俺が女だったなら

寺田門厚兵

誰かを大切に思うからこそ

「……私、たくのこと……好きだよ」


 ねえ、という前置きの後に呟かれた言葉に、思わず俺の心臓は強く脈打った。


 それは今にもしゅんらん吹き荒れそうな危うさで、だから俺はきっと何かの聞き間違いだと自分に言い聞かせ、彼女の言葉に何も応えず、ただ人気のない静かな街道を歩き続けることにした。


 だが、天真爛漫てんしんらんまんげん溌剌はつらつ、その上贅沢我儘ぜいたくわがままな彼女が不格好な俺を無視してくれるような生易なまやさしさはなかった。


「好きだよ、卓也のこと」


 俺の隣を歩いていた彼女はふと足を止める。釣られてそちらを振り向けば、煌びやかな街を背景に真っすぐな目で俺を見つめる美香の姿があった。


 俺は呆れた風にため息を吐いて、渋々口を割る。


「言っただろ。俺は……もう結婚してるんだ」


「分かってる……。さっきの店で、聞いたし……」


 これまた困ったものだ。まるで聞き分けの悪い女児とでも会話してる気分になる。俺は半ば怒り交じりに口を開きそうになったが、それよりも先に美香みかが意志の強い言葉を口にする。


「でも好きだった。中学……ううん。小学校の時から……私、卓也のことが好きだった」


 俺達はもう社会人。腐れ縁なのか、美香とは大学までずっと同じだった。まるで姉か妹のような存在で、家族同然のようにいなくならないと思ってた。


 でも、それでも厳しい社会の荒波にさらされた途端、俺達はいとも容易たやすくその関係を断ち切られた。俺は兵庫、美香は地元の大阪で働いている。


 無論、時間を作れば会える日も少なくなかったが、そう甘くはない。俺と美香の間に生まれた物理的な距離は、そのまま関係の疎遠を生んだ。


 最初の半年こそ連絡は取っていたけど、忙しさが極まってきた今ではもう数年に一度。お互い今は三十手前の歳になった。


「何が言いたいのか……分かんねぇよ。付き合うって話になるなら当然却下だし。もう、生涯を共にするって……そう誓った人がいるから」


「……それでも、好きだよ」


 なけなしのその言葉が、大通りを外れたこの狭い公道で鮮明に聞こえてくる。


「……もっと早かったら、可能性はあったよ」


 家族同然とはいえ、美香はどこまで行っても血縁関係のない女の子だ。そう気付いたのはあまり定かではないが、おそらく小学校中学年くらいになってからだと思う。


 けれど互いに部活や勉強、友達付き合いと、今ほどではないが思春期の俺達は充分すぎるくらいの多忙な学校生活を送っていた。


 別に話す機会がなかったわけじゃないが、なんとなくプライベートを共に過ごす時間がなかった。今思えば、このギリギリの関係があの時からも続いていたんだなと振り返る。


「好きって言ってるけど……学生時代、別に俺達、そこまで遊んだり喋ったりしてなかったし」


「それは……卓也のメンツ、潰しちゃうかなって……」


「それは嘘だろ。美香がそんなこと気にするような奴じゃないだろ」


「気にするよ、めちゃくちゃ! 私だって、気の一つや二つくらい掛けるよ! 意識してたから、余計にそうしちゃったんだよ!」


「……そうか」


 腑に落ちない、というのが正直な感想だった。そんなことを気にせず、もっと積極的に接触してくる奴だったから。


 特に幼稚園や小学校の時は顕著だった。外に遊びに行く時も、家でゲームする時も、気付いたらそこに美香がいた。男っ気のある美香だったから、当時は意識しないと女子だってことを忘れるくらいには勝気な性格だった。


