8 「愚かにも、君を」
特に何も言われないで、承諾してくれると思ったのに。
あの手紙を出したあと、早馬で返事が帰ってきた。そのことについて話がしたいと。顔は合わせない、扉越しでいい、だから話をしてほしいと。
「なんなんだろう……私がそのまま実家に引き籠もるとでも思ってんのかしら」
話をするためになるべく早く帰るようにする、とも書かれていたので、寝ることもできない。
ので、ベッドで本を読んでいると、コンコンと、寝室同士を繋げる扉が、案外早い時間に叩かれた。
「はい。起きてますよ」
「その、本当にここは開けないから、話をさせてくれないか」
なんか切羽詰まった声だけど、なんなんだ。
「……分かりました。で、私の手紙のお返事は?」
「……」
答えてくれない。
「聞こえていますか?」
私は扉へ近寄り、少しだけ声を大きくする。
「き、こえて、いる……。……リリア」
「はい」
「……本当に、帰ってきてくれるか……?」
「はい?」
これは、まさか、まじで。
「旦那様。ないとは思いますが、私が実家から帰ってこない想定とかしています?」
返事がない。
「あのですね、返事がないので勝手に喋りますけど、私は両親に一言物申したいだけです。それと、随分会ってない弟の顔を見たい。目的はそれだけです。ご理解いただけましたか?」
「じゃあ、本当に、ここに戻ってきてくれるのか……?」
その声は、今にも泣きそうな声で。
「何をそんなに不安がるんです。今、私は曲がりなりにもバウムガルテンの公爵夫人です。あなたの妻なんです。この家をほっとく立場にないことくらい理解しています。手紙にも、期限を決めて戻ってくると書いたじゃありませんか。私にはそんなに信用がありませんか?」
「いや、信用、は、しているが……」
「が?」
「……私は、君に、辛い思いをさせてきたから……」
……。扉越しの話がめんどくさい!
「円滑に話すために一度だけ扉を開けます」
「え?」
夫の戸惑った声を無視して、扉を開ける。この扉は私の部屋からすると内開きになるので、思いっきり開けても問題ない。と思った私が甘かった。
「うわっ?! っ!」
「ひゃっ?!」
扉にしなだれかかっていたらしい夫が、扉を勢いよく開けたために前のめりに倒れてきた。私はそれに覆い被さられる形になって、床に背中を殴打する──はずが、衝撃が来ない。
「……?」
思わず身を固くしてつぶっていた目を開くと、目の前にはぶつかりそうなほど近い碧い色。それが夫の瞳だと理解するまで、数秒かかった。
そして、背中と腰に回された腕の感触を認識する。
どうやら、夫が素早い動きで私を抱え込んだらしい。さすが騎士団の……まあ、そこはいいか。
「軽率な行動でした。すみません。庇ってくださりありがとうございます」
夫がピクリとも動かないので、そのままの体勢で謝罪と感謝を述べる。だが、まだ、夫は呆けた状態で、動かない。
「旦那様。……旦那様? 聞いてらっしゃいますか? その耳、ちゃんと機能してますか」
本当に動かないので耳を引っ張ってやると、
「……あ、あ、え、あ……あ! 大丈夫か?! 怪我は?!」
動き出したので耳から手を離した。
「全くの無傷です。旦那様が助けてくださったおかげです。ありがとうございます」
「ああ……そうか……良かった……」
あの、そのまま抱き締めないでいただけます?
「無事で……君に何かあったら……私は……」
「……」
本当に安心したような声で言うものだから、拒否の言葉をためらってしまう。まあ、これは私の非であるし、反省の意味も込めて、少しはこのままでいよう。
てか、またスーツだな、この人。やっぱり仕事を持ち帰ってきているのか。
「……」
「……」
「……」
「……」
長い。
「旦那様、そろそろ離してくださいますか」
「あ、……そう、だな。すまない……」
けれど、夫は私をそのまま抱き上げた。なぜ。
「旦那様? 私は離してくださいと言ったのですが」
「だが、あのままだと床に座らせることになってしまうだろう。そんなことはしたくない」
で、私の部屋のベッドまで連れて行かれ、壊れ物でも扱うようにそっと降ろされた。
「……ありがとうございます」
なんだか悔しさが込み上げてくるが、それは表に出さず、
「で、話の続きなのですが」
「え、その、扉越しでなくていいのか?」
今さら扉越しもへったくれもあるか。
私は狼狽える夫を睨みつけ、
「良いです。今日はもう特別です。で、何をそんなに心配してらっしゃるのですか」
夫は私の目の前に立ったまま、言葉に詰まったような顔をして、視線を斜め下に向けた。
「……その、言っただろう……? 君には苦労を……苦痛を強いてきたと。だから、ブランケの家に戻ったら、君はもう、苦しみから開放されたと……なって……戻ってきてくれないんじゃないかと……」
あり得ないと思った想像が当たったぞ?
