44「雀」

 予想通りの言葉に吹いてしまった。

 私が吹き出した音は彼女の耳にも届いていたようで「え? なん?」といつも通りの独特な息の多さで返してくる。

 下半身が血まみれになりスーツのパンツが切り刻まれその合間から生の肉の筋をあらわにした目の前で倒れている女性を目の前にした女子高生が全く表情も変えずにその言葉を放つこの光景は、何も知らない人間の目には女子高生の頭がおかしいと見えるだろう。

 しかし、私にとっては違った。まるで貸したノートを返した時に言ったお礼の言葉が聞き取れなくて聞き返してきたような7番の返事は、いつの間にか私を学生時代に引き戻した。

 私には友達と呼べる人間はいなかったが、もし彼女のような細かいことを気にしない芯の強い人が同級生にいたのなら友達になっていたかもしれない。もしくは私が一方的に好意を持って友達になりたいと思ったまま過ごしていたかもしれない。

 そんなことをぼんやり考えていると、7番が巻き起こした風によって舞った埃の霧が少しづつ晴れていった。それはまるで学生時代の夢から一気に残酷な現実に引き戻してくれるように視界が明るくなっていった。

 すると私の隣で膝立つ7番の10mほど後方から、神田の弟が迫ってくる音が聞こえる。

「7番!」

 掠れた声で7番に伝える。7番はすぐさま振り向き床に落ちていた散弾銃を手に取り構える。

 しかし、神田の弟の勢いは増すことを止めない。彼が飛びかかる瞬間、7番は散弾銃を発砲した。

 破裂音が聞こえた時には、7番の前に神田の弟の姿はなかった。

 瞬時に身を屈めた彼は、手に持った牙を勢い良く7番に突き刺そうとする。しかし、7番はその動きに反応し自慢の脚力で彼を蹴る。

 7番の蹴りを両手で防ぐ神田の弟。その手に持った牙が、7番の蹴りによって手から離れる。

 蹴りを入れた7番はその反動でバランスを崩した。その隙を神田の弟は逃さない。

 仰け反る7番の軸足にめがけて彼は飛び込む。そして先ほどまで何もなかったはずの彼の口には急激に成長した牙が無数に生えていた。彼の顎は異様に大きく開いており、その姿はまさしく狂犬のように見えた。

 神田の弟が7番の脚に噛み付く。その勢いで二人は倒れ込む。

 倒れたままでも神田の弟は噛み付いた7番の脚を離さない。

「ちょ、うざいんだけど!」

 余裕をなくした7番の声には、まるで付きまとう小蝿に対する苛立ちのような感情が乗っていた。

 神田の弟は噛み付いたまま7番の首をめがけ手を伸ばす。しかし7番は体を大きく揺らし続けそれに抵抗する。

 神田の弟は彼女の動きを抑えつけるかのように何度も手を押し付ける。「やめろっての!」と7番は伸びてくるその手を散弾銃で殴る。しかし彼女の足は未だ彼に噛みつかれているままで、その威力は増していく一方だった。

 7番の呻き声と神田の弟の荒い鼻息が断続的に聞こえる。

 大柄の男性が女子高生の体を隅々まで喰らい尽くそうとしているその姿はとても痛ましく、見るに堪えなかった。しかし、私は7番を助ける術はないか、神田の弟のその丸まった背中に蹴りを入れるチャンスはないかを伺う為にその光景から目を背けようとは決して思わなかった。

 そして、その光景を見ていたのは私だけではなかった。

 

 久々にその音を聞いた気がした。

 床で這いつくばる「それ」から発せられる音と、「それ」の姿形が脳内で一致せず、私は一瞬混乱した。しかし、「それ」から発せられる音が間違いなく副社長のもので、血まみれの「それ」の表面の隙間から、グレーのスーツのストライプ柄が見えたことで、私は床で這いつくばると認識できた。

