第38話 光差す舞台

 舞台袖の空間は広かった。


 次に出る控えの選手のために用意されたそのスペースは天井が高くて、何もないがらんどうで。上を見上げれば高校の体育館でライトを吊っているような骨組みの、ずっとがっしりした物が組まれていて、本物のステージだ、という感じがする。


 活動をしていたとき、こういうステージにも何度か立ったことがあるから、帰って来た、という感じもするし、同時に何か新しい感触もある。両手に握っている、プラスチックのヨーヨー。それが今までにない経験で、つまるところ試合前の緊張ってやつを、私は体感しているんだろう。


 パフォーマンスの出番前とは明らかに違う。今から立つのは人との勝負の舞台で、結果は点数や順位で表すしかない。怜悧な熱狂が、この向こうに存在している、という予感。ざわつく胸中で心臓が跳ねている。


 競技会に、純粋な『お客さん』はいない。観覧の客はいるけど、その人たちは私にお金を払っている訳では無い。少なくとも、観覧客に向けて演技をするコンテスタントはいない。


 私のフリースタイル演技を『見る』のは、ジャッジ席に座った八人の審査員だ。彼らは私の一挙手一投足を観察して、トリックを判別して、カウントし、評点し、私の演技に点数をつけていく。ジュニア大会には予選がない。正真正銘の一発勝負で雌雄を決する、ある意味では全国大会よりもよっぽど残酷で正直な舞台。


……ああ、なんだか調子狂うなあ。よく分かんないや、正直。


 立ったことのない舞台。始めて間もない競技種目。殆ど誰一人として知らない人々の前。だから緊張するんだ。


 何も考えるな。ただ、練習したことを反復して、精一杯それを再現するだけ。そう、欲張るな。冷静に。いつもどおり、やれることをやる。


 胸に手を当てて、深呼吸を繰り返す。選手が一人、ステージから帰ってきた。目の前に待機していた一人が出ていく。次が終わったら、もう私の番だ。ああ、駄目だ。緊張する。


 ふと、なんでこんな場所にいるんだろう、って思った。私らしくない、今まで関わったことの全くない場所。存在さえ知らなかった界隈。あの日、ツバサとツバサのヨーヨーに出会っていなかったら、決して私の人生と交わることのなかったこの世界。


 思えば、あれから色んなことが変わった。


 新しい友達が出来た。小動物みたいに小さくて可愛らしい、真面目で真っ直ぐな目をした子。


 今まで付き合ってこなかったタイプだ。芋づる式に大人の知り合いも増えた。明良店長に高倉選手に、ちょっと濃いめのヨーヨーの人たち。兄貴と一緒にいる時間が減った。誰かについていくんじゃなくて、ツバサの手を取って、一緒に歩きたいと思うようになった。ときに引っ張って、ときに背中を押されながら、隣にいてほしいと思える人が出来た。


「次の選手の方、こちらまで来てください」


 大会の係員のお兄さんに促されて、ステージ脇まで進み出る。明るい照明が当たっている場所まで、ほんの数十センチ。三歩も歩いたらそこは戦いの場所だ。前の選手が真剣な表情でヨーヨーを操るのが見える。あーあー、硬い顔しちゃって。もっとリラックス、リラックス、なんて。きっと、私だってああなるはずだ。


 視線をステージから離して、右手を持ち上げて、ヨーヨーをかざしてみる。まんまるなヨーヨーは眩しい照明をすっぽり隠して、黒い影となる。今ステージでプレイしてる人も、その前の人も1Aだったなあ、と思う。


 ジュニア大会は1Aから5Aまで、どのカテゴリの演技をしてもいいんだけど、やっぱり、花形の1Aは単純に人口が多いみたいだ。ちょっと前まで競技ヨーヨーの部門なんて全く知らなかったのに、そんなことまで分かるようになるなんて。不思議な気分だ。


 好きなものが増えた。信じたいと思えるものが。賭けてみたいと思えるものが。


 ツバサからあの日受け取ったルーピングヨーヨーを、ぐっと握った。プラスチックの軽くて硬質な感触。これを、両手のこれを頼りに、私は今からあの光の下に出ていってパフォーマンスをこなす。そろそろ出番だ。


 サラさんが言うみたいに、一番を目指して? ツバサが言うみたいに、誰かを負かすために?


……違うよなあ。それは、あの人達の炎だ。私には、どちらもしっくりこない。


 私は、ただ……


「出番です。名前を呼ばれたらステージ中央まで歩いていってください」

 前の人が演技を終えた。観客席から拍手がパチパチと聞こえて、お辞儀を終えた選手が袖に戻ってくる。


 やっとか、という気持ち。


 いよいよだ、という気持ち。


 やめてくれ、という気持ち。


 なんとかなるさ、という気持ち。


 はぁ。ため息を一つ。ごちゃごちゃした思考をまとめて吐き出す。


「続いての選手は、千葉県、浅葱キズナ選手。高校一年生」


 アナウンスがスピーカー越しに響く。来た。


 よし。一つ息を吐き、歩き出す。係員のお兄さんが笑顔で送り出してくれる。


 眩しい。ステージを照らすライトが、私に降り注ぐ。床に中央の印が見える。


 客席の方を向いた。


 なんて、広い――――


 暗がりに奥まった観覧席は、ステージから眺めるとどこまでも深い。人がどれくらい入っているかも分からない。でも、そう、関係ない。


 正面から少し視線を落とすと、目の前には審査員席が並んでいる。


 ぎゅっと心臓を掴まれるような緊張の波が来て、胸を捕らわれそうになったそのとき、審査員席の一番右に座る高倉選手の顔が目に入った。


 あ、そうか。あの人、当然ジュニアには出ないから、審査員として参加してるんだ。なんか、不意を突かれて極度の緊張が飛んでしまった。


 高倉選手は笑っていた。楽しそうに。期待に満ちた目で。私のことを、初心者として見てはいない。同じステージに立つ者として、ヨーヨーをその上で振る者として、君は何をしてくれるんだい、そういう熱のこもった視線を感じる。ビリビリと心に突き刺さるのを感じた。ああ、そうだ。


 簡単なことだ。


 私にやれること。私がしたいこと。この舞台の上で、この視線の中で、私に感動をくれた、この両手のヨーヨーと共に。


「ジャッジ、オーケー? ミュージック、オーケー?」


 このコールにも慣れた。次は私の番だ。心地の良い緊張が、胸にのびのびと広がっていた。


 不思議だ。ツバサに出会ったのが、つい昨日のことみたいだ。


 あの日、あの教室で、夕陽に照らされた美しい〈イーライ・ホップ〉。今はまだ、その感動まで人を連れて行くことは、私一人では出来ないけど。


「プレイヤー?」


 司会が尋ねる。


 深呼吸。


 始めよう。


 親指を立てる。


「……オーケー」


 演技構成はしっかり頭の中に入っている。


 基本は、文化祭で最後にやったツバサとのステージと同じだ。そこに、私のレベルに合わせてチャレンジ要素のあるトリックをいくつか追加している。その分、失敗率は上がるけれど、競技会ではそのくらい挑戦的な構成じゃないと、自分のベストを出すことは難しい。まあ、それも受け売りだけど。


「それでは、参りましょう。浅葱キズナ選手です!」


 時が止まる。拍手が遠のく。


 聴覚が鋭敏になり、 音楽の一音目とともに飛び出す。


 いつか、私も誰かを心から感動させたい。


 震えるようなあの瞬間を、味あわせてみたい。


 私の表現する舞台で。


 光差す舞台で。

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