第52話 右膝

 これまでメトーリア・シェイファー・アクアルは重い病患にかかったことはなく、戦闘で大きな傷を負ったこともなかった。

 

 生死の境を彷徨うような経験をしたのは今回が初めてだったが、意識を取り戻してからのメトーリアの回復は目覚ましかった。


 特に、最初は呂律も回らなかったのにバルカと会話していくうちに言葉に力がこもり、すべらかに喋れるようになっていくのには、バルカも大いに喜んだ。

 その日、後から食事を持ってやって来たニーナも驚嘆するばかりだった。

 とはいうものの、まだまだ全快には程遠く、麻痺していた五体の感覚は戻ったものの、立ち上がることもままならない。


 アクアル隊の面々は当初、治療の邪魔にならないように、城主部屋の天幕の近くに立ち寄ることも遠慮していたが、メトーリアの意識が戻ったことを聞き及ぶと、ボウエンなどはしきりに面会を願い出た。


「せめて、一目だけでもご無事なお姿をッ」

「ま、まだダメですぅ!」


 と、いったような押し問答がボウエンとニーナの間で何度か起こったが、その度にウォルシュが、


「よさんかボウエン。メトーリア様も弱った姿を我らには見せたくなかろう。もう少し待つのじゃ」

 

 ボウエンをたしなめるのだった。



    ×   ×   ×



 メトーリアが意識を取り戻してから二日が経過した。

 バルカはレバームスやネイルを伴って、アーガ砦を出て、山を下り、湿原地帯へとやって来た。


 アーガ砦からの眺望で分かっていたことだが、ワームナイトの全滅により、妖霧は消え去った。


「一通り、周辺の走査は終わりました! いやぁ~ギルドの支配が及んでいない霊脈網はノビノビできていいですね~。あ、でも久々の遍在潜行で少し疲れました……」

「で、結果は?」

 

 地面から透過して、にゅっと現れたギデオンにレバームスが催促する。


「周辺にデフィーラーの生き残りはいないですネ。あとご命令通りこっち物質界あっち霊界の狭間で休眠状態になってるプローブ・アイを何体か見つけましたよ。ちょっと奴らが羨ましいです……あの~~~、ワタシも休んでいいですカ?」

「ああ、ご苦労だったなギデオン」

「やった!」


 装備者であるバルカの肩まで飛んでいくとギデオンは姿を消した。

 

「しかし、相変わらず夜から朝にかけてはけっこう濃い霧が発生するのな」


 今は昼時。

 日が昇っても地表に液体のように立ちこめていた妖霧と違い、自然発生した霧は太陽の熱によって消散していた。


「元からそういう気候なんだ。昔と変わってないなら、秋から春にかけて、北の……高山地帯までは、霧がよく出る」


 そうレバームスに説明しながらバルカは、点在する沼を眺めたあと、周囲の草むらや高台の森を注意深く観察した。


「最初に偵察に来た時よりも、静かだ。生き物の気配がしない」

「デフィーラーがあらゆる動物を食い尽くしたとみていいだろうな。だが、じきに周囲の山中に逃げた獣たちが戻ってくるだろうよ」

「フィラルオーク達は湿原を追い出される前はどんな生活をしていたんだと思う?」

「狩猟生活をしてたんじゃねーの。あと他種族からの略奪行為か。原始的な服は自前のものかも知れないが、武器は盗んだり拾ってきたものだろうし」

「しかし、ネイルやルドンといった一部の者はかなりくたびれてはいるが、オークの体格に合わせてしつらえた武器や防具をつけている」


 レバームスは斧槍を構えながら近くの沼の縁に立って、何か獲物がいないか水面を見回しているネイルをしばらくの間じっと見つめた。


「気になるよな。でも、いまは彼らがどんな生活をしていたかよりも、これからどんな暮らしをさせてやるか、だろ?」

「それはそうだが」

「もうじき冬が来る。ハントのアイテムボックスには皆が一冬越せるだけの食糧はさすがに無いそうだ」

「やることが山積みだな……アーガ砦はどう見ても戦時中に使う籠城用の城砦だ。ずっとあそこに住むのは不便すぎる。別の場所を見つけるか、住居を作らなきゃならんし、知能を退化させている呪いもどうにかしないと」

