第五章「勘がいい母親」
46「小鳥」
額に突き刺さった物を確かめている私の姿を見た7番は、首からぶら下がったスマホを取り出し、俯瞰から撮影するように手を伸ばしスマホを天高く構えた。
カシャッという音に気付き、私は顔を上げた。するともう一度カシャッと音が鳴る。
何かと思った私は、7番のスマホの画面に映る額を押さえ愕然とした表情の自分と顎の近くでピースマークをする7番の姿を見て何事かを理解した。
「ちょっ……」
私が口を開いたと同時に7番は構えていたスマホを下ろし、片方の腕で私を支えながらもう片方の手でスマホを操作し始めた。
『死にかけの他人を支えながらスマホ』という新しく斬新なジャンルのながらスマホをする7番に驚きを通り越し、感心してしまう私だったが、自撮りをした写真を確認した彼女が「うえぇ……」と小さく呟いた後で向けてきたスマホに映る私達の写真に、「あぁ、やっぱりな……」と落胆の色を隠せなかった。
7番に肩を組まれ、半開きで白目を剥いている不細工な私の額には巨大な牙が突き刺さっていた。
滑稽だと嘲笑ってくれたほうがどれだけ楽だったろう。7番はスマホの画面を私に見せた後で、再び自分の手元に戻しスマホを操作すると、すぐさま画面を切り替えインスタグラムを開き始めた。
額から滴る血液が目に入りそうで、眉を擦るように私はそれを必死で拭う。するとその瞬間、息切れするように消えかけていた私達の頭上のダウンライトの光がぷつりと途絶え、私達は仄暗さに飲み込まれる。
7番のスマホの画面だけが唯一の灯りになるが、7番はそれを気にせず、インスタのスクロールされていく投稿を眺め続けていた
仄暗さの中で7番の無表情だけが露わになっていた。私はそれを黙ってみていたが、鼻梁に伝わってきた血液がむず痒くて、揉み消すように手の甲でそれを拭った。
頬に広がってしまった血液はすぐさま乾き、私は顔に纏わりつくような血液に不快感を覚える。その後で僅かに生臭い鉄の匂いがしたがその匂いにもすぐ慣れてしまった。
──ハウリングは聞こえなかった。
それはきっと、近付いてくる『それ』が襲い掛かって来ているのか、それとも、ただ向かう場所も分からず倒れ込んで来ているのか分からなかったからかも知れない。そのどちらでもなくとも、今の『それ』は殺気を発することが出来ないほどに弱っていることは確かで、私の聴覚が『それ』を生物と呼ぶには少々無理があるように感じてしまったからかもしれない。
額に突き刺さる牙に気を取られていた満身創痍の私と、インスタの映え画像に気を取られていた満身創痍の7番が、近付いてくるそれの存在に気付くことが遅れてしまったのは仕方がないといえばそれまでだが、殺し屋としては明らかな失態であることは間違いなかった。
私達が振り返ったのと同時に『それ』は床に倒れ込んだ。
『それ』は狙ったからなのか、ちょうど私達の間をめがけて倒れ込んできたため、私は咄嗟に7番から離れた。すると『それ』は重力に逆らうことなく予想通りに私と7番の間に倒れ込んできた。
私と7番に境界線を引くように床に倒れた『それ』を凝視すると、僅かにグレーのストライプが確認できたことで、『それ』の正体が副社長だと気付いた。そして「なぜここに?」と疑問符を浮かべる私達の目に映るのは、辛うじてぐちゃぐちゃになった彼の口だと分かる部分に咥えられた丸い金属のピンのような物だった。
私の体が固まった。
おそらく同じように7番の体も固まっていたのだろう。
永遠かと感じるほどにその一瞬は長かった。その瞬間の一刻の中で私達の残りの寿命は使い果たされてしまったのかと感じるほどであったし、実際にそうだったのかも知れない。
寿命を使い果たした私達は拘束が解かれたように同時に息を吸い込んだ。そして頭の中で動かそうと思う前に、勝手にその場から自ら一歩踏み出したのは、反射によるものだったと思う。
さらに言えば、耳が良く情報量が普通の人間より多い私だけでなく、7番も同じ動き始めていたので、その危険性はその場の状況の判断で感じた物ではなく、経験則から導かれたものであると分かる。
頭の中でカウントをしながら『それ』から出来るだけ距離を遠ざけようと身を投げる。
──いち、
──に、
──さん、
それは、私が「よん」と数えるのと同時だった。
