第19話 私と悠人⑲
「はぁ……」
ため息を漏らしながら、自分のデスクに戻ると、隣の席に座る同僚の女性社員に話しかけられた。
彼女はとても面倒見が良く、優しい性格の持ち主である。
名前は佐藤さんというのだが、彼女のことは親しみを込めて下の名前で呼んでいる。
ちなみに年齢は27歳で独身だそうだ。
彼氏もいないらしい。
そんな彼女に対して、私は以前から密かに想いを寄せていたのだが、昨日の一件があってからは余計に意識してしまうようになったのだった。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか昼休みになっていたようだ。
今日はお弁当を作ってきたので、一緒に食べようと誘うことにする。
快く了承してくれた彼女と共に屋上へと向かうことになった。
そこで、何気ない会話をしながら昼食を摂っている最中、
「そういえば、この前話した件なんだけどさ、あれどうなった?」
と聞かれたので、何の話だろうかと考えを巡らせていると、すぐに思い出した。
確か、以前彼女に相談されたことがあったのだ。
その内容というのが、職場の上司に対する愚痴だったはずだ。
なんでも、セクハラ紛いのことをしてくる上に、やたらとボディタッチが多いのだという。
そのせいで精神的に参ってしまい、最近では毎日のように残業が続いているということだった。
それを聞いた私は、心配になって色々とアドバイスをしたり、時には直接注意したりしていたのだが、
あまり効果は見られなかったようだった。
それどころか、逆効果になってしまったようで、ますますエスカレートしていったように思う。
最終的には、ついに我慢できなくなってしまい、つい手を出してしまったというわけだ。
「あぁ、あの話ね、うーん、実はまだ解決してないんだよね……ごめん、力になれなくて」
申し訳なく思いながら謝罪の言葉を口にすると、彼女は少し困ったような表情を浮かべてから言った。
「……そっか、そうだよね、ごめんね変なこと聞いちゃって」
申し訳なさそうに謝る姿に罪悪感を覚えるものの、本当のことを伝えるわけにもいかなかったので黙っているしかなかった。
それからしばらく沈黙が続いた後で、不意に彼女が口を開いたかと思うと、思いがけないことを言い出したのである。
それは、私が予想すらしていなかった言葉だった。
「あのさ、お願いがあるんだけどいいかな?」
突然の申し出に戸惑いつつも聞き返すと、彼女は真剣な表情のまま話し始めた。
どうやら、私に手伝って欲しいことがあるらしいのだ。
詳しく話を聞いてみると、こういうことだった。
先日、思い切って上司に相談してみたところ、意外なことにあっさりと解決することが出来たというのだ。
それも、全て私の助言のおかげだというのだから驚きである。
ただ、一つだけ問題があったとすれば、それによって新たな問題が発生してしまったことだということだ。
つまり、私と上司との間に肉体関係ができてしまったのだという。
しかも、何度も求められてしまい、断り切れなかったのだとか……それを聞いて、私は複雑な気持ちになったが、
同時に安堵している自分に気づいたことで愕然とした気分になったものだ。
まさか自分がここまで浅ましい人間だとは思わなかったからである。
そんな自分に嫌悪感を抱きながらも、目の前の現実から目を背けることができないのも事実であった。
結局のところ、どうすればいいのかわからないまま時間だけが過ぎていったわけだが、そんなある日、事件は起こった。
いつものように仕事をしていると、突然背後から声をかけられたのだ。
振り返るとそこには上司の姿があった。
どうやら私を訪ねてきたらしいのだが、何の用だろうかと思っていると、いきなりこんなことを言われたのである。
「今夜、空いてるかな?」
一瞬何を言われているのか理解できなかったが、その意味を理解した途端、背筋が凍りついたような感覚に襲われた。
(どうしよう、どうすれば逃げられる?)