「呪いの根本的な解呪はまだ先だが、効果を抑制する方法はもうすぐだ。食糧や“オークの里”造りの資材調達なんかは……ガエルウラのツテを使えば何とかなると思う」

「……ガエルウラって何だっけか?」

「俺達アズルエルフが立ち上げたギルド同盟から追放された種族の支援組織だよッ。忘れんな。とにかく、周辺の安全も確認できたし、俺は明日から根の谷を降ってに行ってくるわ」


 バルカは少し驚いた。


「ツテって地下世界のことか?」


 根の谷の奥には巨大な洞穴があり、地上世界と地下世界を繋いでいる。


「ああ。あそこはギルド同盟の支配が及んでいない領域だからな。ところで――メトーリアの治療はどうだ」

「順調だ。もうレベルロストの心配も無いし、一番酷かった霊体の腹部の傷も癒えた。あとは右膝を治療して、霊体修復は終わる。ただ……」

「ん? ただ、なんだよ?」

「いや、回復するにつれて、どうもメトーリアの様子が変なんだよな……妙に表情が硬くて、ものすごく体が緊張しているんだ。なんでなのかまるで分からん。最初の頃と全く違うんだ」


 レバームスが芝居がかった仕草と表情をしながら、探るような目でバルカを見た。


「治療にかこつけて変なとこ触ってんじゃないだろうな?」


 バルカは一瞬言葉に詰まり、それから、かんかんに怒った。


「バカをいうな! そんなことしてない!!」


 あまりの大声にレバームスは思わず両手を前に突き出しながら後退った。


「ちょ、冗談だよ! わかった、わかったって」 

 

    ×   ×   ×



 その日の夕刻。

 メトーリアはアーガ砦城主部屋の天幕の中で早めに食事を取ることにした。

 すでにバルカ達は湿原から帰還しており、いつもは昼前に行っている霊体修復治療をこの後行う予定なのだ。


「さ、メトーリア様。飲んでくださいっ」


 ニーナはそういいながら、皮袋製の水筒を上体を起こしていたメトーリアの口元まで差し寄せてきた。

 水筒には吸い口となる細い管がつけられている。

 魔物から得られる素材を加工して作られたものだ。


「ん……」


 メトーリアは管を口に含んで、中身を飲んだ。


(ぬるくて、苦い。でも、身体の中に染み渡るようだ……)


