第九部 光差すステージ

第37話 大会の朝

 朝。私の足は、とある路地に向かっていた。


 青空の見えない薄曇りの下、ファッションビルの脇を通る階段と通路は薄暗く陰っている。そっけない灰色の地面と、ビルのレンガ壁。反対側の建物からせりだした室外機の湿ったぬるい風が吹き溜まっている。落書きも張り紙もないのに、どこか汚らしさを漂わせる界隈。


 この空気を、近づきづらいと感じるか、居心地がいいと感じるか、人は分かれるだろう。まあ、大体は近寄ろうとは思わないだろうなあ。


 幸い、今は朝早いこともあって、通る人はほとんどいない。通路の入り口にしゃがんで、二つのビルに挟まれた細い空間を見上げれば、私はかつての日々を思い出す。


 兄貴について行って訪れたのが最初。強面のお兄さんやお姉さんたちが気だるそうにたむろしていた。はじめはその見た目にビビっていたけど、話をしてみれば、ただの同年代の先輩たちだった。そういうストリートなカルチャーに触れて、憧れて集まった仲間たち。どこに行って遊ぶにしても、まずはここに来れば、みんなに会えた。そういう場所。


 兄貴はラッパー仲間の輪へ、私はダンサー仲間の輪へ。どちらもやる事と言えば、だらだらと駄弁ったり、輪になってサイファーしたり、どっかのクラブへ遊びに行ったりするくらいだったけど。


 ここは、そんな日々の象徴だ。踊っていた頃の私の。そして、何も分からないまま兄貴のケツについて回ってるだけだったチビッ子の私の。


「つい、ほんの数か月前までのことなんだけどなあ」


 物思いからゆっくり戻って来ながら、ひとりごちる。細長く切り出された曇り空と、その下にもっと濃いグレーのコンクリートの地面。街灯は立っているけど、明るく照らすには光量が足りていない。近寄って集まらなきゃ表情も見えないようなその暗さが、私たちにはちょうど良かったんだ。


 でももう、ここには戻ってくることはないね。きっと。


 立ち上がって、足を伸ばす。


 寂しいかな。寂しいな。


 でも今は、それ以上にワクワクする気持ちの方が強いんだ。ここに置いてってしまったもののことは、もちろん大切だけど、それでもココロのどこか奥の棚に今は一旦しまっておいて、目の前に続く道へと進み出す気力に満ちている。


「よし。行くか」


 膝を打つ。振り向いて踵を返す。川を越えて駅の方へと。ツバサをきっと待たせてる。あの小柄なシルエットと寝ぐせのついた黒髪を思い出すと、思わず笑みがこぼれる。


 さあ、ヨーヨーの時間だ。


 朝。曇り空。今日は、全国ヨーヨージュニア大会の日だ。


* * * *


「……なんであなたがいるんですか」


「だって、私も選手だもの」


「じゃあ、早く中に入って受付済ませたらどうです?」


「受付はしたわよ。あなたこそ、まだなんじゃないの」


「私はキズナちゃんを待ってるんです!」


「あら、ならいいじゃない。私だって、彼女のお友達よ。一緒に待ちましょうよ」


「ウウゥ……」


 私が到着したとき、大会会場の玄関前には、睨み合う二人の少女がいた。いや、正確には睨んでいたのは片方のちびっちゃい一人であって、背の高い、黒いコートの美人はどこ吹く風の飄々とした佇まいだったけど。


「何やってんの、二人とも」


「あら、浅葱さん。おはよう」


「キズナちゃん! 遅いよう!」


 二人が振り返る。流れる様な金髪と黒々とした跳ねっ毛が翻って、四つの瞳が私の方を向く。九凪ツバサちゃんと小早川サラさんは、まだ一般入場の始まっていない入り口の前で私を待っていてくれていた。


「サラさんもいるとは思いませんでした。どうしたんです?」


 飛びついてきたツバサを両手で受け止めながら、サラさんに問いかける。サラさんは澄ました顔で金髪のツインテールをなびかせながら、


「あら、つれないじゃない。大会デビューする友人の出迎えくらい、させて頂戴な」


「私を見るまで別にそんなこと思ってなかったくせに……」


 私に抱き着いたツバサが横目にジトッとサラさんを睨む。睨まれた方はニコニコ楽しそうだけど。仲いいなあ、この二人。


「サラさん、たしか最後のジュニア大会でしたよね」


 ヨーヨーのジュニア大会に出場できるのは高校生までだ。サラさんは高校三年生だから、今年の出場がラストとなる。


「そうよ。やっと、この時期になるとキャンキャン噛みついてくるチビっ子の相手をしなくてよくなるわ」


「だれがキャンキャン鳴いたっていうんですか」


「あら、自覚あるんじゃない」


「ありませんっ!」


「でも、子犬みたいに可愛いのは本当よ。ほ~ら、よ~しよしよし」


「上から頭を撫でるなあ!」


「尊い……」


 サラさんが、かがんでツバサの頭を手でよしよしして、撥ねつけられる。ただでさえ身長差があるのに、靴のヒールの差でさらにサラさんが見下ろす形になっている。あ、最後の呟きは私の感想です。個人的な。


「今年こそは、勝つ!」


 ビシッと指をさして宣言するツバサ。対するサラさんも、自信満々な笑みで受けて立つ。


「望むところ。だけどね、悪いけど今年の私は一味違うわよ」


 そう言って、肩にかけていたカバンからひとつのヨーヨーを取り出すサラさん。ブランド物のカバンからすっとヨーヨーが出てくるあたり、やっぱりこの人もヨーヨーの人だなあ。


 サラさんが見せてきたのは、銀色の肌に無数の擦過痕のようなヘアラインが入ったメタルヨーヨー。横のフェイスには、絵筆で荒々しく描いた黒いライオンの横顔。


「〈ライオン・ハート〉よ。私の初めてのシグネチャー・モデルになるわ」


「っ!!」


 ツバサの目が見開かれる。


 シグネチャー・モデル。それは、メーカーが選手と共同で開発したヨーヨーのモデルのことだ。つまり、目の前にある〈ライオン・ハート〉という銀色のヨーヨーは小早川サラが最も使いやすい様に作られた、サラさんのベストの力を発揮するためのものともいえる、いわば最強の武器だ。というのは、明楽店長にいつだったか教わったこと。


 そのシグネチャーの、恐らくは開発中の試作機を持ち出してきたサラさんは、本気で勝ちに来ているのだろう。この大会でヨーヨーの性能を確認するとともに、ここでの成績がそのままこのヨーヨーの宣伝になるんだから。


「残念ながら、ツバサちゃんと浅葱さんには引き立て役になってもらうことになるかもね」


「なにを……っ!」


「いや、私は引き立て役にでもなれたら全然光栄に思える程度の実力ですけどね」


 始めてまだ数ヶ月しか経ってないってのに。勝負できる次元ですらないでしょ。


「あら、やるからには目指すは表彰台じゃなくて?」


「そうだよっ、二人で力を合わせてこの生意気なツインテールを引きちぎってやるんだからっ!」


「いや、個人競技だしツインテ関係ないし。あと別にサラさんと敵対してるつもりもないし」


「なんでさっ! 一緒に倒そうよ~!」


「わかった、わかった。とりあえず受付するよ。選手受付はあっちかな」


「ふふ、浅葱さんたら丸っきり保護者じゃない。よかったわね〜、優しいお友達で」


「むきーっ!」


 辺りを賑やかにしながら、私たちは入口のドアをくぐっていった。

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