第3話

 決死の覚悟で実行した賭けに陽貴は勝ち、勇者と魔王の戦う間からアトリエに無事帰還すうことに成功した。

 うだるような暑さが戻り、小学生の元気な声もかすかに聞こえる。

 冷たく硬い石畳の感触も温かな木板の軋みある感触に。


 諸々の情報が陽貴の頭のなかでようやく簡潔して、陽貴は緊張の糸がプツンと切れ、その場でへたり込んでしまった。うつむいた視界の端にキャンバスがあった。


 陽貴はおそるおそるそれを覗き込む。勇者と魔王、やはりさっきまで見ていたのは、そこに描かれていた二人だった。光ってはいない。光っていなければ普通、というには精巧過ぎるが、常識の範囲内に収まる、ただ目を引くような絵だった。

 

「大丈夫か?」


 怖さよりも好奇心が勝り、陽貴は人差し指でちょこんとキャンバスに触れた。

 しかし何も起こらない。二度、三度と繰り返すが結果は同じだった。


「白昼夢、だったのか?」


 陽貴は誰が答えてくれるわけでもないが、問いを零した。答えの代わりに、喧しい蝉の輪唱が返って来る。


 しばらくして陽貴が立ち上がると、床にコロンと籠った音を立ててなにかが転がった。陽貴は音に釣られて目を向ける。そこにあったのはなにかが割れてできたように表面の粗い小石だった。


「やっぱり夢じゃなかったんだ!」


 陽貴は腹の底から湧き上がる得も知れない興奮を感じた。それはだんだんと頭に伝わっていき、手に移り、足を突き動かす衝動となった。

 興奮冷めやらぬまま陽貴は急いで戸締まりすると、汗をかくことも息が切れることも気にせず、自分の家まで自転車をかっ飛ばした。



   * 



 夜、陽貴の父が帰宅した。


「ただいま」

「おかえりなさい」


 陽貴の父はネクタイを解きながら、妻の陽子に訊ねた。


「陽貴は? 今日はお義父さんの家の掃除に行ったんだろ?」

「あー、それね。ちゃんと行ってやってくれたみたいなんだけど……」

「歯切れが悪いね。陽貴がなにかしたのかい?」

「いえ。悪いことしたってわけじゃなくて」


 キッチンで料理に動かしていた手を止めて、陽貴の部屋がある二階を見上げた。


「帰って来てからずっと部屋に籠ってるのよ。お昼ご飯も食べていないし」

「何時に帰って来たんだい?」

「十二時半くらいね」

「今夜の七時だけど⁉ なにをしてるんだい陽貴は」

「ちらっと覗いたら絵を描いてたわ。お父さんの絵を見て触発でも受けたのかしらね」

「はぁ~、凄いね。凄いけど、夕飯の時間には呼びに行こう。さすがに体に悪いからね」

「そうね」


 陽貴の父と陽子は見つめ合って笑いを零した。



  *



 一方で陽貴は一心不乱に絵を描いていた。エアコンを効かせ、カーテンを閉じ、日が落ちて暗くなっていることにも気が付かないほどに。画材がデジタルだったのも、暗くても作業ができるということに影響していた。


 かれこれ約六時間半。陽貴が描いたいたのは、当然勇者と魔王の戦いのシーンだった。

 恐怖に足が竦み、焦りが頭を鈍らせても、あの戦いは陽貴の心に鮮明に焼き付けられていた。心で覚えたその光景を、陽貴はフィルム写真を現像するように手を動かしていた。


 陽貴がここまで没頭するのは久しぶりだった。

 

 陽貴が絵を描き始めたのは物心もない頃だ。陽貴自身は憶えていないが、きっかけは祖父の陽雄だった。陽雄が絵を描く横で、おもちゃの代わりに筆を持ち、絵の具を意味もなく白紙にこすりつけていたのが始まりだ。


 それから何かを描くということするようになったのが幼稚園生の頃で、その後も好きなように好きなものを描いていた。しかし、それが崩れたのは同学年の子の何気ない一言だった。


「写真でよくない?」


 スマホを片手に放たれたその言葉は、陽貴から筆を動かす力を奪い去った。悲しかったわけでも、怒りが湧いたわけでもない。そんなものが起きないほど無気力にされたのだ。

 

 それでも陽貴が絵を描くことを完全に止めたわけではなかった。ただ、それまで無限のように描くことのできた体力がなくなってしまったのだ。まるでシンデレラにかけられた魔法が解けてしまうように。


 しかし陽貴はこうして今、描きたいと思えるものに出逢い、かつてのように絵を描くことに夢中になっていた。魔法が戻ったのだ。


 そんな陽貴に陽子が声をかける。時刻は二十時だった。


「陽貴。そろそろご飯よ」

「ちょっと、あとちょっとだから」

「昼飯も食べてないでしょ。食べたら好きなだけ描いてていいから、夕飯は食べなさい」

「でも」

「でもじゃない!」

「……はい」


 夕飯の最中も陽貴の頭のなかは絵のことで一杯だった。陽子たちとの会話は心ここにあらずで空返事ばかり。久しぶりに見たその状態に陽子たちも怒るに怒りきれなかった。

 夕飯後はシャワーで汗をちゃっちゃと流し、髪を乾かす時間も惜しんで自分の部屋に駆け戻り、机にかぶりついた。


 一枚描き、二枚描き、三枚描き。陽貴の衝動が治まったのは、夜のほどろ、空が明るくなり始めた頃だった。


 晴れやかな気分でベッドに仰向けで倒れ込んだ陽貴は、額に腕を当て、天井を見つめる。


「いまさらだけど、なんだったたんだ?」


 それは本当にいまさらすぎる疑問だった。

 ただ、陽貴にとっては二の次の問題だっただけで。


「夢、じゃなかった。あんなはっきりとした夢みたことないし、いつもはすぐ忘れる。やっぱり魔法なのか? でもなんであんなものがおじいちゃんのアトリエに。それに、あのタッチは絶対におじいちゃんだった。じゃあ、あれはおじいちゃんが?」


 考えても考えても答えは出ない。迷宮みたいな疑問に陽貴は答えに辿り着くことができず、一晩中絵を描いていた疲れからか、気が付かないうちに眠ってしまっていた。







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