「覚えてらっしゃらないでしょうけど、最初の三日間ぐらいは喉が痛むのか、重湯も湯薬も吐き出すことが多くて大変だったんですよ」 

「そ、そうか」

「はいっ、次は食事です。お口を開けてくださいっ」


 そういって、ニーナは椀を持ち、木のスプーンで中に入っている粥を掬った。


「ま、まて、自分で食べる」

「今朝、こぼしちゃったじゃないですか」

「今回は落とさないからッ」


 メトーリアとニーナはアクアルにおいては領主と家臣という立場だが、レギウラ公王アルパイスの元では、配下として同じ立場で働いている。

 主従の関係とは別に、同僚という関係が築かれているのだ。


「美味しくは無いと思いますが、これも早く元気になるためです。頑張って全部食べてください」

「う、うむ(本当に味気ない粥だな……しかも薄い)」

「まだ味付けが濃いのはだめですっ」


 まるでメトーリアの心を読んだかのようにニーナがぴしゃりと言った。


「固い食べ物もダメ。辛いのも。あと、お酒は絶対ダメですからねっ」

「わ、わかっている」


 年齢はメトーリアが十八。ニーナは一つ年上の十九歳。

 六歳の時にアルパイスの元で戦士としての修錬を開始したメトーリアよりも数年遅れて、ニーナは治療士としての道を歩み始めた。

 故に、冒険者としての経験は年下のメトーリアの方が長い。


 だから任務中やクエストの遂行中は先輩として、アクアル領主として、メトーリアが主導権を握る。

 だが……それ以外の、一緒に余暇や日常を過ごす時や、今のように治療を受ける時は、ニーナがメトーリアに年の離れた姉のように寄り添い、気遣ってくれる。


 それは、ありがたいことではあるのだが……こと健康管理のこととなると、ニーナはボウエンやウォルシュより口うるさくなるのだった。


「そうだ、メトーリア様。これを機会にお酒を断ってはどうですか? あんな毒物、摂取しても何もいいこと無いですよぅ」

「い、いや、でもギルド同盟の法では十八で酒を飲むのは違法じゃな――」

「ところによっては二十歳まで禁止してる国もあるし、飲むのを全面的に禁止してる種族もあるくらい何ですよ?」

「それは、その種族にとって酒が毒になるからなんじゃ……」

「だからっ、人間にとっても毒なんですってば!」

「……わ、わかった。断酒については検討するから、黙って食わせてくれ……」

「あ、す、すみません」


 戦闘や隠密の任務に忙殺されてきたメトーリアは、平時に置いては意外なほどに非主体的で控えめな一面があり、こういう時にはニーナに対してタジタジになるのであった。

 ゆっくりと、味気ない粥を食べ終えた後、食器を下げて下がろうとするニーナに、メトーリアは思いきって話しかけた。


「ニ、ニーナ」

「はい? なんでしょう?」

「その、按摩マッサージを頼めるか?」

「いいですよっ。食べてからすぐ横になるのは体に悪いですから、そのままの体勢でいてください」

「わかった」

「どこか痛むところとかありますか?」

「いや、特にない」


 メトーリアがまだ起き上がることもできなかった時には、彼女の全身をもみほぐす按摩を施していたので、さして気にもせずニーナはメトーリアの肩を揉み始めた。


「んっ、んっ」


 しばらくの間、肩や首を揉まれていたメトーリアは、時々微かに首をかしげたり、困惑しているような吐息を漏らした。


「うん……」

「?」

「ニーナ、マッサージは、もういい。ちょっと、腹を見てもらえないか?」

「……お腹を?」

「ああ、ワームナイトに刺されたところを」

「わかりました」


 メトーリアはまつげをパチパチさせながらちょっと考えた後、貫頭衣と肌着の裾をめくり、下着姿の肌を晒した。

 バルカが治癒スキルを施すときは貫頭衣越しで、素肌に直に触らせてはいない。

 

「傷跡も完全に消えてますね。メトーリア様、すっごくきれいです」

「そ、そうか」

「はぁ~~……一晩でもいいから私もメトーリア様みたいな、えっぐいカラダになれる魔法とかないかなぁ」


 そう言って、ニーナはメトーリアの腹以外の様々な箇所を見回し始めた。


「ニーナ?」

「あ、すすすみません!」

「いや、いいんだ。そのちょっと触ってみてもらえるか?」

「へ? なんで?」

「しょ、触診って奴だ。この二日間、バルカの治癒を受ける度に、その、妙な感覚があってな」

「わ、わかりました」


 ニーナは遠慮がちにメトーリアのへそと鳩尾の間辺りに指を当てた。


「う、ぽっちゃりの私よりもすっごく柔らかい……」

「ゴホン! もっと手のひら全体で軽く圧してみてくれないか」

「はぁ。こ、こうですか」


 特に何も感じない。貫頭衣越しに軽く触れられているバルカと違って、ニーナの手は今、直に肌に触れている。それなのにバルカに触れられているときのような感覚が全くない。


「うーん……」

「やっぱり、どこか違和感がありますか」

「いや、ないんだ」


 メトーリアが裾を戻すのを見て、ニーナが手を引っ込めた。


「奴が、バルカが治癒スキルを使うときに触られると、変な感じになるんだ。ニーナに触れられても何もないのだから、これは奴が治療にかこつけて、治癒スキルに妙な技を仕込んでいるんじゃないかと――」

「バルカさんはそんなことはしません!」


 珍しく声を荒げるニーナにメトーリアは目を丸くした。


「いいですかメトーリア様。これは黙っていろと言われたんですけど、今でこそバルカさんは朝から昼食前ぐらいまでの時間で一日の治療を切り上げてますが、メトーリア様が倒れた直後は一晩中、ほぼ丸一日あの癒やしの技を使い続けて必死の治療に当たってたんですよッ。だからこそこんな短期間で霊体が修復されているんです」

「一日中……?」

「そうです。一瞬も中断すること無く、です。これがどんなに凄いことかメトーリア様ならわかるでしょう?」


 スキルをずっと使い続けるには、膨大な霊力だけではなくそれこそ大変な体力と集中力の持続が要求される。


「そんなバルカさんがメトーリア様に害意や邪な意図があるとは思えません」

「では、わたしはどうして……」

「妙な感覚って、具体的にはどんなものなんですか」


 ニーナの勢いに圧され、メトーリアは包み隠さず、できうる限りの言葉で言い表そうとする。


「それは……寒気とも違う何かが、背筋を昇ってきて体が緊張し、体温が上がってきて、息も苦しくなって、大げさに言うと痙攣しそうになる……みたいな――どうしたニーナ?」


