第20話 かつて私のいた暗がり

 私は、やっぱりもう帰るって言ったんだけど、なかば無理矢理みたいな形で『CLUB .st』にそのままいさせられた。

 オーナーの遠藤さんにしつこく粘られて、チケット代はいらないから、サクラでいいから、とまで言われちゃ断りづらい。あんまり売れてないのかな、チケット。変に心配してしまう。


 まあでも、実際、久しぶりの空気を感じてみるのも悪くないのかもしれない。開場からだんだんと増えていく人込みを、カウンターのスツールに腰掛けて眺めながら思う。


 集まってるのは、デイイベだけあって、若い人たちがほとんどだ。私と同じような高校生連中とか、暇そうな大学生とか。男も、女も、色んな服装で、色んな髪色して、ピアスして、化粧して、笑って、群れて、酔えないソフトドリンクを片手に暗がりに身を浸している。


 みんな、生きている。


 どこかで平日も学校に行ったりしていて、日々の生活を過ごして、ときどきこうやって、都会の片隅に開いたホラ穴みたいな場所に踊りに来るんだ。いつもの日常にない感情を求めて。音と光が作る異世界に憧れて。


 空気がスモークでよどんでくる。徐々に低音がビートを形作っていく。煙と光の奥で、眞一郎さんがDJ卓を操っている。DJは指揮者だ。眞一郎さんがタクトを振れば、きっとフロアが沸いて、首や腕や体が、縦に横にと揺られる。


 傍で見ていて、なんだか現実感がない光景だった。夢みたいな。そう、いつか私もここに憧れていた。


 自分が自分でなくなる暗がり。日常から離れられる空間。


 そこは、特別な何かが起こる場所。


 一瞬、フロアを照らすレーザー光の中に、何かがギラッ、と瞬いた気がした。私には、それはツバサの〈イーライ・ホップ〉に見えた。


 あの日見た、夕焼けの〈イーライ・ホップ〉。暮れなずむ教室の中で、一人、妖精と戯れていた少女。ベアリングとストリングの乾いた音。妖精は、ヨーヨーだった。魔法使いの少女は、同い年の女の子だった。あの日心を奪われた光景が、目の前に浮かんだ気がして、瞬きした隙に消えてしまった。


 目をこする。いまのは何だったんだろう。再び見開いてフロアを見渡したけど、消えた幻影は戻ってこなかった。


 音が止んだ。一瞬、梅雨の晴れ間のように空間の輪郭が戻ってくる。ざわめき、てんでばらばらに踊る影。ライトに照らされる顔。人の気配。たくさんの。期待の波のようなもの。


 突然、爆音でビートが帰ってくる。わっとフロアが盛り上がる。ぶわ、と体が振動する。あちこちで獣の様な歓声。みんなアガってる。気が付けば、クラブイベントがもう始まっている。


「どうだい、キズナちゃん。久しぶりのクラブは」


 いつの間にか、バーカウンターの中には遠藤さんが立っていて、相変わらずミネラルウォーターの入ったロックグラス片手に笑顔を浮かべている。


「眞一郎も腕を上げてるな。良い感じに盛り上がってる」


「なんか、こんな風に外側から見てみたことって、無かったかもしれません」


「はは、そうか。そうかもなあ」


 遠藤さんはグラスをカウンターに置いて、フロアを見渡す。なんか、どこか眩しそうで羨ましそうだ。


「楽しそうだろう。あのなあ、クラブでもなんでもいいんだ。日常を離れられる瞬間っていうのは、必ず必要なんだよ。特に、育ち盛りの君らみたいなのにはな」


「日常を、離れる」


 そうだ。リアルは日常の中にだけあるわけじゃない。私の非日常、私のトクベツ。


 何が、私を駆り立てる?


 遠藤さんは懐かしむような表情で私を見た。


「学校や家庭だけじゃ、息苦しい時もあるだろう。いつかはそこに帰っていくんだろうけども、時には離れてみるのも大事なもんさ。世界観を広く、大きく持ちなさい」


 そこで言葉を切ると、グラスを持ち上げて豪快に笑いながら、


「なんてなあ、ダメだな。若い子相手に説教くせえこと言い始めたらオッサンの始まりだな!かっはっは!」


と破顔してみせる。


「ま、好きなだけいなさい。途中で抜けても構わないからさ。あそこのドアマンに言えば出られるからな」


「うん、ありがとう、遠藤さん。なんか、私つかめそうな気がしてきた」


 遠藤さんは片手を上げながら背を向けた。


「礼ならあそこでお皿回してるやつに言ってやんな」


 DJブースの眞一郎さんを差してそう言って、遠藤さんは奥の扉へと引っ込んでいった。


 くすっ、と笑いながらそれを見送る。


 ドリンクチケットで頼んだジンジャエールのグラスは汗をかいていて、氷がすっかり溶けてしまっていた。


 いま、私の目には光が見えかけている気がする。まだ遠くて、はっきりしていなくて弱弱しいけど、でも手を伸ばす価値がそこにはきっとある。


 暗がりで、耳を押しつぶすような音量が満ちるフロアを眺めながら、この一ヶ月のことを思い出していた。


 梅雨入りの日、ツバサと出会った。あの夕焼けの教室で出会った美しい光景。今でも鮮明に焼き付いている。


 今なら、それがツバサが手遊びでやっていた何でもない〈イーライ・ホップ〉だったって分かるけど、私の心にはビビッドな衝撃だったんだ。色を失いかけていた私の日常に、新しいリアルが飛び込んできたんだ。


 それを、思い起こすんだ。それを、感じさせるんだ。


 もう、分かっていた。


 あの時の感動、ツバサのヨーヨーの中に私が信じる感動を、観客に突き付ければいい。あのワクワクする場所まで、皆を連れて行ってしまえばいい。


 私は確かな希望を胸に感じながら、フロアを後にした。


 表に出て浴びた陽の光は、ここに入って来た時よりもずいぶん眩しくて、私は目を細めながら、思わず笑みをこぼしていた。


* * * *


「なるほど、考えたわね」


 明楽店長は腕を組んで、笑顔を浮かべて唸った。


 私と店長の間のテーブルには、私が書いたステージの演出プランの草案が乗っている。


「どうです。これなら、実現可能じゃあありませんか?」


「そうね、このやり方なら、もしかするとあの子も首を縦に振ってくれるかもしれない」


 そう言いながら、でも、と明楽店長は続ける。


「このプラン、あなたの負担がかなり大きくない? ジュニア大会の練習もしながらだと、かなりキツいわよ」


「大丈夫です。キツいスケジュールには慣れてますから。それに」


 テーブルに肘をついて、ずい、と私は身を乗り出す。


「私、あの子に言ったんです、本気だって。そして、魂を賭けられるものを、いま手にしている感じがするんです。大げさだけど」


 そんな私を眺めて、明楽店長の目の奥の色が変わった気がした。なにか、眩しいものを見る目をしていた。


「やってみなさい。構成の粗案が出来たら報せるわ。あと、あなたがやるべき大事なことは」


と、明楽店長は人差し指を立てて、その指を私に向けて真っすぐ差す。


「あの子をその気にさせることよ。浅葱ちゃんにしかできないこと。ツバサを口説いてきなさい」


 そう、それが今のところ、最も難関なハードルだ。


 だけど、


「はい。気持ちをぶつけてきます。必ず、ツバサをうなずかせて見せます」


 私は迷いなく、大きな自信をもって首を縦に振った。


〈続く〉

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