 思えば大学時代、美香は積極性こそあれど、一歩引いたところで皆の話を聞いてたように思う。当時のような無遠慮さはもう見る影もなかった。


「どれだけ好きって言われても……もう無理だよ。俺は、美香じゃない人と婚約したんだから」


「……うん。分かってる……」


 その言葉とは裏腹に、美香は目元に涙を浮かばせ、無邪気な笑顔で頷く。俺はそんな美香を見て、堪らず訊いた。


「じゃあ、なんで告白したんだよ」


「言わないと、絶対後悔すると思うから……。もうこんなこと、既婚者の卓也に……これから先、ずっと言えない……」


「……ズルいな。そういうの……」


 俺は嘲笑ちょうしょう交じりにそう返した。同時に美香らしいとも思う。腑に落ちないというのも前言撤回だ。そういうところは相変わらずだ。


「もうすぐ兵庫に帰らないと。明日からまた仕事だし」


 終電まであと三十分足らず。しかし、ここから駅まで十五分。時間だけ見れば余裕があるかもしれないが、物理的な距離と心の余裕はない。


 なにより、俺の心はまだ騒めいてる。淡く輝くこの夜の街のように。


「……好きだった。ほんとだよ……? でも……卓也は……すごいから。隣に、いたら……邪魔になるんじゃ……ないか、って……」


 ついに泣き出した美香を見て、またしてもズルい奴だと嘆息を吐く。目元をぐいっと強引に拭う仕草がちょっと幼気で、美香が女の子であることを痛感させられる。


「俺、そんなに美香にとってすごい奴だったの?」


「……うん」


 自覚はない。別に俺は最低限の努力を惜しまんと、学生時代は勉学と部活を頑張っていた。でも友人には恵まれていたと思う。一緒に頑張るライバル的な奴も居たし、それは努力の賜物たまものと言うやつなんだろうが。


 美香は頷くや、続けて言葉を口にする。


「いっつも……誰かといたし……。部活も、頑張ってて……私と、話すの……卓也が開いた……勉強会の時くらいで……私、いない方が……いいのかな、って……」


 なんだよそれ、と強く吐き捨てそうになる。そういうところで自分の我儘なところを出さないと……なんて言おうとしたけど、今更言ったところで何も変わらないと悟って、またすぐ口を強く結んだ。


 後悔先に立たず。その言葉の意味を、美香を見てたら分かる。


 振り返れば、確かに美香は、友人のいる勉強会で半ば空気みたいなものだった。あまり混じり合うこともなかったし、話にも乗れていなかったからそう見えたのかもしれない。


「そんなこと……ねぇよ」


 そう吐き捨てた自分は、果たして本音で言えてただろうか。泣き出す美香に同情して、単なる優しさだけでそう言ったのかもしれない。


「でも……ごめん。俺はもう、美香のこと……」


「……なに?」


 大切にできない……なんて、酷いことを口にしようとしていた。それはきっと違う。大切にできないなんて……そんな人でなしみたいなことは言えない。


 ただ……美香が、大切にしたいと思える人の中で、一番じゃなくなっただけだ。


「ううん。今日は飲めて良かったよ。久しぶりに地元に帰ってきて、会えたのが美香で良かった。次は俺の奥さんも連れてくる。その時また、話そうぜ」


 俺はそむかず、しっかりと美香の眼を見据えて言い切った。美香にとって気に食わないことでも、それでも俺はこの関係を途絶えたくないと思っていたから。


 男と女の関係じゃなく、美香とは人と人の、普通の友好関係として。


 今ここで背を向けて言っていたら、きっと次はない。気まずくなってまた会おうなんて思えなくなる。それだけは避けたい。


「ありがとな、好きって言ってくれて。俺も……美香のこと、家族みたいに……ちゃんと一人の人間として大切に思ってたよ」


 俺は振り向きざま笑顔を浮かべ、最後までちゃんと美香の眼を見ながら言った。美香を一人の女性ではなく、まるで家族のように、自分にはいなくちゃならない存在なのだと訴える。


 交わることはないけど、それでも代わりのきかない人間なのだと。


「じゃあ……またな」


「……うん」


 頷いた美香は、泣き顔を一瞬ほころばせた。俺もそのまま笑顔で返して、そこからは一人で駅へ向かう。


 静かな夜道に足音は一つ。遠くからは車が行き交う轟音と、鼻をすする音が聞こえる。一人になると、いろんな思考が頭を巡りだす。


 美香が俺を好きだったことは正直嬉しかったし、学生時代のあの気持ちが報われたような気がした。


 俺は思っていた、美香のことを。でも、付き合い始めたら、美香とは今までのように気を遣わない関係を続けられないと思った。


 だから心に留めておくことだけにしたし、今日美香と話して、もし美香と恋人関係だったら彼氏だからとか彼女だからとか、そんな面倒なことを考えながら話してたような気がする。


 でも……ふと思った。もし、俺が女だったなら。俺は何も苦しまず、美香との関係を続けられていたんじゃないかって。


 社会的なことも性的なことも、何も考えず、気兼ねに「また会おうね」って言えてただろうし。美香でそういうことを考えることはないのに、それでも男と女というだけで人の眼はそういう方向に見る。


 だから思う。もし、俺が女だったなら。俺は美香も今の妻のことも、誰も傷つけずに済んだのかもしれない。


「もしもし……うん。今から電車に乗って……え? あ、いや……別に泣いて、なんか……」

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