第三部 初めてのショップ
第13話 浅葱家の洗面所と練習の成果
サイッアク。
いつものように朝ごはん食べて歯を磨いていたら、後ろから兄貴が顔を覗かせた。
最悪なのは、鏡に映ったその恰好だよ。上下黒のリクルートスーツ。白いワイシャツに爽やかな青いストライプのネクタイなんか締めちゃってさ。似合ってないっての。極めつけは、その髪色。黒々とした黒だよ。あれだけこだわりもって綺麗に脱色してたホワイトブロンドを、いとも簡単に染めやがった!
一昨日、九凪さんと別れて家に帰ってきてマジでびっくりした。だれ、あんた? って、すんでのところで言いとどめたよ。
「おう、おはよう」
「…………」
視線を鏡の中の自分に移して歯ブラシを動かす。あんまり視界に入れると腹立つから、なるだけ無視しよう。うん。
「おい、歯ブラシ取れねえんだけど。よけろよ」
「…………」
無言で脇にどく。歯磨き粉のチューブを絞る兄貴が、ちら、とこちらを見た。
「最近、帰りが遅いらしいじゃねえか」
「…………」
歯を磨いて無視。シャコシャコシャコシャコ。
「どこにいたんだか知らねえけど、母さん心配させんじゃねえぞ」
「…………」
何を言うかと思えば。
学校からの帰りが遅くなることはお母さんにはちゃんと知らせてるし、理由も詳しく話してる。きっと、断片的に聞いた情報からお節介を焼こうとしてるんだろうけど。つーか、気になってんのは兄貴じゃん。お母さんをダシにすんなって。
私が黙っていると、兄貴も無言になってシャコシャコやり始めた。けど、その目がふと、私の右手に止まった。
「お前、その指どうした」
兄貴が、私の右手中指に巻かれた絆創膏に気がついて、眉を顰める。声に険がこもっているのは、きっと、ケンカか何かのせいとでも思ってるんだろう。実際はヨーヨーを週末に一日中練習してたからなんだけど、わざわざ説明するのも面倒くさい。放っておくことにする。
「おい、お前本当にどこ行ってたんだよ」
「うるっさい。こっちは歯ぁ磨いてんの。話しかけないでくれる?」
勝手に指に触れようと手を伸ばしてきたから、振り払って、ギロ、とひと睨みする。
「あと、ジャマ。蛇口使うからどいて」
肘で兄貴を押しのける。渋い顔をしつつ下がって、兄貴は黙って歯磨きを再開する。
すすいだ口元をタオルで拭いて、洗面所を出て行こうとすると、「お、そうだ。ちょっと待てキズナ」と泡だらけの声で制止された。
「なに? 朝は忙しいんだけど」
「待てよ。すぐ済むから」
そう言って、スーツの内ポケットから茶色い封筒を取り出して、私に突き出す。
「これ、ギャラな。最後のやつ、お前の分」
受け取ろうと伸ばしかけた手が、びくり、と止まる。
ギャラ。最後のやつ。
私がユニットで、音楽とダンスで頑張ったその対価。その、最後のひとかけら。
「どうした、受け取れって。忙しいんだろ」
「……るっさい」
奪う様に封筒を兄貴の手からもぎ取った。受け取った厚みが、いつもよりも重く感じた。
「返事は」
「……ありがとうゴザイマス。つか、朝の洗面所でお金渡したりする? フツー」
兄貴は変なところで厳しくて、ギャラを受け取ったら、家族だろうと必ず相手にお礼を言えとうるさい。
「お礼ついでに教えといて上げるけど、スーツのまま歯磨きすると、跳ねて白く汚れるからやめときな」
去り際にそう言って、洗面所を去る。受け取った封筒は、すぐに開く気にもなれなくて、だけど置いていくのもなんか嫌で、とりあえずそのまま通学のリュックに雑に突っ込んだ。
これは、ひとつの活動が終わった証なんだ。そう思うと、いつものリュックの底に鉛でも入れたような重さを感じた。
ローファーを履いて、玄関を出る。
「行ってきます」
「おう」
洗面所から、髪をセットしている兄貴の声。
ああ、朝からなんだか複雑なキブンだ。
* * * *
二限の後の休み時間、トイレの帰りに廊下でツバサを見かけた。
「お、やっほ。ツバサ」
「わ、あ、さ、えっと、キズナ、ちゃん」
片手を挙げて挨拶すると、ツバサも小さく返してくれる。
「呼び捨てでいいっていってるじゃんか」
「いや、それはいきなりは、あの、そのうちね……」