 血みどろの副社長と思われる塊がのそのそと動いていた。彼の微弱な運動に神田の弟も7番も気付いていない。

 微かな音を聞くことができる私だけが彼の雀の涙ほどの抵抗に気付くことが出来た。

 まだそんな力が残っていたのかと私は驚きつつも、下半身の感覚が無いまま床に寝ている自分も同じような姿形をしていることに気付く。

 動く彼の呼吸音は人間のものではなく、閉まりきっていないゴムの弁が流れ出る空気によって振動していると言った方が理解しやすいほどだ。

 そして彼の心拍は43回/分と、いつ心臓が止まってもおかしくない回数だった。

 しかし、芋虫のように蠕動する彼はなぜか私に向かって来てはいなかった。さらに言えば、神田の弟の攻撃を受け続けている7番の方に向かっているわけでもない。

 彼の行く先を目で追ってみる。しかし彼が目標としている明確なものは見つからない。

 一体どこへ? と疑問符を浮かべた私だったが、次の瞬間、窓からの隙間風によって彼が何をしようとしているのか理解できた。

 風はその勢いでこの部屋にたゆたう私達の生気を奪うだけではなく、床に散乱したガラス片や木片に触れ、部屋中の埃を空気中に舞い立たせる。

 風がその勢いを弱めた時、何かの光が私の視界に入り込んだ。

 その光は風によって転がった小瓶から発せられる物だった。その小瓶の近くには私のジャケットが脱ぎ捨ててあった。


 あれは、あれは何だ? と頭に浮かべた瞬間、その小瓶が何かを思い出した。

 記憶の蓋を閉め忘れていたおかげでそれに気付くことが出来た。

 あれは麻酔だ。紫仁の処置室からくすねた麻酔の瓶だ。

 副社長はそれに気付き、残っている力を振り絞って、その小瓶を手にしようとしているのだ。

 あの麻酔は神田も使っていた。鼻人である神田は、あの麻酔薬がある程度の距離でほんのわずかに気化するだけでその効果を得られる。しかし、常人であれば、あの麻酔薬に鼻を近付け勢い良く吸い込まないとその効果は得られない。

 副社長があの小瓶を開け、それを吸い込み麻酔の効果を得てしまえば、神田の弟に加勢するだろう。そうなれば7番が危ない。

 私は、7番にそのことを伝えようとしたが、どう伝えれば理解してくれるだろうかと考えてしまい口籠ってしまった。

「麻酔! 瓶!」と口にしたが、やはり私の声は掠れており、ちゃんと発声が出来なかった。というよりも、そもそも神田の弟を相手にするので必死な7番の耳には届かなかった。

 何とかして7番に副社長の存在を知らせなくては。

 動揺しているせいか、私は自分がいつも通りの呼吸が出来ていないことに気付く。

 大きく深呼吸しようとするも、大きく吸った息は傷付いた肺を膨らませたのか、胸部に突き刺すような痛みを生み出し、私はむせてしまった。

 しかし、私はもう一度深呼吸を試みる。

 胸部は再び痛みを訴えるが、先ほどよりもその痛みはわずかだが、穏やかになっていた。

 吸った分だけ息を吐く。吐いたときに痛みが無いのは有り難かった。

 もう一度と大きく息を吸う。冷気に混じった埃は鼻をむず痒くさせた。しかし気にしない。

 吸った息を体の中で留める。そして声帯にそれを送る。

「セールス!」

 よく通った声とは言い切れないが、神田の弟が私に意識を向けるには十分だった。

 私はもう一度息を吸う。「三度目の正直ってほんとにあるんだ」と私は心の中で、鼻で笑ってしまった。

「セールスマン!」

 7番も私に意識を向ける。

「営業!」

 神田の弟と7番が共に組み合っている力を緩めたと分かったのは、抵抗する7番の体の音が弱くなったからだ。

「セールスマン! 営業!」

 私の謎めいた言葉に神田の弟は顔をしかめていただろう。しかし7番は頭の中で一拍置き理解したようだった。

 7番は自身の脚に噛み付く神田の弟の頭に向け、もう片方の脚で蹴りを入れる。

 私の言葉に気を取られ互いに力を緩めたことも助けになったようで、神田の弟は7番の脚から口を離した。さらに、7番はすかさず彼の頭に追撃を与える。

 体を回転させながら放った7番の蹴りは見事、神田の弟の頭に命中した。

 神田の弟はその衝撃で体を仰け反らせる。四つん這いの形になった7番はその隙に立ち上がり、私の視線の先にいる副社長のもとへ駆け寄る。

 私は駆ける7番に向け拳を上げ親指を立てる。それに彼女は気付いていない。

 一目散に副社長へ向かった彼女は大きく脚を振りかぶる。

 振りかぶった脚が神田の弟に噛み付かれた方の脚だったため、彼女の後ろには途切れ途切れに半円を描いた血液の線が浮かび上がる。

 そして副社長が麻酔薬が入った小瓶に手を伸ばした瞬間、7番が横から突撃した。

 

 7番の蹴りは副社長である「それ」の中心点を捉えた。

 肉と骨がぶつかる音が聞こえた。どちらが肉でどちらが骨かは分からなかったが、確実に蹴った7番よりも蹴られた副社長のほうが損傷が大きいことは、「それ」が吹き飛んだ飛距離で理解できた。

 7番はその異常に発達した脚力を使ったのにも関わらず、何故かパンパンと自分の両手の互いの掌を払い自慢げな顔をしていた。

「まだ生きてたんか」と多く息を含ませながら言った彼女は、視線を私のほうへやり、私へ向けて親指と人差し指でハートマークを作った。そして私もそれに応えるように、親指を立てた拳を親指と人差し指のハートマークを変え彼女に送る。

