第2話 マジックアワー


「……結構遠いのね」

「そうですねー」


 学校の最寄り駅からかれこれ三十分ほど。バスに乗ったふたりはその車内でがたごとと揺られていました。

 一番奥から二番目にある、二人掛けの座席。

 京子さんは窓際の席、陽花はその隣に座っています。

 車内を見渡すと、ふたりの他には、袋に包んだ荷物を持ったおばあさんとスーツを着崩した姿のおじさんが一人づつ乗っているだけで、いずれもバスの前方部分の座席に座っているので、ふたりのことは気にしていないようでした。

 

「……」


 それを確認して、あと陽花がこちらを見ていないのも確認して、京子さんはゆっくりと、自分のすぐ横に置かれている彼女の右手に自分の左手を近づけてみます。

 ゆっくり、ゆっくりと。あと十センチ、五センチ、数センチ――

 と、その時、


「あっ、ここだ。このバス停ですよ。降りまーす、降りますよー」


 突然陽花がそう言って、右手を思いきり伸ばしてバスの降車ボタンを押そうとするので、京子さんは慌ててその手を引っ込めました。

 ピンポーン、というチャイムの音が車内に響き、バスは停車しました。


「ん、どうしました、先輩?」


 座席から立ち上がった陽花が、不思議そうな顔で京子さんのことを見下ろしています。

 「……別に」、と顔を背けて、京子さんも立ち上がりました。



★★★



 ふたりが向かったのは、桜が丘公園という東京都の郊外にある公園でした。

 

「結構広いのね」

「ほんとですねー」


 その言葉の通り、多摩地域の丘陵きゅうりょうにまたがって広がっている桜が丘公園は、公園というには広大で、これではまるでちょっとした山登りだな、と京子さんは坂道を登りながら考えていました。


「……て、いうか、広すぎ。坂も急だし」

「先輩、大丈夫ですか?」

「ま、まだ頂上に着かないの」

「もうちょいだと思いますけどねー」

「そ、そもそも、なんでこんな坂なんか登ってるの?」

「この先にいい見晴らしスポットがあるらしいからですね」

「そんなの別に興味ない……」

「まあまあ」


 ぜえぜえ、と息を切らしながら、京子さんは落ち葉の舞う坂道を上っていきます。

 普段は成績優秀で通している京子さんも、体育の成績だけは問題ありで、特に持久力という項目は絶望的なほどなのでした。

 それでも頑張って足を動かしていると、


「え……」

「あら?」

「う、嘘でしょ?」

「あらー」


 京子さんの顔がさらに青ざめます。

 陽花もちょっと驚いた表情になっています。

 ふたりが登っていた坂道。その先に、さらに急な階段が待っていたのです。

 見上げた京子さんの視界が、ぐにゃりと歪みます。


「……」

「……」

「……ちょっと、休憩」

「しますかー」


 階段の脇にあった木製のベンチに京子さんは腰かけます。

 制服のスカートから伸びた足がぷるぷると震えています。

 いやいや、いくらなんでも中学生でこの体力のなさはまずいよなあ、と京子さんが日頃の運動不足を反省していると、


「はい、これ」


 と、ペットボトルが差し出されました。

 側にあった自販機で陽花が買ってきてくれたのは、青いラベルの、そんなに甘すぎないミルクティでした。


「……ありがと」


 お礼を言って、京子さんはそれを受けとります。

 ああ、前にこれが好きだと言ったのを覚えててくれたんだ――と嬉しくなると同時に、陽花の手にも別のペットボトルが握られているのを見て、ちょっとだけ残念な気持ちにもなります。

 

(……一本でよかったんだけどなあ)


 と言うことは口には出しませんが。


「それにしても先輩、体力ないですねー」

「わかってる。うるさい」

「おかしいですね、こうして一緒に色んなところを歩き回ってるのに」

「だから、私はカフェとかカラオケで良いって言ってるのに」

「いやあ、それじゃつまんないじゃないですかー。やっぱりこういう、行ったこともない知らない場所を新鮮に探検するのがいいんですよ」

「その結果、こんな目に遭ってるんだけど」

「それはまあ、ご愛敬あいきょうってことで」

「……はあ」


 京子さんはため息をつきます。

 そう言えば、初めて会ったときもこんな風に強引に誘われたんだったよなあ――ということを思い出して、そんなことを思い出しただけでちょっとだけ体が軽くなったような気がしてしまった自分自身に呆れたのでした。