「……旦那様」
私は立ち上がり、
「っ、?!」
パチンと夫の両頬を叩くように手で挟んだ。
「私は必ず帰ってきます。この家に、あなたのところに。一時休戦していますが離婚についてはまだ決着がついてないのですよ? 私がそれを放り投げるとお思いで?」
「いや、その」
「では、理解していただけましたか?」
夫の顔がまた不安そうに歪む。まだ駄目か。
本来の夫婦なら、ここで愛の言葉の一つでも言えば丸く収まるのだろうけど、生憎私はそんなことを言うつもりはない。
「……では、帰りの日に迎えを寄越してください」
「迎え」
「ええ。私は迎えに粛々と応じ、この家に帰ってきます」
「……本当に?」
「ほ・ん・と・う・に! 何をそこまで……。……?」
碧い瞳の奥に、怯えが見えた、気がした。
「……何を怖がっているのですか」
言ってみれば、夫は虚を突かれたような顔になって、徐々に顔を俯け、口を引き結んだ。
「……怖がって、いるのだろうか……いるんだろうな……私は情けない人間だから……」
なんか語りが始まった。本心を言えばもう寝たいんだけど、その重い空気を読み、私は口を挟むのをやめる。
「……母も私が十になる前に死に、父も私が十七になってすぐ死んだ。……呪いもあって、私は永遠に一人で生きていく運命なのだと、思っていた……」
声が、震えている。今にも泣きそうに。
……心の傷。この人も心の傷を負っている。どちらが上とかそういう問題じゃない。いつ癒えるか分からないものを持っていることが問題なんだ。
「だが、愚かにも……愚かにも、君を、望んでしまった……そして、私が馬鹿で浅はかなせいで、君を傷つけた……」
夫は、私の両手を、上からそっと自分の手で覆う。壊れ物に触れるように。ガラス細工に触れるように。
「君に……嫌われているのは承知している……離婚の話もちゃんと考えている……けれど、やっぱり、もう、愛してしまっている君を……君を、離したくない……目の前から消えてしまったら、遠くへ行ってしまったら、もう、二度と会えないんじゃないかないと、思えてならないんだ……」
心の奥底、深い深い、誰にも見えない場所。この人は、ずっと、そこに、未だ血が滴るほどの傷を抱えている──
無意識だった。頬に添えていた手で俯いているその顔を自分に向けさせ、引き寄せて。
「っ……?!」
驚いている、鼻が触れそうなまでに近いその顔を見て、数秒。
「?!」
私は我に返って、夫の顔から、というより夫自身から距離を取り、ベッドに上がって最大限彼から離れた。
「い、今のは忘れてください! 事故です! 衝突事故! はい! この話は終わり!」
頬に熱が集まってくるのが分かる。そして夫も同様に、顔を真っ赤にしていた。
「じ、事故……て、今、キ、ス……」
「それ以上言わない! この話は終わりと言いました! 終わりです! おしまいです! さあ部屋から出ていってください! あ、この話は誰にもしないでくださいね! したら怒りますからね!」
何やってるんだ私は?! いやそれよりも最優先すべきは、この人をここから出すこと! ぼうっと私を見つめたままのこの人を、即刻この部屋から出すこと!
「早く出ていかないと、侍女を呼びますよ?! ベルンハルトの方が良いですか?!」
「あ、いや、ベルンハルトは……この状況を見ただけで全てを察すると思う……」
「……」
ベルンハルトめ。
「……はぁ。分かりました。先程は取り乱しました、失礼しました」
私はベッドから降りると、何でもないように、何事もなかったように夫に近付いていく。
「え、え、え」
そして夫の目の前まで来ると、
「ほら、早く戻ってください。お仕事を持って帰ってきているんでしょう? なるべく早く終わらせて、少しでも寝て、体調に気をつけて朝を迎えてください」
彼の顔を見て、腰に手を当て言う、が、夫は赤い顔のまま狼狽えて、そこから全く動かない。相当に混乱しているようだ。
「ほら、戻る」
「えっ」
私はまたいつかのように、夫の体をグイグイ押して、夫の寝室まで追いやると、
「では、おやすみなさい」
扉を閉めた。
「……」
そして、扉からくるりと背を向けて、ベッドへとまっすぐに進み、ベッドに上がり、掛布にくるまって。
「……なにしてんのこの馬鹿……」
熱くなった顔を両手で覆い、唸った。
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