空中にいた私達よりも遥かに速いスピードで『それ』は飛んでいった。
横切る『それ』を横目に、私達は受け身を取りながら地面に叩きつけられる。そして『それ』は投げつけられるように乱暴に部屋の窓ガラスを割って屋外へ飛んでいった。
そして、私が「よん」と数え終わるのと同時に、屋外へ飛ばされた『それ』は空中で爆発した。
藍色の空にとっては、何かが破裂したという表現のほうが適切だったが私達にとってそれは巨大な爆発以外の何物でもなかった。
爆風は割れた窓ガラスを吹き飛ばし、突き刺すように破片を飛ばす。
突如、襲いかかってくるガラスの破片を纏った熱風と爆音に、私は頭を抱え、出来るだけ身を小さくした。
15秒程経った頃だろうか、爆薬の匂いが僅かに鼻に触れたことで、やっと私の耳は静寂に慣れることが出来た。爆発音による耳鳴りが支配していた私の聴覚は、徐々に主導権を取り戻していった。
私はゆっくり顔を上げる。視線の先には神田の弟がいた。
彼の心拍数が125回/分まで上昇していたのは、副社長であった『それ』を勢い良く投げ飛ばした身体的な要因によるものであるはずだったが、それ以外の理由があるのではないかと私が感じたのは、彼の呼吸の仕方がやけに穏やかに聞こえたからだった。
「……どゆこと」
ぽつり、というよりも、ふわっと、と表現したほうが適切な7番の息の多い声が漏れた。
すると神田の弟はその場で自身のネクタイを緩める。そして頭を無造作に掻いた。
髪の毛についた埃が姿を表し、彼の頭部に白っぽいオーラを纏わし、その仕草の中にもやはり神田の影が見え隠れするなと私は感じた。
身を屈ませる私に神田の弟は近付いてくる。
一歩一歩、あゆみを進めるたびに、彼の革靴がガラス片を踏みつけ、バリバリと音を立てる。
2mほどの場所まで近付いてきたところで、私は彼を見上げ、彼は私を見下ろす。
見つめ合う私達の間を夜風が吹き抜ける。私が唾を飲み込む音と呼吸を落ち着ける音がBGMとして流れる奇妙な時間だった。
彼の左目が右にズレていなかったことから、彼は私の左目を見ており、私は彼の左目を見ていたので、私達が見つめ合っていたことは間違いなく事実であったし、それを証拠づけるものは何一つなくても、私と彼だけがその事実を互いに認識しているだけで十分だった。
「ご苦労様でした」
掠れた声でそう言った彼が差し出した手の平は、やけに線が細く白くて綺麗な形をしており、彼の獣のような戦い方から連想される手の平の形とは程遠く、私は驚く。
そして何より、それが兄の神田の手の平とは似ても似つかない形だったことが私の脳裏に焼き付いて離れることはなく、その数時間後に駆けつけた「G.O.」の社用車に無理やり押し込まれ、半ば無理やり座席に座らせられた私が、背中を丸め、いつの間にか眠りについてしまうまでの間、私の瞼の裏ではずっと、彼の白くて綺麗な手の平が、澄んだ夜空を背景にぼんやりと淡く光る様子が映し出されていた。
その薄暗い処置室ではカラスの啜り泣きも聞こえなかったし、小鳥のさえずりも聞こえることなく、名前も知らない白いスーツの救護課の男性職員が私の脇腹に埋め込まれた散弾銃の弾をピンセットで取り除き、年季の入った金属の小さなトレーに丁寧に落としていくだけの音しか聞こえなかった。
私の額に埋め込まれた神田の弟の牙は、思ったよりも深く突き刺さっていなかったようで、私の額には簡易的な白い正方形の絆創膏が張られていた。
手持ち無沙汰の私は、丸椅子に座りながら座面の裏の皮のほつれを弄っていた。処置台のカートの上には薬品が入ったと思われるいくつかの茶色の小瓶とガーゼが数枚、そしてサイズの異なるピンセットが数本置いてあった。その脇の金属製の丸い灰皿に立てかけるように置かれた見覚えのある煙草からは紫煙が立ち昇っていた。
煙草から漂うガソリン臭さのお陰で、初めて私は麻酔にかかっているんだと認識する。
居心地の悪さに私は咳払いをする。だが、それが聞こえていないのか、それともわざと聞こえないふりをしているのか、処置をする男性は眉をピクリともせず、ただ手を動かしていくばかりだった。
「……ねぇ、あの
気まずさに耐えかねた私は口を開く。すると男性は左へ視線を向け、私の後方にあるカーテンを顎で指した。そして彼から僅かに聞こえたのは、口を開くのも億劫だと言わんばかりの小さな溜め息だった。
