43「オイル」
心拍数はいつの間にか116回/分を超えていた。
この上昇は恐怖から来るものなのか、それとも全身に足りない血液を送るために私の心臓が過剰に働いているのだろうか。
冷たくなっていく体と熱を帯び続ける傷口。聴覚を取り戻した私の鼓膜。そして上昇する私の心拍数。
私の体は今、生きようとしているのか、それともそれを諦め始めたのか。どちらなのだろうか。
心拍は下降していないはずなのに、私の体温は深海の冷気に奪われていく。にも関わらず、私の無数の傷口は蒸気を発するかのように暖かくなっていく。
ちぐはぐな私の体の反応は、白か黒かと悩むどっちつかずの私とよく似ていた。
目に入ったそれが、私の腹部からの傷口からの湯気だと勘違いしたのはそんなことを考えていたからだ。
それは紫煙だった。
牙を掌に納めたまま、足元にいる彼はオイルライターの蓋を閉め、もう一度煙草を口元に近付ける。
「随分と悠長ね」
掠れた私の声は届いたのだろうか。囁くように口から出た私の言葉はこの深海で漂えたのだろうか。それとも沈んでしまったのだろうか。
返事は無かった。その代わり私の足に降りかかったのは彼の煙草から落ちた灰だった。
私の黒のローファーは今までの戦闘のせいで所々白っぽい汚れを描いていたが、そこにはしっかりと灰色の灰が上書きされた。
彼が大きく煙を吸う音が聞こえる。そしてそれよりも大きな音で煙を吐く。
嫌な圧が無い、クリアな世界で聞く彼の音はやはり神田の音とよく似ている。神田は普段煙草を吸わないが、神田が煙草の煙を吸って吐いた時の息を頭の中で想像すると、多分こんな感じなのだろうと思えた。
煙草を取り出し、火をつけ、煙を吸い、煙を吐き、煙草の火を消す。
煙によってもたらされる落ち着きは、ニコチンが体に及ぼす影響と言うよりも、その一連の動作を行うことによって生み出されているのでは無いだろうかとぽつりと考える。
喫煙者の無意識なその動作は、試合前のスポーツ選手のルーティンや、職人の手つきのように洗練されており、自慰的な行動のように思えるためか、卑猥で背徳的でありながらも、美麗で耽美だと思う。
床に落とされた煙草が「吸い殻」になったのはいつからだろうと、ふと考える。
床に落とされた瞬間に「吸い殻」となったのだろうか。それとも彼の手から離れた瞬間だろうか。もしくは彼が用済みだと認識した瞬間から、その手に触れていたとしても既に吸い殻と呼べるかもしれない。
寝転がる私の肩の近くに転がったそれは間違いなく「吸い殻」であった。
煙はまだ呼吸をしており、ツンとした独特な匂いが私の鼻をくすぐる。
大きく深呼吸をした。すると彼の煙草の匂いが一瞬の内に脳まで達してきたのが感じ取れた。
私はぼんやりと、指が動かせそうだなと思い浮かべる。
体が痛みに順応してきたのだろうか。それともこれは煙草の煙が見せる幻想か。
後者では無いと思えたのは、実際に私の左手の中指が思った通りに動いたからだ。その動きにつられて左手の薬指も動いた。
そして私が着火させた力の流れは左手へと段階を踏み伝わる。
小刻みに力が入った左手は少しずつ握り拳の形を作っていく。
しっかりと左手が拳を作れた瞬間、私は大きく息を吐いた。
それは達成感のようなものだったに違い無い。
私の目の前に現れた埃でも、煙草の煙でも無いそれは、一般的に言うならば「真っ白な吐息」だった。しかし今の私からすればそれは、反撃の狼煙と呼ぶにふさわしいものだった。
目の前に現れたその狼煙は白い気体だけでは無かった。
神田の弟が私を覗くように立っている。その後方10m程の場所から床が軋む音がした。その音に呼応するかのように、その周辺のガラス片や木片が大きく揺れる。
間違いない。7番だ。神田の弟は気付いているのだろうか。
彼が「
もし、彼が7番の高速回転の踏み込みに気付いていたとしても、それに気を取られている内に私が攻撃を仕掛ければ、どちらかの攻撃に対する反応が遅れるはずだ。
どうしようも無い現状を打破する糸口は、いつも、やけに息の多い独特な音がもたらしてくれた。
「助かる」と動かした私の唇を神田の弟はじっと見ていた。眉を動かすことなく、呼吸の流れを変えることもなく、ただじっと見つめていた。
それはまるで、仕留めた獲物が血を抜かれ皮を剥がされ一口サイズの食べ物になる過程を眺めているような目だった。
