天国と地獄

西園寺

天国と地獄

「いやだ、まだしにたくないんだ」

 きりきりとかたい男の手のひらがわたしの首を絞める。

 わたしは懸命にもがいた。

 苦しい、苦しい。

 しにたくない、しにたくない。

 まだわたしにはやり残したことがたくさんあるのだ。

 どうしてこんなことになってしまったのだろうか。

 事の起こりはそうだ、

 わたしが身の丈に合わぬ脱サラなんてしようと思ったからだ。


 世間の自由な風に吹かれてこんなわたしでも経営をうまく回してやっていけると思ったのがまずかった。はじめは銀行から借り入れたお金で仏具を売りさばく小売店をやっていたのだが、そのうち首が回らなくなった。神や仏も頼ったが、一向に助けてくれる気配はない。


 ついには闇金に手をだした。

 そうして本来なら愛する家族と布団の上にいるはずなのに、わたしは首をきつく締め上げられて息絶えようとしている。


「だめだ、かねが払えないというなら、おまえの臓器を売りさばくほかないのだ。おとなしくしてもらおうか」


 男の手に込める力がより一層強まった。

 ああ尊き仏様、どうか生かしてはくれぬのか。


「おねがいします、あと10日、10日でなんとかいたします・・・」


 苦しいがどうにかしてつぶれた喉を鳴らす。


「もう待てる時間はない」


「愛する家族もいるのです」


「であれば、家族に手をだされたくはないだろう・・・」


 しゃべったのが気に食わなかったのか、完全に喉をつぶされたわたしは、もうしんでいくしかない。

 妻よ、娘よ、こんなわたしを許してくれ、借金にまみれて、あなたたちに借金を押し付けてしんでいくわたしを許してくれ・・・


 うう・・・




□ □ □ □ □




 わたしはやわらかなベッドのうえで目を覚ました。どうして。わたしはしんだのではないのか。


「あなたはしにました」


 だれだ。


「わたしは仏です。あなたは先ほど借金取りに首をしめられてしんだのです」


 どこからともなく声が響いている。

 では、ここはどこなのだ。ここが天国というものなのか。


「天国というのはどうもあなたが先ほどいた世界を中心に考えていてよくない、あなたはもともとこちらにいらしたのに、あちらの世界ではこちらのことを忘れてしまっているからこういう風にお考えなのですね。しかし、いいでしょう。あなたがここを天国だと思うなら、ここは天国になりましょう。あなたがここを地獄だと思うなら、ここは地獄になりましょう・・・」


 それきり声は聞こえなくなった。


 わたしはベッドから降りると、目の前にある扉を開ける。


 なんてすばらしいのだろう。


 扉を開けた先、わたしの世界一面に未だ見たこともないようなすばらしく幻想的な景色がひろがっていた。

 そこは、かつてのわたしが天国を想像するよりもはるかに天国と呼べるようなかたちをしていた。


 ああきれいだな。これこそが望みの彼方、天国か。

 わたしは扼殺の痛みをとうに忘れて喜んだ。

 ふしぎなきもちでこころが満たされているのを感じる。

 なによりわたしの感じるなにもかもが軽いのだ、そうだ何も心配する必要はない。


 わたしに肉体はないのだから、しぬことに怯える必要はない。

 わたしに胃袋はないのだから、腹をすかせることもない。

 わたしに目的はないのだから、おかねのことで頭を抱えることもない・・・


 しあわせなのだ、ここにわたしが有ることがしあわせなのだ。

 そういうふうに、気づく。


 そうかこれが天国というものか。


 どうやらわたしは大きな勘違いをしていたらしい。

 これと比べたらあの世界なんて地獄みたいなものだったのだ。


 こんな場所に至ることができるなら、しぬということは存外悪いことではない。

 わたしは空をかける鳥をイメージする。


 わたしの視界が飛び上がり、美しい空間をかけてゆく・・・

 びゅんびゅんと流れていく景色。


 たのしいな。きもちいいな。きれいだな。

 うつくしいな・・・




 どれくらい経っただろう。

 まちがいなく、長い、長い年月がたったに違いない。

 でも、ここに時間というものはあるのだろうか。

 はたして年月などどうでもいいことなのではないか。


 そうだ、わたしはうれしいのだ。


 なんの苦しみもなく、きもちのいいことに囲まれて存在している。

 そうであれば時間など関係ない。

 どれだけ居たってうれしいのだからそんなことはどうでもいいのだ。


 わたしは空間をちゃぷちゃぷと泳ぎはじめる。無限の可能性は、わたしのしたいことをしたいがままにさせてくれる・・・


「わたしのことを、覚えていますか」


 急にどこからともなく声が響いた。

 覚えている、たしかあなたは仏といったはずだ。


「覚えていらっしゃりましたか」


 もちろんだ、

 こんなにしあわせな場所に連れてきていただいたご恩を忘れることはない。


「そうですか・・・それでは準備が整いましたので、あちらの扉を開けてお進みください」


 唐突にあらわれた暗い木製の立派な扉が、わたしにどんどんと近づいてくる・・・

 もうすぐ目の前に迫ってくる・・・


 準備といったな、準備・・・

 準備とはなんだ。


「地獄へといく準備です」


 途端に私は地べたに落ちる。


 痛い、痛い、いったいどういうことなのだ!


 なんだね急に地獄とは!いやだ、わたしは行きたくないぞ!そんなところなんて望んだ覚えもない!まっぴらごめんだ!


 ここにいればわたしはすべて大丈夫なのだ。


 つらいことも、苦しいことも、悩めることも、なにもない。

 わたしはここにいてこそしあわせそのものであれるのだ。

 いやだ、いやだ、いやだ。

 わたしはここから離れたくない・・・


「どうしたのですか?地獄にいらっしゃった時はあんなにも「しにたくない」とおっしゃっていたじゃありませんか。ここはすべての可能性を叶える場所。もちろんあなたのしにたくないという願いもかなえられなければなりません。どうやら地獄でも、あなたは敬虔な仏の信徒のようでしたので・・・・」




□ □ □ □ □




「いやだ、まだしにたくないんだ」

 ぎゅううっとしなやかな女の手のひらがわたしの首を絞める。

 わたしは懸命にもがいた。

 苦しい、苦しい。

 しにたくない。しにたくない。

 まだわたしにはやり残したことがたくさんあるのだ。

 どうしてこんなことになってしまったのだろうか。

 事の起こりはそうだ、

 わたしがあの女の美貌に惑わされ、うかつに浮気なんてしたからだ・・・・

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天国と地獄 西園寺 @saionzi_nanoda

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