第32話 橋の上で
「私は、ツバサのヨーヨーが大好きだ」
ツバサを抱き寄せる。掴んだ腕を引っ張って、その小柄な体を私の腕の中へ。
不意に体勢を崩されたツバサの無防備な体。しっかりと抱きとめる。
ホワイトボードの上に、こぼれ落ちたマグネットの音。「キズナ、ちゃ……」と戸惑うツバサの吐息。
「あの日、夕暮れの中で見たあなたのヨーヨーは、私の中にずっと輝き続けてる。私は、その輝きの強さを信じていられたからこそ、ここまでやってこれたんだよ」
「確信してる。ツバサのヨーヨーは、人を感動させられる力を持ってる。ツバサもそのことは、もう知ってるんじゃない? 覚えてるでしょう、トライアルでのこと。あの拍手。あの視線。会長の言葉。全部、あなたとあなたのヨーヨーがそうさせたんだよ」
「私と、私のヨーヨー……」
背中越しに、ツバサが右手を握るのを感じた。生徒会長に掛けられた言葉。それは、パフォーマンスを通じて観客から貰った、初めての言葉だったはずだ。これからのツバサにとって、きっと大切なものになるだろう。ま、本当のファン一号は私だけど。え、
「どう? やれそう?」
優しく囁く。そっと、手を差し伸べて導くように。
ツバサはゆっくりと私の肩に手をおいて、体を離していく。
「ありがとう、キズナちゃん。なんか、ちょっと落ち着けたかも。いきなりで驚いたけど」
まっすぐに目を見る。ツバサと見合う。
「大丈夫。やるよ、私」
「うん」
私はうなずく。もう一度、完璧な確信をもって。
「私たちはやれる。最高のステージになる」
「へへ」
「ふふふ」
見つめ合って、なんだか可笑しくなって笑う。二人して。よくリラックスした、良い笑顔だ。
そこに、突然ノックの音が飛び込んで来て、私もツバサも飛び上がらんばかりに驚いてしまった。
「……なにやってんだ?」
兄貴が遠慮がちに開いたドアから顔を覗かせたとき、私とツバサはふたりとも立ち上がって背中を向けあっていた。足元のテーブルにジュースのペットボトルとお菓子の袋を広げたまま。
「いや、別に。ちょっと座り続けでお尻が疲れたねーって言ってただけ」
「あ、そう」
「……で、何の用」
「ああ、夕飯、食ってくのか? そろそろ作り始めるみたいだけど」
ツバサをちら、と見て兄貴が訊ねてくる。もうそんな時間か。部屋の壁掛け時計を見上げる。帰ってきてからもう二時間以上が経っていた。ぼちぼち外は暗くなっているだろう。
「あ〜、ツバサどうする? うちは、食べていって貰って全然良いけど」
「え、いやいや、そんな、悪いし。あの、家にも特に何も言っていないので。今日はそろそろ帰ります」
両手を横に振りながら、ツバサが答える。半分は兄貴に対して。
「ああ、別に急いで帰れとか、そんなんじゃ無いから。まあ、ごゆっくり」
兄貴は、長髪だった名残の癖で髪を掻き上げる手振りをしながら、そんなことを言って、適当に会釈をして引っ込んでいった。
「びっくりしちゃった。はー。あれがお兄さんだね」
「そ。我が
ツバサは胸を押さえて目を見開いている。そっか、まだ会わせたこと無かったっけ。ってか、写真も見せたこと無いか。私はスマホのライブラリを辿って、一年前くらいの写真を引っ張り出す。
「これ。あの人もともとは超ロン毛の金髪だから」
「うわ、人多い。これ、クラブか何か? あ、本当だ。めちゃめちゃ髪キレイじゃん、お兄さん。キズナちゃんも、ちょっとだけ幼くて可愛い〜」
「わ、私はいいからさ。で、どうする? 今日はもう帰る?」
私は余計なものを見られる前に、スマホを閉じて話を変える。ツバサは時計を見上げながら、うなずいた。
「うん。やっぱり、明日に備えたいし。うちもそろそろお母さんが夕飯作る頃だから」
「そっか。じゃあ、今日の決起会はこれにてお開きということで」
私が飲みかけのペットボトルを持つと、ツバサも同じ様に
「ツバサのヨーヨーに」
「えーっと、キズナちゃんの柔らかかった胸に!」
「なにそれ」
「え、とっても良いものだったから。いい匂いもしたし」
「……まあ、なんでもいいか」
私たちは突き出したボトルをぶつけ合う。
「明日の成功を願って、かんぱーい!」
* * * *
乾杯をしたあと、荷物を片付けて私はそそくさとキズナちゃんの部屋を後にした。
キズナちゃんはマンションの入口まで送ってくれた。エントランスで最後にこぶしをぶつけ合い、手を振って私たちは別れた。
もう真っ暗になっていたけど、私の家までは川を越えればすぐだ。カバンを前かごに放り込んで、自転車を漕ぎ出す。