 彼女の口角が緩んだのは音で分かった。

 壁に叩きつけられた副社長の心拍音は25回/分となり、あとは徐々にその音を弱め0に近付けるだけとなっていた。

 私は副社長が掴み損ねた小瓶は、7番の近くでキラキラと光っていた。

 その光に気を取られていたせいで神田の弟が攻撃を仕掛けてきていることに気付くのが遅れた。

 神田の弟は7番に向け、自身の牙を投げようとしていた。7番はその気配に気付き、瞬時に身を屈ませる。そして横に回転し牙を避けながら小瓶を手に取り、着地する瞬間にその小瓶を私の方へ投げた。

 私の目の前にその小瓶が転がってくる。投げた勢いで割れなかったのは、運がまだ私を見放していない証拠であった。

 着地した7番が神田の弟へ顔を向けた。神田の弟は7番の正面から飛びかかってきた。

 7番は持っていた散弾銃を再装填し、正面に構える。そしてすぐさま発砲した。

 発砲の瞬間、7番が散弾銃を少し下に向けたのは、先ほどと同じように神田の弟が自分の懐に入ってくると予想したからだろう。しかしその予想は外れた。

 神田の弟は、7番が銃を構えた時にはすでにその場で大きく屈伸をしていた。そして7番が引き金を引く瞬間、その場で大きく飛躍した。

 宙に飛んだ彼に銃を下に向けていた7番は標準を合わせられなかった。7番はただ呆然と飛び込んでくる彼の姿を眺めていることしか出来ないでいた。


 私がその麻酔を使ったのは「G.O.」を抜けて以来だった。

 幼かった当時の私は、何とも言えない独特なその麻酔薬の匂いが嫌いではなかった。しかし大人になった今改めて嗅いだその匂いはガソリンスタンドの匂いとよく似ているなと感じる。と言うよりもガソリンスタンドに初めて行った時、麻酔薬の匂いがすると感じたと言った方が正しい。

 以前、歯医者で親知らずを抜くため、普通の麻酔薬を使用した際に、私はあの独特な匂いが嗅げると期待していた。しかし、医師が「終わりましたよ」と告げ、銀のプレートに血がついた親知らずを見せてくるまで、歯医者が私に麻酔薬を使用したと気付かなかった。麻酔薬なしで歯を抜いたことにも気付かないほど、私は痛みに慣れてしまったのかと思い、殺し屋としての自分がこんなとこでも顔を出してしまうのかと落胆したが、実はそうではなかった。

 親知らずを抜いてからうがいをすると水が口から溢れてしまうのは、私がだらしないからではなく麻酔が効いているからだと、家に帰ってから教えてくれたのは母だった。

 家に帰った時にやけにうがいの水をこぼすなと何気なく思い、そのことを母に伝えると「麻酔してんだから当たり前でしょ」と洗い物をしたまま手を止めずに、さらには目線も変えずに言われた。その時に初めて自分が先ほど受診した歯医者で麻酔をしたことを知った。

 しかし、私の中では合点がいかなかった。何故なら麻酔薬を使用したのであればあの独特な匂いがしたはずだ。それなのにあの歯科医院ではその匂いのかけらも感じ取れなかった。私の鼻が花粉症か何かで正常に機能していないことも視野に入れたが、その日の昼食で母が作った味の濃いナポリタンからはしっかりとケチャップの匂いがした。ということはつまり、あの時私は麻酔をされたが、匂いはしなかったことになる。そうなると私は自分の常識を疑わなくてはいけなかった。

 もしかして麻酔には匂いが無いのか? という結論に辿り着くのは遅くはなかった。

 人生の基盤を作る幼少期に「G.O」で過ごしてきた私にとって、この世界との違いに驚くことは珍しいものではない。ただ、面倒なのはどれがこの世界の当たり前で、どれか「G.O.」の当たり前かを判断することだった。簡単に言えば『「分からない」が分からない』といったところだろうか。

 そして、この場合も同じだろうと当時の私は考えた。

 おそらく麻酔には普通、匂いが無い。あの独特な匂いは「G.O.」での当たり前ということだろう。

 私が好んでいたあの匂いは「G.O.」特有のものだと知って、私はこう思った。やはり私の血は「G.O.」を求めているのかも知れないと。

 その時の心境は決して心地の良いものではなかったのは言うまでもない。落胆と案の定と諦めのマーブル模様のような気持ちだった。

 神田はよく匂いは記憶を呼び起こすと言っていた。私にとってこの匂いはガソリンスタンドの匂いではなく、麻酔薬の匂いとして記憶されている。その事実が焼印となって私の体に「3番」の文字を刻印している。熱した焼ごてを私の体に当てた瞬間に漂うのは焦げ臭さではなく、ガソリンスタンドの匂いだ。その匂いが私の鼻をくすぐって描くのは、親知らずを抜いた日の、あのマーブル模様だった。


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