必死に思考を巡らせるものの、良い案など浮かぶはずもなく途方に暮れていると、さらに追い討ちをかけるようにこう告げられた。
「返事は急がないからさ、考えておいてくれると嬉しいな」
と言って去っていく後ろ姿を見つめながら、私は呆然と立ち尽くしていた。
その夜、自宅に帰った後も頭の中は混乱したままで、何も手につかなかったほどだった。
翌朝になっても気持ちは落ち着かず、むしろ悪化する一方だったが、いつまでもこのままではいられないと思い、
意を決して出かけることにした。
行き先はもちろん決まっている。
「おはようございます」
挨拶をして中に入ると、そこにはいつも通りの風景が広がっているだけだったのだが、
そこに一人だけ見慣れない人物がいたことに気がつく。
その人物は私の方を見ると、微笑みながら話しかけてきた。
「やあ、よく来てくれたね、待っていたよ」
そう言って出迎えてくれたのは私の夫である悠人だった。
彼は爽やかな笑顔を浮かべながら話しかけてくる。
だが、私には彼が何を考えているのか全くわからなかったため、戸惑いを隠しきれなかった。
すると、その様子を察したのか、彼は申し訳なさそうな表情を浮かべると言った。
「すまない、驚かせてしまったようだね、でも安心してほしいんだ、
別に君をどうこうしようというわけではないからね」
そう言うと、今度は真面目な表情になり、本題に入った。
「実は君に頼みたいことがあって来たんだ、聞いてくれるかい?」
それを聞いて、私は緊張しながらも頷いた。
すると、彼はほっとしたような表情を見せると、説明を始めた。
まず最初に、現在の状況について教えてくれた。
現在、会社では大きなプロジェクトが進められており、その責任者の一人として関わっていること、
そして、近々行われるプレゼンテーションに向けて準備を行っていることなどを話してくれた。
最後に、今回のプレゼンで使うための資料を作成している最中なのだが、
どうしてもわからない部分があるため、助けて欲しいということだった。
それを聞いて、私は納得した。
要するに、彼が担当している仕事に関する質問を受けに来たということなのだろうと思ったからだ。
「なるほど、そういうことでしたか、わかりました、それでどの部分が分からないのですか?」
そう尋ねると、彼はホッとした表情を浮かべた後、一枚の紙を差し出してきた。
受け取って見てみると、そこにはグラフのようなものが描かれており、
その下に細かい数字や文字がびっしりと書き込まれていた。
おそらくこれが課題の内容なのだろうということはわかったのだが、
具体的に何についてのものなのかは分からなかったので聞いてみることにした。
すると、返ってきた答えは次のようなものだった。
曰く、このグラフには会社の収益率が示されているのだという。具体的には、売上額に対する利益の割合を示しているものなのだそうだ。
それを聞いて、私はすぐにピンと来た。
これはきっと重要なデータに違いないと思ったのだ。
何故なら、経営に関わるような情報を部外者である私に見せること自体、本来ならばありえないことであるはずだからだ。
それなのにこうして見せてきたということは、それだけ信頼されているということだろうか……?
それとも、何か裏があるのか……?
様々な考えが頭を過ったが、結局考えても仕方がないと思い、言われた通りにやってみることにした。
まずは、グラフ全体に目を通してみることにする。
(あれ、これってもしかして……)
すぐに違和感に気づくことができた。
というのも、数値が微妙におかしいような気がしたからだ。
よく見ると、全体のバランスが取れていないように思えるのだ。
そこで、試しに別のデータを当てはめてみると、ピタリと一致したではないか!
その瞬間、私は確信した。
やはり、間違っていたのは私の方だったのだ。
そのことを指摘すると、彼は驚いた様子でこちらを見てきた後、深々と頭を下げて謝罪してきた。
どうやら相当焦っていたらしく、何度も謝り続ける姿を見ているうちに、なんだか気の毒になってきたので、
それ以上責めるようなことはしなかった。
その後、二人で協力して資料を完成させたことで、無事に問題を解決することができたのだった。
帰り際、玄関まで見送りにきた彼に呼び止められると、不意に抱きしめられた。
突然のことに驚いているうちに唇を奪われてしまう。
最初は軽いキスだったものが次第に深くなっていくにつれて頭がボーッとしてきて何も考えられなくなるほどの快感に襲われる。
やがて唇が離れる頃にはすっかり蕩けてしまっていたようで、足元がふらついて倒れそうになるところを彼に支えられることでなんとか持ち堪えることができた。
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