夜の町。表通りに出れば車通りは多く、ヘッドライトの明かりが横断歩道を渡る私を眩しく照らす。なんだか、不思議な気分になった。
気がつけば、思ってもいなかった遠くまで来ているような気がする。
私は相変わらず、ずっとヨーヨーをやっているだけだけど、隣にキズナちゃんがいるだけで、なんだか初めてのことがたくさんだ。明日は文化祭で、ヨーヨーを知らない人たちの前でステージに立つんだって。私が? びっくり。
悪い気分じゃない。不意に踊りだしてしまいそうなくらい、ドキドキ緊張していて、口から心臓でも何でも飛び出そうで、それでもどこかでワクワクしている。
何が、どんな景色が見られるんだろう、って。
キズナちゃんが、信じてるって言ってくれた。
あの子が信じている場所へ、連れて行って貰えるんだろうか。でも、待ってるだけじゃ、きっと辿り着けない。私自身が、飛び込んで行かなきゃ。決意は、キズナちゃんに貰った。
車の行き交う橋の上を通っていたら、向こうから歩いてくる長身の影に気がついた。ついさっき会ったばかりの人だ。キズナちゃんのお兄さん。たしか、圭一さん。
「こんばんは」
自転車を止めて挨拶すると、向こうも気がついて、ひょこ、と頭を下げられる。
「ああ、ども。さっきぶり」
それだけの挨拶をして、通り過ぎようとするお兄さん。私は、「あの」と呼び止めていた。
「えっと、明日、文化祭なんです。うちの学校」
「ああ……キズナから聞いてるよ。君等で何かやるんだろう? あいつも何か、息巻いてるみたいだったけど」
「見に来ることは、やっぱり難しいんですか……?」
おそるおそる、聞いてみる。何やってるんだろう、って頭のどこかで思ってる。でも、どうしてもここで何も言わずに通り過ぎちゃいけない気がした。
お兄さんは、ちょっと黙って私を見返したあと、軽くため息を吐いて口を開いた。
「あいつにも、キズナにも言ったけど、明日は都内で外せない用があるんだ。時間的には、どれだけ急いでも君たちのステージに間に合わせるのは無理だな」
淀みなく答えるお兄さん。キズナちゃんと一度したやり取りだというのは本当なのだろう。
用はそれだけ? と言外に問われ、お兄さんの足が再び前を向こうとする。私は息を吸い込む。
「どうにか」
何を言えばいいのか分からない。何が私に出来るのかも分からない。
でも、キズナちゃんのあの表情。お兄さんが来られないって言っていた時の、寂しそうなあの顔が私の脳裏から離れない。
「どうにかして、間に合わせてあげることは出来ないでしょうか。どうにか、キズナちゃんの本気のステージを見てあげて欲しいんです。お願いします」
何を言ってるんだろう。無茶苦茶を言っていることは分かってる。まるで、駄々をこねる子供だ。勢いで頭を下げてしまったけど、怖くてそのまま上げられない。
町中の橋の上で、くの字に体を折り曲げて、だんだん恥ずかしさに顔が熱くなってきた私の頭上で、ふっ、と息を漏らすのが聞こえた。
恐る恐る、顔を上げる。笑っていた。眩しそうに、懐かしそうに。安心したように。
「ありがとうな」
「え?」
お兄さんは、車のライトを逆光に背負って表情を隠しながら言う。
「あいつのこと、そこまで思ってくれて、ありがとう。馬鹿な妹だけど、友達でいてやってくれ」
「あ、いや……私の方こそ、むしろ……」
「じゃ、また」
そう言って、片手を上げると、
私はなんだか中途半端なお辞儀の途中みたいな姿勢で取り残されて、隣にはハンドルを握ったままの自転車。
クールに躱されたような、何か大事なことを託されたような。
不思議な気持ちのまま、しばらくお兄さんの去っていった向こう側を眺めてしまっていたけど、カバンの中で鳴り出したスマホの通知音で我に返った。慌てて確認すると、お母さんが帰宅を急かしていた。
そのメッセージに返信をしながら、自転車を押して歩き出す。
ああいう兄妹もあるんだな。なんというか、私にお礼を言うお兄さんの目はとても暖かかった。キズナちゃんに見せてもらった写真の、クラブで人に囲まれてクールな表情をカメラに向ける姿とは違う、優しいお兄さんの顔だった。
私なんかが口を挟まなくても、最初から大丈夫だったんじゃないだろうか、あの兄妹は。今更にそう思うと、拍子抜けな気もする。
なんだか急に家が恋しくなってきて、私はサドルにまたがり直した。
夜の町を漕ぎ出した。雲間から笑う月に照らされながら。
〈続く〉
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