第九話 自己紹介       ①


「大丈夫ですか?」

「らいひょうぶ。じほうじとくはひ」


 鶴屋つるや先生のお説教をたっぷりと受け、腫れ上がった僕の頬に夜空谷よぞらだにさんは心配半分、呆れ半分といった雰囲気で濡れたハンカチを当ててくれた。


 今は放課後。

 僕と夜空谷さんは学園に複数存在してる公園のベンチにいる。


 校庭じゃないよ。ここは紛れもなく公園だ。


 お嬢様完全隔離学園と言っても過言ではない百合咲学園の敷地は信じられないくらい広い。

 そりゃ、幼稚園から大学までここにいるんだ。建物だけでもかなりの数になるし、閉鎖空間に息が詰まって脱走を企てるような生徒が出てきても困る。


 だから、百合咲学園は敷地内に一般企業を招き入れている。


 言ってる意味がわからないかもしれないけど、ようはカフェだったり、服屋だったり、果てはカラオケ、ゲームセンター、行ったことはないけど遊園地まで学園の敷地内にある。


 それどころか、敷地内には道路や信号なんかも整備されていて、自動運転式の車まで走っている始末だ。


 僕たちがいる公園もそうだけど、ちょっと油断したら、ここが学園の中だということを忘れてしまうような景色が校舎をちょっと離れればどこまでも拡がっている。


 このどこまでもというのも比喩じゃない。

 ふざけた話に聞こえるだろうけど、そこまでしてでも悪い虫をつけたくないとお金持ちの親は考えるらしい。学園の中こそが至高と思えば、脱走なんて考えないだろうって。


 そんなことだから世間知らずのお嬢様が増えているんじゃないだろうかって気がしなくもないけど、その辺りの感覚はきっと僕たちとは絶対に噛み合わないだろうから割愛する。


 とにもかくにもそんな親御さんたちが学費とかとは別に寄付って形でお金を積んで、百合咲学園は敷地の拡大に合わせて、学業とは関係あったりなかったりする施設の増改築が日々行われているのだ。


 二十年近く学園から出ないで生活していて、行こうとしなかったんじゃなくて、ある程度普通にあちこち出かけていたにもかかわらず、それでもなお一度も行ったことがない場所があるのが普通とかいう意味わからないことになっているらしい。


 しかもその意味のわからない増改築に対して、自分の知らない世界がすぐ傍にあるというミステリアス感がお嬢様には堪らないらしい。

 これに関しても正直理解できないし、多分今後も理解することはない気がする。


 色々と規格外が過ぎるんだよ。学園の敷地を移動するのに徒歩より車が推奨される場合があるってなんなんだ。

 正直卒業したら、僕の感覚はもう庶民からズレてしまっているんじゃないかと少し戦々恐々としてしまう。


 とまぁ、長い状況説明をしたところで……。


 ここは僕たち高等科の寮から歩いて十五分ほどの位置にある公園だ。

 放課後は校舎や寮ではなく、ほとんどの生徒が街(仮称)へと繰り出すため、寮の近くはむしろ人気がなくなる。


 腫れているのは自業自得です!

 さぁ、今度はデートに行きましょう!


 夜空谷さんのことだから、僕の状態なんてお構いなしにそんな感じでデートにでも行くことになると思っていたのだけど、意外にも彼女はこの公園まで僕を連れて来て、こうして介抱をしてくれている。


 思わぬ優しさに正直キュンとした。

 ……いや、これを優しさにカテゴリーするのもどうなんだろう。

 顔面をパンパンに腫らした彼氏を前にしたら、そんな感じの反応が当たり前な気がしなくもない。


 けど、ちょっと心配そうな顔でハンカチを当ててくれるのはやっぱりうれしい。


「……空森からもり君!」

「は、はい!」


 そんな幸福をしみじみと噛み締めていたら、突然夜空谷さんが声を張り上げる。

 あ、また何か始まるな。

 そんな嫌な予感が僕の背中を駆け巡った。


「こうして二人きりになれましたし、とりあえず自己紹介から始めてみませんか?」

「……今更?」

「今更です。けど、私は空森君のことを何も知りません。どれくらい知らないかと言えば、空森君の下の名前を知らないレベルです!」

「それはクラスメイトとしてもどうなのかな⁉」


 意識しなくても知ってる情報の一つな気がするんですけど!?


「そもそも私は空森君と親しくない上に、空森君は基本名字でしか呼ばれませんから。下の名前なんてクラスで最初の自己紹介をしたときくらいしか聞く機会がありませんでした! そんな昔のことは覚えてません!」

「まだ一ヶ月も経ってないよ⁉」

「覚えてないものは覚えてないんですから仕方ないじゃないですか! そういう空森君だって、私の名前を言えるんですか!」

「詩織さんでしょ、それくらいならわかるよ!」


 割と当然の返しをしたつもりだったけど、夜空谷さんはわなわなと震えながら、自分の体を抱きしめると、少しだけ僕から遠ざかる。


「私の名前まで調べているなんて……まさか私に目を付けていたんですか……?」

「それはどういう意味で使ってるのさ!」

「ぐへへ、あの女、良い女だなぁ。という意味で使ってます!」

「心外だから⁉ 出てるよ男子への偏見!」

「こんな人気のない公園に連れてきたのも、まさかここで私になにかをするつもりで……!」

「連れてきたのは君だけどね!」

「これが、マインド……コントロール……‼」


 ある意味それはあってる気がする。

 男子への偏見に関してはもはやその域だろう。

 この辺りは周りの見本がどうとか関係なく、時間を掛けてでもしっかり解いていかなければならない。


 だって、放っておいたら本当にどこまでも僕は貶められるんだもの!

 少なくともここで誤解を解いておかないと、僕は夜空谷さんに目を付けていて、良くないことをするためにマインドコントロールで公園まで連れてこさせたって話が拡がることになる……!


 夜中の告白が登校時点であれだけ広まっていたんだ。

 なにがなんでも誤解は発見次第即座に解いていかないと数日で僕の居場所はなくなることになるだろう。


 そもそもハードルの高い恋愛だとはわかっているけど、そのハードルを上げている要因の一つが他ならぬ恋人なのだから、この誤解を解くというムーヴに関しては無意識でもすぐに移行できるよう体に叩き込まなくてはならない。


 ひとまずその第一歩として、僕は夜空谷さんの目を覚まさせるべく行動を開始する。

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