。そしてすぐに大騒ぎになった。ヒロヤは警戒し、構えていると悟られない程度に構える。妃奈子が注目されているのか。万が一の可能性だが、攻撃されてはいけない。妃奈子と関係ある者がいるというデータはなかったが、見落としたのだろうか。
「橘ヒロヤだー!」
茶髪で眼鏡をかけている男子が、椅子から立ち上がって大声で名を呼んだ。それを皮切りに、皆が椅子から立って、ヒロヤに駆け寄る。ヒロヤは目をまん丸にして、後ずさる。黒板に背が付くかぎりぎりのところまで追いつめられる。注目されていたのは、ヒロヤだった。
「本物だ!」
騒ぎ、はしゃぐ生徒たちに、ヒロヤは困り果て、おろおろと視線を彷徨わせる。
ヒロヤは少し離れたところに立っていた妃奈子に駆け寄った。妃奈子が、口に手を添えて笑う。
「私はヒロヤさんのこと、守れませんからね」
ヒロヤは頷いた。妃奈子は以前から有名だったが、ヒロヤは最近急に有名になった存在だ。ヒロヤは自分のことになると、どうしたものかと困った。
ヒロヤはのん気にクラスメートたちの自己紹介を聞いていた。同じくらいのレベルの生徒が集まったせいか、トゲのない空気の教室だ。
自己紹介が、桜井妃奈子の番になった。しずしずと黒板の前の壇上に立ち、妃奈子はほがらかにほほ笑む。
「桜井妃奈子と申します。私の夢は……いえ、まだありません。よろしくお願いいたします」
ぱちぱちとクラスの皆が拍手する。一番大きな拍手をするのは、芳樹という先程の茶髪の眼鏡の男子だ。彼がこの教室のムードメーカーになりそうだ。
だがそれよりも妃奈子の様子が気になる。やはり彼女は注目されている。何人かが妃奈子の太ももに目線をやっていた。妃奈子は、夢がないと言ったが、なんとなく、本心を隠しているようにも見えた。
「次は、橘ヒロヤだ」
さて、次の奴はどんなやつか、と思いぼーっとしていると、
「おい、橘」
ヒロヤはぱっと目を開け、ばっと立ち上がった。次は自分だった。数人が軽く笑う中、壇上に立ち、何を喋るか、何も考えていなかったことに気がつく。妃奈子がにこやかに見守っていてくれていることには気がついた。
「橘ヒロヤです」
そう言って、後はどうしようか、固まっている。
「特技は?」
前列に座る芳樹がにこにこと助け船を出してくれるが、ヒロヤはわたわたする。
「護衛をすることです」
何言ってるんだ、と自分も思ったが、
「知ってる!」
芳樹がそう言って、みんなが明るく笑った。ヒロヤは芳樹をはじめとする温かさに驚き、安心した。
全員の自己紹介が終わり、少しずつ緊張がとける一年三組。ヒロヤは妃奈子の元へ行こうとしたが、芳樹がヒロヤの肩を叩いた。ヒロヤは芳樹の笑顔に驚く。
「なあ、ヒロヤくんって、強いの?」
きらきらした目で聞いてくる芳樹に、なんて返そうか困る。
「ヒロヤでいいよ。強いかどうかは、分からない」
真面目な顔で言うヒロヤに、芳樹は、えー、とつまらなそうな顔をする。
「『最高位護衛者』なのに。強いんじゃないの?」
「強いってのは、もともと相対的なもので……」
ヒロヤは思わず妃奈子を見る。確かに自分は資格を持っている。だが、自分より強い人間がいないわけがない。ヒロヤは妃奈子を守らねば、と決意を強くし、そして目の前の芳樹を見る。
「でも、俺より強い奴からも、妃奈子さんを守るよ。勝てなくても、負けない方法はいくつかある。守れるのなら、逃げてもいいんだ」
「かっこいい!」
芳樹はますます、きらきらした目になった。
「俺、写真やってるから今度モデルに……」
ヒロヤは驚き何も言えない。
がらりと教室のドアが開いた。
開けたのは一年三組の人間ではない。妃奈子がその美少女に歩み寄った。
「ごきげんよう、美月さん。同じ学校でしたのね」
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