彼の態度が気に障るが、それを態度に出してしまえば彼と同等の人間に堕ちてしまう気がして、私は平然を装いながら、後方のカーテンへ視線を向ける。しかし、視線の先のカーテンの奥では灯りもついておらず人影は見えなかった。
私は彼女の姿の欠片を一目でも見ようと試み、首を反らすように顔を向ける。だがそのせいで体も動いてしまい、私の脇腹から弾丸を取り除いていた男性は「動かないで下さい」とぶっきらぼうに言い放った。
「……なんだ。口、利けるじゃん」
私がそういうと、男性は私の目にちらりと視線を合わせた。しかし、すぐに煙草の煙が私達の視線を遮る。
「そんなにいじめないであげてよ」
急に現れた声に私は驚き、心臓がビクンと跳ね上がる。
「久しぶりだね、3番」
女性の声色の成分を多く含んだ少年のような彼の声を久々に耳に入れた私はゆっくり唾を飲み込む。
そして、男性職員の陰からぬるりと現れたその声の持ち主の笑顔を目に入れた瞬間、腰のあたりに寒気を感じた。
「あっ、いや、ごめん。『元』3番だね」
そよ風に揺れる絹のような彼の声色から連想される笑顔の映像と彼の私に向ける表情が寸分の狂いなく一致していることが、より一層気味の悪さを引き立てていた。
「──社長」
じんわりとした温かくもある手のひらの痛みを感じた私は、無意識に丸椅子の座面の裏の革を握り締めていることに気付いた。
「今回は君に感謝しなくちゃいけないね」
そう言いながらニコニコと私に対し笑顔を振り撒く。正確に言えば私の知る限り、彼が笑顔を振り撒いていないことのほうが少なく、それはいつもと変わり無い普段の彼の表情であった。
「……感謝、ですか」
「そう。ありがとね」と社長はウインクをする。年齢不詳の彼のウインクはデビューしたての少年アイドルのようにも思えたし、人に好かれていることを自覚し当たり前かのように愛想を振り撒くベテランアイドルのようにも思え、さらに言えば、自分が可愛いと自覚し過ぎている現役女子高校生のアイドルのようにも見えてしまったが、それは私が疲れているからかも知れない。
「……はぁ」
溜め息混じりだった私の返事を彼は聞き逃さない。
「あれ? どうしたの?」
瞳を輝かせながら、彼は私の目線に合わせるようにしゃがみこむ。
処置台の縁を両手で掴み、覗くようにひょこっと顔を出した彼のくるんとした毛先が揺れる。
「い、いや……。別に」
彼の視線が痛く、私はそっぽを向く。
「あ、もしかして『元』3番が気に食わない……? そうだよね。元3番、って失礼だよね……。えー、うーん……、でもなぁ」
腕組みをしながら社長は目を瞑り考え込む。
「いや、ほら、みんなの手前さぁ、辞めた人間を番号で呼ぶ訳にはいかないしなぁ……」
頬をぷくっと膨らませ本気で悩む社長に私は困惑の表情を浮かべていた。
コロコロと変わる彼の表情はまるでシンのようであると私は毎回感じるが、決定的に彼女と異なるのは、本能のままに曝け出すシンとは違い、彼はそのコロコロと切り替わる表情でさえ、他人に見せる為にわざとやっているのではないかと感じさせるところにあった。
「……副社長を──、私が副社長を始末したことに怒っていないんですか?」
私が口を開くと、考え込んでいた彼の糸のような目がゆっくりと開く。その奥に覗く深淵は空のように透き通っていながらも、そのさらに奥には宇宙のような混沌が垣間見える。
すると社長は「ふふっ」と不敵な笑みを浮かべた、と思うのだが、その笑みでさえも、いつもの彼の表情と全く変化がなかったので、口を開いた彼の雰囲気から私が『不敵な笑みを浮かべた』と思い込んだだけかも知れない。
「怒るわけないよ。むしろ感謝してるんだ。彼を始末してくれてありがとう」
社長は深々とお辞儀をした。彼の天然パーマは重力に従うことなく、下を向いた時でさえそのカールを保っていた。そして、私はあまりの突然のお辞儀に呆然とし、ぴょんぴょんと跳ねる彼の毛先を無意識に目で追ってしまっていた。
「え、ど、どういうことですか……?」
はっと我に返った私は吃ってしまった。慌てる私を見て社長は「くすくす」と笑う。その表情もいつもの笑顔と何の大差のないものだった。
「あら? まだ聞いてないの? もう、2番のやつ! ちゃんと話しておいてねって言ったのにさぁ」