「さあ、そろそろ行きましょう。暗くなる前に帰らなくちゃですから」


 そう言って陽花は立ち上がります。

 しかし京子さんは動きません。


「先輩?ほら、立ってください」

「……ねえ、充分歩いたしさ。もうここで引き返すことにしない?」

「ダメです」

「うう……」

「まったく。しょうがないですねえ、はい」

「……え?」


 ベンチに座る京子さんの目の前に、右手が差し出されています。

 驚いて見上げると、きらきらした笑顔が見下ろしていました。


「あたしが引っ張っていきますから。一緒に行きましょうよ、先輩」

「……うん」


 京子さんは差し出されたその手を握ってみます。

 柔らかくて、それでいてちょっと頼もしくもある感触が繋いだ左手に伝わってきて、京子さんはあっさり立ち上がりました。

 今度こそ気のせいではなく本当に、京子さんは自分の身体が羽のように軽くなったのを感じていました。



★★★



 目の前に夕日が広がっています。

 やっとのことで丘の頂上まで登ってきたふたりは、そこから見下ろす景色を眺めていました。


「きれい……」

  

 京子さんがぽつりと呟きます。

 夕日は多摩市内の遠い街並みを広く柔らかく照らしていて、それに呼応するように、街の明かり――きらきら光る道路灯や車のヘッドライト、信号機の点滅やオレンジ色のマンションの照明、大きな川に架かる橋の電灯や流れていく電車のライト――が、ぼんやりと灯り始めています。

 昼と夜の境目、マジックアワーと呼ばれる時間を、ふたりは丘の上から見下ろしていました。


「思った以上でしたね」


 陽花が満足そうに言います。


「これだから、旅はやめられないんですよね。適当に選んだ場所でも、こんな景色に出会えるんですから」

「……やっぱり適当なんじゃない」

「あ」


 しまった――と言って、陽花はくすくす笑っています。

 京子さんは呆れてしまいましたが、陽花がどんな風に目的地を決めたのか、なんてことは本当はどうでもいいことでした。

 ただ、この景色を彼女と共有して、その笑顔をひとりじめできていることが嬉しかったのです。

 そしてその嬉しさのぶんだけ、寂しくも感じるのでした。


「……」


 周りにはちらほらと人がいます。

 きっとこの場所は地元では観光名所になっているのでしょう。どうやらカップルの姿が多いようです。

 二人並んで写真を撮っている人たち、ベンチに座って寄り添っている人たち、顔を近づけて見つめあっている人たち――その過ごし方はそれぞれですが、京子さんの目にはみんな幸せそうに見えています。


「……」


 京子さんと陽花は手を繋いだままでしたが、それ以上のことはできません。

 京子さんは彼女に「好きだ」ということを伝えていませんし、そもそも同性である彼女との関係を「仲の良い友達」以上に進めるための勇気もない、と自分で思っていました。

 そんなことをしなくても、放課後になれば陽花は自分のもとに来てくれていますし、陽花の言うところの「旅」に付き合って、こうしてふたりで色々な場所に出かけることもできています。手を繋いでくれることもあります。

 一体これ以上何を望むことがあるだろうか、今のままで私は十分幸せだ――京子さんはそう思っていました。


「……ねえ、陽花」

「なんですか?」

「あの、ありがとね。ここに連れてきてくれて」

「いいんですよ、お礼なんて」


 ――、陽花はそう続けました。

 彼女のそんな言葉を聞いて、京子さんは、なんだか突き放されたかのような、まるで自分がこの景色のなかに一人ぼっちで取り残されてしまったかのような心細さを感じました。


 ――私たちの関係はこれ以上進展することはない。

 ――陽花の「好き」は、これからもずっと自分に向けられることは決してない。

 それはまるで、迷子の子供のような――

 それではまるで、もう一生ずっとそのままのような――


「……」

「先輩?」

「……なんでもない」

「……」


 夕日はさらに深い橙色に染まり、街は藍色のカーテンに包まれていきます。

 ふたりの間に、もうすぐ夜が来るのでした。





 


 


 


 


 



 

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