第三十五話 心を鍛えよう ⑤
あの馬鹿の後ろ姿が見えなくなり、拙僧と
「行っちゃったっすね」
拙僧と同じ方向を見ながら、茅ヶ崎がそんなことを言ってくる。
やれやれ、拙僧を軟弱呼ばわりしておきながら、あいつも大概ひどいものだ。
まぁ、あいつが物事から逃げるのは普段からか。
あいつのあれはもう治る気がしない。
いやだが今にして思えば、ここであいつの心を鍛え切れていれば、教室から脱走することもなくなっていたかもしれないのか。
その部分だけに関しては逃がしたのは失敗だったかもしれないと後悔が残る。
「じゃ、ボクもそろそろ帰るっす」
「そうか」
そう言って、茅ヶ崎もその場を去ろうとした。
別に話すこともない。
拙僧もそのまま見送ろうと思ったが──
……まぁ、乗り掛かった舟か。
敵かどうかくらいは見極めておいても損はないだろう。
「あいつは
グリッと目だけが拙僧を射抜いてきた。
だが、その目はすぐに上っ面な笑顔で塗り潰される。
「えぇ? なんのことっすか?」
「とぼけなくていい。さっきあの馬鹿も言っていただろ? 名前すら聞いてないって。制服からして拙僧たちが高等科の生徒ってくらいはわかるだろうが、それ以外の情報を拙僧たちはお前に話していない。だが、少なくともお前は
「いきなり探偵みたいなこと言うっすね?」
「空森を知らないまま、交渉材料に夜空谷の写真なんて出せるわけがないだろう」
茅ヶ崎の顔が苦々しく歪む。
「夜空谷に彼氏が出来た話は学年を超えて噂になっている。拙僧がつけてきたのか聞いたときに肯定していれば納得も出来た。高等科である拙僧たちならとワンチャンに賭けたと言ってもまぁ受け入れられた。だが、お前が何のヒントもないままに出したあの写真のやりとり以降でもお前の空森に対する対応が変わらなかった。写真に反応した空森を見たら『えぇ⁉ じゃあ本当に先輩が夜空谷先輩を落とした彼氏なんすか⁉』くらいのことを言っておくべきだったな」
言い返そうとしているようだが、別にこういう場面に慣れているわけでもないのだろう。
突発的に行動しているから、こいつの行動には矛盾が多い。
誤魔化し方の一つも心得ていないようだ。
だが、潔さは持っていたらしい。
更に墓穴を掘るならばそれも良しと思ったが、茅ヶ崎は肩を落とすとさっきまでの敵意を感じる目ではなく、堪忍した諦めた顔で拙僧を見返して来る。
「あちゃ~、やっぱフィクションみたいにはいかないっすね~」
「アンチ空森ってことか」
「う~ん……一応?」
てっきり即答するのかと思ったが、茅ヶ崎の歯切れはやけに悪い。
「情けない話っすけど、嫌いなタイプじゃなかったんすよね……。楽しい人だな~って思っちゃいましたし。あの夜空谷先輩が惚れちゃうのもわかるというか、夜空谷先輩と馬が合いそうだなって」
「実際に話してそこまであっさり考えが変わるなら、まずは相手を知るべきだな。あいつに恨みを持っているアンチっていうのも浅い奴らが多そうだ」
「実際そうかもしれないっすね。ほら、ここってそもそも男子がいなかったから、恋愛対象も女同士がほとんどだったんですよ。そんなもんで憧れと恋の区別がつかないみたいな。夜空谷先輩への感情の正体がわからないまま、空森先輩に盗られたって事実だけが先行しちゃって敵視している子も多いとは思うっす」
「あいつも難儀だな……」
洗礼とも言えるのかもしれないが、余計な壁が小さく立ちはだかっているわけだ。
「でも、本気で空森先輩を嫌いって人もいるのは間違いないっす。良くも悪くも目立ちすぎてますからあの人。面白く思わない人がいるのは仕方のない話っすね」
「で? 一応になったお前はその浅い奴らに説明でもしてくれるのか? 空森先輩は意外にも悪い人じゃなかったって」
「まっさか~。ただでさえ浮き気味なボクっすよ? わざわざ浮上レベル上げるわけないじゃないっすか」
「つまり、敵でも味方でもないわけだ」
「そうっすね。これからも顔を会わせたら話したいし、コス写に付き合ってくれるなら大歓迎っす。でも、表立って空森先輩を庇うことはしない。まぁ……卑怯な立ち位置にいようかなと」
バツが悪そうだが、別にそれを責めるつもりはない。
こいつにも居場所がある。いきなり生えてきた非常識な先輩に必要以上に巻き込まれたくないのは当たり前の反応だろう。
「ならいい。引き留めて悪かったな」
「いえいえ。それに良いもん見れたっすから」
にんまりと茅ヶ崎がいやらしく笑う。
「空森先輩がいないところでこっそり空森先輩を助けようとするなんて、やっぱボクの設定は間違ってなかったっす」
「間違いだらけだ、アホ。拙僧はただ余計なトラブルの芽を潰しておきたかっただけだ」
「そういうことにしておくっすよ。裏設定はあればあるだけお得なんすから!」
自分に都合よく解釈し、ニマニマする茅ヶ崎はやはりあいつの顔と重なって見えた。
この学園に来てから、拙僧は馬鹿に振り回される。
それが運命だなんて思いたくはないが……。
まぁ、退屈よりかはいいか。
そんな言い訳が出来る自分を律するべく、去っていく茅ヶ崎を無視して、拙僧は一人でいつものように滝に打たれ始めた。
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