社長は両手を腰に当て、わざとらしく口をへの字にした。しかし、それはきっと神田が私に話をしていないことを見越して、分かった上で私に対し、『自分は怒ってますよ。そんな姿もキュートでしょ?』とアピールしているに違いなかった。
「分かったよ。ボクがいちから説明してあげる」
そう言うと社長は人差し指をピンと立てながら、またもやウインクをした。そしてその時に私の耳が「キラン!」という音を拾ったが、それはきっと私が疲れているから聞こえてしまった幻聴であると思いたい。
「──ほら彼って男性器を象徴してるような人でしょ?」
アイドルの顔から男性器という生々しい単語が出てきたことに私は耳を疑いたかったが、自分の耳を疑うなんて行為は私自身を否定することになってしまうので、取りあえずこの場では私の耳ではなく、彼の言葉の方を疑うことにした。
「見た目は綺麗っぽいのに血気盛んな所とか、すぐに沸騰しちゃう所とか、一度湧き上がったらすぐに収まらない所とかさ。だからボクはアイツが嫌いだったんだ。先代の副社長を始末したのがたまたまアイツの傘下の人間だったから副社長になったってだけで、ボクは最初から反対だったんだよ。キミもそう思うでしょ?」
得意げに話す社長のコロコロと変化する表情はやはり人を飽きさせない天性のものがあるなと私は感じていた。
「はぁ……」と返事に困る私を取り残し、彼はその言葉を連ね続ける。
「それに触れちゃいけない人にも触れちゃいそうだったし。まぁ色々あってボクはアイツを始末したかったんだ。でもうちの職員にやらせるわけにはいかないでしょ。そんなことやったら反感買うし、思わぬ摩擦が起きるかもしれない。ボクは全然そんなこと構わないけど、2番がそれは面倒だっていうから、外部に発注することにしたの」
「……それが私」
「そう」
「でも私達は副社長の始末なんて依頼されてませんけど……」
「そうだね」
沈黙が流れる。私はその後の彼の言葉を待っていたが、どうやら同じく彼も私の言葉を待っていたらしい。そしてその沈黙を破ったのは私だった。
「……あ、あの、副社長が私を狙っていたんじゃ? 1番から聞いてないですか? 私は神田の始末を依頼されて、その時に副社長の秘書の神田の弟が来たんですよ。あの件で副社長は私が神田を守ってると勘違いして私から始末しようとしてたんだと思うんですけど」
「あぁ、あれはね──」
社長が口を開くと同時に彼の後ろからさらに巨大な影が現れた。
「よぉ」
その声の掠れ具合と低音域の倍音を耳に入れるのが速かったか、それとも鼻筋の通ったゴツゴツした顔を目に入れるのが速かったか、もしくはガソリンの香りが混じった煙っぽい彼の匂いが鼻に入ってくるのが速かったのかも知れない。いずれにせよ、私が神田の存在に気付いたのはその一瞬の出来事であり、それまで一瞬たりとも自身の存在の片鱗を露わにしなかった彼は流石というべきであった。
「神田……さん」
左手を小さく挙げニヤッと笑う彼の仕草は伯父さんのそれとよく似ていた。
「おいおい、呼び捨ては止めろって言ってただろう? 俺はお前よりも年上だし、番号も若けぇんだから」
「まぁまぁ、いいんじゃん。どうせ『神田』なんてただの名前なんだし」
社長はくるんと振り返り神田に笑顔を振り撒く。すると神田はバツの悪い顔をし、小さく溜め息をついたあとで「……いやぁ、礼儀ってもんが」とボソボソと呟く。
それを塗り潰すように社長は「ん? なにかな、『2番』くん?」と2番という部分を強調して言い放つ。
「あ、いや、何でもないです」
面倒事を嫌がったのか、神田は視線を下に向け頭を僅かに下げた。その姿を細い目で微笑みながら見ていた社長は神田の肩を軽く叩いた。
「まぁまぁ、いいからいいから。じゃあ、後は説明してもらえる」
社長がそう言うと神田は「承知しました」と答え私に視線を向けた。そしてその瞬間社長に対する礼儀正しい態度が一気に解ける。
「そうだな……。どこから話すべきか、というよりもお前が何を知りたいか、だな」
ハウリングも聞こえない。ノイズも聞こえない。こんなに静かな場所で彼の声を聞くのは久しぶりだった。
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