彼は7番に気付いていないのか。気付いた上でその眼差しを私に送っているのだろうか。
そんなことを考えている間、私は右手の掌にも力が伝わるようになり、左手は完全に私の物になっていた。
10m先の7番が踏み込みを一段と深くした音がする。
音量を増したそれに神田の弟も反応する。振り返った神田の弟が手に持っていた自身の牙を投げようとした瞬間には、7番が高速回転し、こちらに迫ってきていた。
7番が生み出した風の流れによって粉塵が舞う。埃が目に入りそうになった私は思わず目を閉じる。その風によって消えかけの私の存在は吹き飛んで消えてしまうのでは無いかと感じた。
まずい。彼女がこちらに高速回転で突っ込んでくる前にここから立ち上がって逃げなくては。
体が私の物になったと確信は出来なかったが、なんとしてでも動かなくては、私の体はまた別の誰かのものになってしまう。
死神だか悪魔だか先祖代々の霊だか知らないが、私はまだそんな自己紹介も挨拶もされたことも無いような奴らに自分の体を手放したくは無い。
まだ兄にスーパーカブを傷つけたことを謝っていないのだ。兄に怒鳴り散らされるまで死ぬわけにはいかない。
仰向けに寝転んでいた私は、両腕の力で上体を起こす。
視線の先にはハウリングを放ちながら神田の弟が高速回転する7番に向け牙を投擲する寸前だった。
「あっ」と思った私の口からその発声は溢れていただろうが、きっと7番の回転の音にかき消されていたに違い無い。
神田の弟は腕を大きく振りかぶり手にしていた牙を放つ。
7番が回転するちょうど中心にめがけて放たれた幾つかの牙は分散され、回転する7番を貫く。
牙が7番を直撃したのかはこちらから見て分からなかった。神田の弟が放った牙が7番の回転に吸い込まれ消えていったようにも見える。
しかし、いくら牙が7番の体を貫いたとしても7番の回転は止むことはない。
轟音と共に迫る高速回転。神田の弟はそれを受け止めようと構える。
その瞬間彼のハウリングが揺らめいた。
私はその揺らめくハウリングを縫うようにタイミングを合わせ起き上がる。
脚からの出血で濡れたスーツのパンツがこのマンションを扇ぐ風に触れ、冷たく感じる。
何も今始まったわけでは無いだろうと、服が濡れる不快感を嫌った自分に喝をいれる。
構える神田の弟はまずいと感じたのだろうか、一拍置いてすぐさま回転の軌道から逃れられる場所へ跳ぶ。
しかし、この状況で本当にまずいのは神田の弟ではなく私だった。
風圧に乗ってきた7番のハウリングが耳の中で轟く。
動け。動け。動け。
そう唱える私を垂直に近付いてくる台風の目が睨む。その眼差しは私の体を硬直させた。
動け。動け。動け。
顎に力が入りすぎて顔が震える。「動け、足」と私の強張った声帯が震える。
動け。動け。動け。
わずかに右足が宙に浮く。風圧で体が抵抗を受けるせいで、より一層体の重みを感じる。
右足が地面に着く。しかし、7番の高速回転はもうそこまで近付いてきていた。
左足を動かす。しかし体の重みは左足にしがみついて離れない。
噛み締めた奥歯の後ろから漏れた呻き声が風圧に飛ばされる。その音に引きずり出された体の力が左足を動かす。
しかし左足が宙に浮いた瞬間、高速回転の風圧が勢いを増した。そのせいでバランスを崩した私は体勢を立て直そうと左足で踏ん張る。その左足が右足にぶつかり足がもつれる。
そのまま情けなく床に倒れる。床に手がついた瞬間、ガラス片で掌や腕、胸や腹部に突き刺さる。
暗転したのかと思った。目の前が真っ暗になったと思ったがそれは一瞬の私のまばたきだった。
迫り来る台風の目へ顔を向ける。その目は私ではなく、私がいた場所の遥か先を捉えていた。
しかし、その全長は想像よりも大きい。目はその高速な回転によって隠していた鋭利な斧の刃で周囲を無造作に抉る。そしてその攻撃範囲の中に私はいた。
台風一過とはまさにこのことだなとぼんやり感じていた。
高速回転した7番は壁に突き刺さった二つの斧から手を離す。その持ち手から手が離れる際に彼女の手汗が音を立てる。
7番がこちらを振り返る。
「当たらんし。だる」と息の多い独特な声が漏れる。辺りを見回した7番の視線は、自分の作った高速回転の軌跡を辿る。
