第五十九話 降り注ぐ障害 ⑦
多分僕が柱に登った時点でわざわざ一番近くにまで走ってきてくれたんだと思う。
競技が始まる前に会場をぐるっと見回した時、僕は
こんな最前列にいたのなら、さすがの僕も気が付く。
どこかで配信くらいは見てくれていればいいなと思っていただけに、こうやって直接見てくれていたというのは正直すごくうれしい。
……まぁ、僕を見に来ていたって確証はないんだけどさ。
ほら、お姉さんを見に来たって考えるほうが自然な気もするじゃん?
「……手、見せてください」
「え?」
「早く!」
「は、はい!」
あまりにも不満気な顔に、まるで降参でもしたように両手を上げる。
「む……」
言われた通りにしたはずだけど、夜空谷さんの目はまだ不満気だ。
なんでですか……。
「どうして手をグーにしているんですか?」
「いや、それは……」
自分の手を見る。
拳にしているからわかりにくいけど、少し見える部分だけでなかなかにグロイ感じになっている。
そりゃ、荒いやすりで手を削りまくったようなものだし、こうなっているのは僕の行動の結果として当たり前なんだけど……。
あんまり夜空谷さんに見せたい手じゃないんだけどなぁ。
「「あ……」」
僕たちの声がシンクロする。
傷が塞がっているわけでもないのに手を上げたせいで、握った拳の中では収まりきらなくなった血が腕を伝って来てしまった。
垂れる血を見て、夜空谷さんの顔が露骨に曇る。
慌てて手を隠しながら、僕は言い訳を並べ立てることにした。
「いや、派手に血は出てるけど全然平気だから!」
「……言い訳は後で聞きます」
「いや、ほんとだって! 痛くもないし!」
「後で聞きます」
「……怒ってる?」
「……後で、言います」
少し俯いているから表情は見えにくいけど、絶対に明るい顔にはなっていない。
まずったなぁ……。
けど、ここで出来ることなんて何もないんだよなぁ……。
騒がしいドームの中にいるはずなのに、怖いくらいの静寂が僕たちを包んでいるようだった。
何を言っていいのかもわからず、でもこの場から離れることも出来ず、ただ気まずい時間が僕たちの間を流れて──
ワァァァァァァァァァァァァァァ!
一際大きな歓声が上がった。
助け船が来てくれたように、僕は少し忘れていたお姉さんのほうへと声につられる形で視線を向ける。
「え⁉」
素っ頓狂な声が出た。
追い抜かれたんだろうとは思っていた。
じゃなきゃ歓声が上がる理由なんて他に思いつかない。
実際、僕が見たのは先頭に躍り出たルナさんがソリから降りようとしているところだった。
それはまだいい。
ルナさんは何だかんだお姉さんの数秒後ですぐ追いついていたし、お姉さんが追い付かれ抜かれていくのは仕方のないことだ。
でも、お姉さんはルナさんどころか後続全員に追い抜かれ、最後尾にまで陥落していた。
しかもまだソリがゴールに到達すらしていない。
「そんな苦戦するほど難しい競技だったかな⁉」
ごぼう抜きされているのは流石に想定外すぎだよ!?
ここまで来るとお姉さんの運動能力が低すぎるというより、何かトラブルがあったって考えるほうがむしろしっくりくる。
トップからビりにまで落ちたからなのか、お姉さんの様子がモニターに映し出された。
『怒涛の活躍を見せた
実況の人の声が響く。
その直後のお姉さんの顔を見て、僕はお姉さんがごぼう抜きされた原因に気が付いた。
お姉さんの顔は明らかに強張っていた。
汗も凄い。モニター越しでもわかるほどお姉さんは汗を滴らせている。
もしも僕が競技に参加せず観戦だけしていたなら、これが運動してこなかったツケなのかと呆れていたかもしれない。
でも、今の僕ならあれが何なのかわかる。
極度の緊張とプレッシャー。
ターザンロープの時に僕も感じたあの重圧がお姉さんにも伸し掛かっているんだ。
……いや、伸し掛かっている重圧は僕以上か。
実況の人も言っていたけど、僕が色々と目立った直後だ。
その僕からバトンを引き継いだという注目。
僕と同じようにお姉さんも何かするのではないかという期待。
そして、その期待に反した活躍による落胆。
そんなものが注がれたらどうなるかなんて誰だってわかる。
お姉さんはもう体を動かすのもやっとというくらい、ガチガチに体が固まっているはずだ。
「空森君!」
モニターに映ったのだから、当然その様子は夜空谷さんも見ている。
古奈橋さんの様子がおかしい。だから助けてあげてください。
夜空谷さんの目は僕にそれをお願いして来ていた。
でも、下唇を噛む夜空谷さんの口から言葉としてそのお願いが出ることはなかった。
たった今、僕の手の怪我を見たばかりだ。
そんな僕にさっさと後を追えと夜空谷さんは言うことが出来なかったんだと思う。
優しいなぁ。
「任せて!」
だから、僕は言葉にされなかった真意をちゃんと汲み取る。
見方を変えれば、夜空谷さんが僕を頼ってくれたようなものだ。
それに応えなくちゃ、彼氏の名が廃るってものでしょ!
モニターの端に映っていたカウントがゼロになった。
あれが僕のクールタイムだったはずだ。
つまり、今この瞬間、僕はもう一度競技の参加権を取り戻した。
「やれるだけやってくる!」
すでにソリの残っていない滑り台の上を僕は全速力で駆け出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます