第38話 根の谷

 吹きつける風が次第に冷たくなってきている。

 冷涼な気候のレギウラ北部からさらに北上して、十日目。

 レバームスはこの辺の地形のあり様を覚えているようで、一行は斥候隊といった分隊を出すことなく行軍速度を落として、彼の案内で、列をなして川沿いをたどっていた。


 山々に囲まれた川は、細く深くなっていった。

 水面からは鋭い岩が突き出し、激しい流れが水音を轟かせた。

 やがて川は北西に大きく曲がり、そびえる断崖が見えてきた。

 そのふもとには、かすかに道の痕跡が見えた。


「ロ・バルカ!」

「ガウウッ」

「ルアア……」


 フィラルオーク達にとって、見覚えがある光景なのだろうか。

 興奮したり、しきりにバルカの名を呼んだり、じっと前方に立ちはだかる断崖を見つめたりしている。


「根の谷だ」

「ほう! では、向こうに見えているのが有名な……地竜がくぐったという……」


 レバームスの説明に頷きながら、ウォルシュがしげしげと眺めているのは、根の谷の道跡とこちら側を隔てている深い峡谷を繋ぐようにかかっている、岩石で形成された巨大な橋だ。


「ああ。四元竜の一柱、地竜ジルザールは魔王の放ったバカでかい魔物……『巨獣』との戦いを終えると、この天然の石橋をくぐって川をさらにさかのぼった。そして、地下世界へと続く大洞穴に入り、地上から姿を隠した」


 メトーリアはふと思いついてレバームスに質問する。


「この辺はどこの誰の土地なんだ?」

「あん?」

「ここはギルド同盟の領域外。だとしたら、同盟に属していない種族の縄張りだったりするのか?」

「う~ん……強いて言うなら、今も昔も、誰のものでもない。オークが人間たちと戦争状態になった時代はいつもこの峠道で攻防が繰り広げられた。オークが南へ進出しようとすれば、人間たちは根の谷に防衛線を張り、逆にオークたちの領域を犯そうとする連中は峠の北側の湿地帯で行く手を阻まれた。さらには近くに地下世界へ通じる大穴があるんだ。様々な種族が入り乱れて、そりゃもう、昔からめちゃくちゃよ」

「そういえば地下に棲む奴らは、今はどういう立ち位置なんだ? ギルド同盟は敵性種族に貶めていたりするのか?」


 今度はバルカがレバームスに質問を投げかける。


「ギルド同盟にとって地下の奴らは敵性種族でもなければ、友好種族でもない。彼らは地竜ジルザールの庇護下にある。あ、ゴブリンとかどうしようもない奴らは別だけどな。そして、ジルザールはギルド同盟と不可侵協定を結んでいる。だから同盟の連中は地下棲種族には手が出せないってのが現状だ。だから、根の谷の地勢は昔から何も変わっていないといっていい。ただ一つ、オークの呪いのことを除けばだが」

「……俺たちオークは根の谷ではなく、『霧を断つ崖』と呼んでいたな」

「ふうん。ここから北側に勢力圏を築いていたオークからしてみれば、そう呼びたくもなるかもな。ここの峠道を上って、サンピーナ峠を越えると濃い霧がしょっちゅう発生している。逆にいえば、北から根の谷を南に下れば、霧は一気に晴れる。だから『霧を断つ崖』か」

「そしてサンピーナ峠から北の、霧に包まれた大地は、広大な湿原だ」

「……だな」


“湿地に住んでいた”


 フィラルオークたちが訴えていた地に符合するのはしかないとレバームスは断定していた。


「サンピーナ峠は水別みわかれの発生している地でもある。大陸の北側と南側へ流れていく水系の境界だな」


 世界も、その大地や空に、霊体的な側面を持っている。

 地脈。風の流れ。河川。

 これらには魔力の流れ道が生まれる。

 そういう意味でもここは重要な地だった。


「仮にここからなら、水の流れを利用して北へ向かって、広範囲に呪いをまき散らすことができる」

「レバームス! それは、オークの呪いの根源は水にあるということか!?」


 バルカが勢い込んで聞くと、レバームスは“早まった発言だった”とでも言いたげに、難しい顔をする。


「まだ憶測の域だけどな……」


 

 バルカ達は巨大な岩の天然橋を渡り、崖道を上り始めた。

 ネイルは無言で先導役のレバームスの傍らまで前に出て、前方を警戒していた。

 アクアル隊は馬から降りて歩いている。

 オーク隊のもう一人の副官ルドンは落石でも気にしているのか、しきりに崖上を見上げていた。

 

 道は思ったほど荒れてはいなかった。

 草などもあまり生えておらず、獣やがよく通る道だということがわかる。

 しかし、雨でも降ったのか、足跡のようなわかりやすい痕跡はない。

 バルカは一度地面に手をついて鼻を近づけて臭いを嗅いでみたが、やはり、雨で洗い流されたせいで、何もわからなかった。


 山の天気は変わりやすい

 小粒の雨が辺りを濡らし、木の葉を叩く音が聞こえ始めた。

 雨は衣服を濡らし、じりじりと体温を奪っていく。

 

 根の谷。霧を断つ崖……一度、途上で夜を明かし、翌日の昼前頃、やっとその峠を越え、視界が開けた。

 しかし――目的地は、見えなかった。

 眼下には広大な空間が広がっているが、地表は真っ白な霧に覆われて隠されているのだ。


「霧というより、まさに雲海って感じの絶景だな」


 レバームスが口笛を吹いてから、感想を述べる。

 フィラルオーク達は興奮し、アクアル隊の面々はレバームス同様、旅の疲れをいっとき忘れて、眼下の光景に見入っていた。


(さあ、これからどうする。俺とレバームス、メトーリア、ネイルでさっそく湿地を偵察してみるか……ん?)


「ロ・バルカ」


 ネイルがバルカに駆け寄り、北の雲海ではなく東の山岳を指さし、


「ルグ、ネリ」


 “女、子供”と、鼻声の古語でつぶやき、手を合わせて三角形を作り、その手を左右や上へと動かす。その後で、ふたたび山を指さした。

 

「同胞の、他の者が避難している場所か? ル・ルグ、ル・ネリ、ラース?」


 バルカは東の山を指さして、古語で確認すると、ネイルは何度も頷いた。


「わかった。では、すぐに行こう」


 まずは他のオーク達の安否を確かめる必要がある。

 “肉の紐”なる魔物の正体は不明だし、住んでいた湿原を奪われたとネイルはいうが、湿原から動かない習性なのかもわからない。

 そもそも、その魔物はどこから来たのかというのも謎だ。

 バルカは東の山へ向かうことを、まずはメトーリアに告げようとした。


 メトーリアは北の雲海を眺めたまま佇んでいた。

 こめかみに指を当てている。どうやら視界共有で遠く離れたシェイファー館の妹に景色を見せてあげているようだった。


 バルカはしばらく黙って待った。

 やがて、メトーリアは満足そうに微笑むと、アゼルとの交信を終えたようで、


「よし……これからどうする? バルカ」

 

 と、言いながらこちらへ歩いてきた。


「アゼルに見せていたのか?」

「ああ。とても美しい風景だな」


 にこやかに話しかけてきてはいるが、これが演技であることはバルカも承知している。


「しかし、あんな場所に上位の魔物がいるとかゾッとしないな」


 と、いつのまにか近くにいたレバームスが独りごちる間に、バルカはアクアル隊を率いるボウエンとウォルシュも呼び寄せて、これからの予定を話し合った。


「湿原を調べる前に、同胞達が避難している山へ行く。どのようなところかは分からんがそこを拠点にするつもりだ」

「では、ようやく我らの出番ですか」


 ボウエンがやる気を見せると、ウォルシュも深々と頷く。


「うむ。戦闘ではオークにかないませんが、拠点の設営となれば我々の方がお役に立てるでしょう」

「頼む」


 バルカは深々と頭を下げた。


 レベルは戦闘を主とする冒険者達だけではなく、商工、建築、輸送……等、様々な分野にも存在する。

 アクアルの領民兵達は非戦闘員。

 湿地奪還のための拠点の設営は元より、フィラルオークの里の復興などのために連れてきた要員なのだ。

 

 そして、こういった技術や魔法は四百三十年前より格段に進歩しており、後にバルカは驚くことになる。


 休憩を挟んだ後、バルカ達はオークの避難所があるという東の山岳地へと移動を再開するのだった。

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