 ニーナは聞いているうちにぽかんと口を開け、それから両手で口を覆った。笑みを堪えているようだった。


「もーう! メトーリア様ったら!」


 バチンと結構な勢いで肩を叩かれてメトーリアは混乱した。


「な、なんだ」

「恋人同士ならそんなの当たり前のことじゃないですか」

「(あ、そういえばそういう設定だった)た、確かに私とバルカは男女の関係だが」

「私をからかってるんですか? それは変な感覚でも技でもなんでもありません。愛するひとに触れられるって奴じゃないですかっっっ」

「な!?」


 メトーリアは愕然として顔を朱に染めた。


「歓び!? 歓びを私は感じてるのか!?」

 


    ×   ×   ×


 霊体修復施術の最終日となるその夜。

 メトーリアの天幕に入ったバルカはビクリと硬直した。


(何か今日はいつにも増して機嫌が悪くないか!?!?)


 やや薄い唇をキュッと引き結び、なにやら形容しがたい形相で、こちらを睨むように見据えているメトーリアにバルカはたじろぐ。


「何をしている? 始めてくれ」

「お、おう」


 仰向けに寝ているメトーリアが右足を曲げて膝を立てる。

 彼女の貫頭衣は側面に切れ目があり、太ももの途中まで分かれているタイプで素足が剥き出しになった。

 バルカはさりげなく首を巡らして、メトーリアの太ももから足の指先までを目に焼き付けながら、未使用の清い布を手に取った。


「あー……右膝に布を当ててから治療を始め――」

「必要ない」

「なに?」

「ずっと腹を触れられていたのに比べれば、右膝など問題にもならない――はずだッ」

「…………わかったよ」


(まるで今から戦闘でも開始するかのような、謎の気迫は何なんだ……)


 スキルを使う前からぐったりした気分になったバルカはおもむろに治癒スキルを発動させオーラに包まれた手をメトーリアの右膝に当てた。


 急にメトーリアがおとなしくなったのでちらりとその顔をうかがった。

 口を閉じたまま、メトーリアはしきりに喉を鳴らし、身じろぎしだした。

 それから、とても小さな声で「ばかな」と言葉を漏らすのをバルカは確かに聞いた。

 メトーリアの体は震えている。相変わらず身を守ろうとするかのように全身に力を込めて体を硬くしているのがわかった。


 視線が合うと途端に目をそらされたので、バルカは先ほどの布を手に取るとメトーリアの両眼にあてがった。


「んっ」

「いや、なんとなく、顔を見られたくないのかと思って。まだどこか痛むのか?」


 メトーリアは、かぶりを振って見せた。


「俺に触られるのも今日で最後だ。だから嫌でも、もう少し我慢してくれ」


 メトーリアは、両目にあてがわれた布に手をやると、少しずらしてバルカを盗み見た。

 バルカはメトーリアの方を見ていない、右膝も見ていない、視線を落として、ただ一心に治癒スキルを発動し続けている。

 その額に汗が浮かんでいる。

 これまでバルカは戦闘においては、呼吸一つ乱さず疲労の汗などかかなかった。

 そんなバルカが、霊力の消耗で相当疲弊していることが、うかがえる。


「……」


 ほとんど無意識にメトーリアは体の緊張を解いていた。

 直後にふと目の中から、熱いものがこぼれてきたのを感じて、ずらした布を元に戻した。


 なぜ、泣いているのかメトーリア自身分からない。

 バルカが霊体を修復してくれた事への感謝か?

 それとも、霊体が元通りになったこと自体への安堵と喜びか?

 どれも違う気がする。

 無論悲しいからでもない。


(いつぶりだ? 私が泣いたのは)


 記憶をたどれば、アルパイスの元で修錬を始めた最初の頃に泣いたのが最後の気がする。

 あの時も、なぜ泣いたのかは思い出せない。

 思い出すのは、


「甘え心を捨てよッ」


 というアルパイスの冷たい叱咤だ。


(ということは、私はバルカに甘えているのか?)


 メトーリアには、まだよく分からなかった。 

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