辿ったその先に、倒れた私の姿を目に入れた7番は大きく息を吸った。その音がわずかに残った意識の中で反芻される。
「……は?」
困惑した7番の声色が震える。
「ちょ、どゆこと」と7番は上手く発声出来ていないのに気付いていないのか、私にもほとんど聞こえない音量の声が漏れる。口から漏れたそれは、漏れた瞬間に風にかき消されてしまった。
7番が倒れる私に駆け寄る。私はなんとかして上体を起こそうと試みたが、どうやら下半身が斧で切り刻まれてしまったようで力が入らず、それはまるで上半身に大きな肉片がついているだけのように感じられた。起きるのを止めた私は顔を7番の方へ向ける。
「まじ、やばたん」
そう言って笑顔を作ってみたが、私の前で膝立ちをする7番の表情は曇ったままだった。そして彼女の瞳はシンよりも多く丸く見開いていた。
「死なないよね?」と7番は私に尋ねる。その声にはいつもより息が含まれておらず、素直に私の耳に届いた。
たかが数日前に出会った私の生死を心配してくれるのは、きっと彼女が若いからだろうか。私も昔は、たかが数回話したことのある同い年の女性と、話が弾むからといった理由だけで変に情が湧いたことがある。若い頃は人間同士の壁が薄い。社会性が未熟なのか、それとも純度が高いのか、後者だとすれば、大人になればなるほど社会性は濁っていくということなのだろう。なんにせよ、私が死んでいくのを見届けてくれるのが、ほんの少しでも情を湧かせてくれる彼女で良かったなと思う。
「ねぇ、死なないでしょ?」
数秒後の沈黙の後、7番は棘を含ませた声色で私にその言葉を投げつけた。
私はその棘が耳に刺さり我に帰る。頭の中の霧が一瞬にして燃やされた。その映像が流れた瞬間、いつか見た映画のラストシーンを思い出した。
確か、霧で覆われた中、車の中で拳銃を使い心中しようとした親子と数名の仲間だったが拳銃の弾が一つ足りず、映画の主人公であるその親子の父親だけが生き残ってしまい、車から出ると今まで周囲を覆い尽くしてきた霧が防護服をきた数名の軍隊のような人達が火炎放射器で周囲の霧を焼き尽くす、というシーンだった。
まさにそれだ。7番の言葉が火炎放射器のように私の耳を焦がした。
7番が私を心配してくれているなんて考えていた先ほどまでの私を愚かに感じる。
きっと彼女の「死なないよね?」の前にはその言葉の前に「3番なんでしょ?」と続き、「ねぇ、死なないでしょ?」の言葉の後にはきっと「3番なんだから」と続く。
そうだ。そうだった。彼女は「G.O.」の殺し屋だ。
彼女は私に変な情を湧かせる暇があったら、神田の弟を始末しようとするだろう。私が「G.O.」にいた時に彼女の立場であれば同じようにしたはずだ。
彼女が倒れた私を見て表情を曇らせたのは、私が死んでしまうのではないかと心配したからではないだろう。
きっと私がいなくなって一人で神田の弟を始末するのは大変だなとか思っていたに違いない。シンのように大きく見開いた目も、倒れる私の姿が現実のものだと思いたくないあまりに、そうなったのではなく、虫の息の私を見て、3番の実力ってこんなもんなの? とか思っていたに違いない。
私も弱くなったなと割れたダウンライトを見ながら思う。埃っぽいこの場所の空気を大きく吸って、それを大きく吐いた息にはもう、白い吐息となってこの世界に現れるほどの力はなかった。
しかし、まだ声は出せそうだ。
7番が生き残って私が死んだら、きっとシンや明太は鼻で笑うだろう。
シンは「れおちー、それでも3番かよ」とかあの大きな口をにんまりと開け、言うだろう。
そんなことを想像しただけでも鬱陶しくて堪らない。
下半身を切り刻まれてもなお私の中には怒りの種が芽を出そうとしている。それだけでなく、自分自身の甘さや弱さなど、必死で取り繕ったのにもかかわらず、はみ出してくる柔らかい部分がスライムのように溢れていた。
私はその鬱陶しい粘着質の高いその液体を振り払うように頭を振る。目の前で膝立ちをしている7番の息と心拍音が先ほどよりも鮮明に聞こえてくる。
そして彼女は息を吸った。その音は何か言葉を紡ぐ前に吸う息の音だった。
「──3番なんだから」
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