この前の全国大会の日から、互いに名前で呼ぶようになったんだけど、なんか、そうなったらそうなったで、また余所余所しくなった気がする。仲良くなっていけているとは思うんだけどなあ。ハグもしたし。
こうして日中に会うツバサは、なんだかいつも以上に小さく見える。きっと、本人から醸し出される消極的なオーラがあるせいだと思うけど。
なんか、信じらんないね、この子が全国大会のステージに立って、百人以上の前で堂々と演技したっていうんだから。
「あ、そうだ。私ね、あれからずっと練習しててさ、ヨーヨー。教えてもらったトリックは一応出来るようになったから、見てもらいたいんだよね」
「わっ、あ、キズナちゃん、ちょっと待って……!」
「ん?」
さっそくヨーヨーの話題を持ちかけたら、何故か慌てて遮られた。
「あの、こういう場所でその話は……」
「その話って……ヨーヨーのこと?」
何故か声のボリュームも小さくなって、私たちは顔を寄せて囁き合う。
こくこくとうなずくツバサ。どうやら、人目がある場所では話題にしたく無いようだ。なに、危険なブツか何かなの? ヨーヨーは。
でも、とにかくあまり誰にも聞かれたくないらしく、ヨーヨーの話をしようとすると、しきりに周囲に目を配っているし、なんかめちゃめちゃ警戒してる。
しかたないから、「まあ、この話は放課後にしよっか」と言うと、露骨にホッとした顔でこくこく首を縦に振る。うーん、消極的を過ぎて、ちょっと気にしすぎかも。変に注目されたくない気持ちも分からないでもないけどさ。
そこでチャイムが鳴り、廊下が慌ただしくなった。
「じゃ、また放課後にね」
「う、うん、また! その時に見せてもらうから!」
片手をあげて、私たちはそれぞれの教室に戻る。
* * * *
「すごい! 本当にうまくなってる!」
放課後の空き教室に、ツバサの声が上がった。
私は、左手につけていたルーピングヨーヨーをキャッチして、ツバサに向けてピースする。
「どう? 土日ずっと練習してたんだよね」
「まさか、たった二日で左手の〈インサイド・ループ〉までこんな綺麗に出来るなんて! びっくりした!」
すると、ツバサが中指の絆創膏に気が付く。
「キズナちゃん、その指ひょっとして」
「ああ、これ? ちょっと張り切り過ぎちゃって、紐の跡がついちゃったからさ。こうして絆創膏を張って痛くないようにしてんだ」
苦笑いで説明すると、ツバサは後悔した表情になって、
「先にあれを渡しておけば良かったなあ。まさか、こんなに練習してくれるなんて思ってなかったから……」
ぶつぶつ呟きながら、カバンを漁って、青い布テープの様なものを取り出してきた。
「これ、フィンガープロテクターっていって、こうして指に巻いて痛くないようにするの。練習のとき、特に長時間するときとかに巻くといいし、ルーピングだったら短時間でも巻いておいた方がいいかも」
「あ、ありがとう……」
私の返事がちょっと押され気味なのは、またもやツバサがぴったりくっついて来て、おもむろに私の手を取って指の絆創膏を剥がしてきたから。この子、ヨーヨーがらみだとホント強いよな。距離感バグるし。ツバサはそのまま私の指に、分厚いガーゼの様な青い布テープを巻いてくれる。
「お、これは……痛くない! ……わけじゃないけど、大分楽だわ」
「もう、結構痕になっちゃってるからね。最初から着けておけば、痛くならずに練習できるよ」
二、三度ヨーヨーを投げてみて、プロテクターの効果を実感する。なるほど、こういう練習用の周辺グッズもあるわけだ。
「よく見たら、どっちもストリングがボロボロじゃない」
私のヨーヨーを手に取って、ツバサは紐を伸ばして蛍光灯に透かした。二日間の猛練習の結果として、黄色の紐はすっかり傷み、ほつれで糸がぼさぼさな状態になってしまっている。
「本当に、たくさん練習したんだね」
ツバサが、こっちを向いて、柔らかに笑う。嬉しそうにしているときが、一番かわいいんだ、この小動物ちゃんは。
「ねえ、せっかくだし、お店に行こうか」
〈続く〉
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます