42「鮫」

 今まで貴重な情報として漂っていた7番や副社長の音たちは、もはやただの雑音でしかなかった。

 そう簡単に見つける事が出来ないと分かっていても、嫌な圧を感じたままの私の耳は、無意識に雑音の中から神田によく似た音を探してしまう。

 うずくまっているせいだろうか、もしくは私の今まで重要な情報として聞き取っていた音を余計な雑音と認識していまったせいだからだろうか、私は自分の周囲半径2m程の場所すら把握することすらもままならない。

 もはや私の耳は、いや、もはや私の脳味噌は7番や副社長の位置でさえも把握することを困難としていた。

 私は深呼吸とともに閉じていた目を開ける。

 床が目の前に現れた。その床は、うずくまる私の影の輪郭を写している

 視界が徐々に明るくなっているのか、次第に床に散らばった無数のガラス片が鮮明に姿を表す。

 しかし、それは徐々に明るくなっていたわけではなく、自分の目が暗闇に慣れたからだと理解できたのは、ガラス片に映る自分の顔がぼんやりとその色彩を鮮明にし始めたからだ。


 ずいぶん不細工な顔だなと思う。

 それは、下を向いたせいで顎が重力に従うままになっているせいか、いつの間にか出来ていた首の擦り傷から溢れる血液が右頬に滴っているせいか、さらには黒髪のウィッグが少しずれていたからだろうか。

 しかし、私の目元が文字通り体中の痛みに対して眉をひそめている事と、うずくまる私の顔が不細工になっている事がなんの関係も無いように感じたのは、どこか俯瞰で、冷静にこの現状を見ている私がいるからだろう。

 痛みには慣れっこだ。しかし、慣れているからといって痛くないわけではない。

 私の動きを緩慢にするこの忌々しい痛覚を遮断してやりたい思いは、変わらずこの深海の光のように細く、しかし鮮明に私の脳内に漂っていた。


 無機質な空気の流れは私の頬の血液の温度を低下させた。しかし、火照った私の表皮の奥ではその低下した温度をわずかに上昇させていた。

 前髪が目に入ってしまいそうでかき分けるも、一度目から離れた黒い束は磁石のように再び私の目に近付いてくる。

 私は頭頂部に手を置きウィッグを正しい位置に戻した。

 こんな危機的な状況でも、私は私でいることを保っていたいようだ。

 しかし、神田の弟は私の主張に耳を傾けてくれはしなかった。


 嫌な耳の圧の隙間から強めのハウリングが差し込んできた。

 私は差し込んできた方向に顔を向ける。

 雑音の森の中から鋭い眼光が揺らめいた。それはまるでシャッタースピードを遅らせたカメラが捉えた明かりのように、暗闇に蛍光ペンで線を描いた。

 そんな芸術を注視した瞬間だった。

 しゃがんでいた私の懐を影が支配した。 

 ハウリングは影と同じように私の鼓膜を支配する。

 耳から入ってきたその高鳴りは、鼓膜を刺激しただけでは飽き足らず、耳から首へ、首から背中と手の指先へ、背中から腰へ、腰から下腹部へ、下腹部から肛門へ、肛門から大腿部へ、大腿部から足の指先へとその電気信号を稲妻のように轟かせる。

 体の強張りは、鼓膜を刺激したその電気信号のせいか、もしくは目の前の影からハウリングしか聞こえないことへの恐怖心か。

 音は私の全身を依り代としてその感情を露わにする。

 私の体を動かしているのは音か、私か。

 その二択で音を選んでしまうのは、神田の弟に支配されたと考えたくないからだろうか。彼に支配されるよりかは音に支配されていた方がまだマシに思える。

 正直どちらに支配されていても、私の体が思うように動かないことだけは変わりない。


 硬直したままの私の体がふわりと宙に浮かんだのは気のせいではなかった。

 先程まであんなに重かったはずの私の体は、胸の位置から押し上げられる突発的で強烈な力によって手足や頭を取り残すように上へと移動する。

 それが私の懐の入り込んだ影によって引き起こされたものだと気付いたのは、強制的に肺から口へと空気が押し出される気持ち悪さと、言葉通りまさに、胸を引き裂くような痛みを感じた時だった。

 胃液は食道を伝わり、心地よいとは決して言えない酸味だけを置いてけぼりにし、私の目の前に現れる。

 強制的に空気を吐かされたせいで脳に酸素が回らず認識できなくなっているのか、耳に伝わったハウリングが一瞬途切れる。

 いや、もしかしたら私はもうここで死んでしまったのだろうか。そのせいでハウリングが途切れたのかとも考えられた。

 しかし、そんな風に考えられるという事実は、私の火はまだ消えていないのだと確信させてくれた。その証拠に、一瞬途切れたハウリングは編集で不要なシーンを切り抜いたようにパッと聞こえ始めた。

 一体どんな下手くそな編集の仕方だと私は心の中で悪態をついた。


 そんなことを考えていたせいだろうか、気付くと私の視線の先には灰色の天井の元で規則的に並びながらチカチカと切れかかる割れたダウンライトがあった。

 床に寝ている。背中の痛みはきっと割れたガラス片がや木の破片が引き起こすものだろう。胸の圧迫したような痛みはまだ続いている。

 口の中に血液が溢れ出してくる。それが口腔内からの出血なのか、肺や胃などの内臓からの出血が食道を逆流し、口腔内まで溢れ出たのかは分からない。ただ今の私は鉄の味をちゃんと認識できるほどの意識は持ち合わせているようだ。


 呼吸をしようと試み、意識的に息を吸う。しかし、その度に胸部の痛みは増し、息を吸っている途中でむせてしまう。

 そのむせこみで、知らずに私は吸っていた息を吐いていた。私の呼吸は虫の息と称するにはあまりに騒がしかった。

 降り注ぐ割れたダウンライトの光はこの部屋に舞う埃を不規則に照らす。

 ちらちらと舞う埃はいつか、私が倒れているこの床に落ちるとも知らずにこの部屋に浮かんでいる。

 まるで1秒間に流れる時が1分に感じるほどだった。

 埃は埃自身の持つ時間で生きている。生きているというべきかは分からないが、少なくとも、いま仰向けで倒れている私よりかは生きているという言葉がふさわしいように思えた。

 漂う埃の持つ時間が遅く過ぎるのか、私の時間が早く過ぎるのか。

 もしかするとこの世界の時間は、私の上に浮かんでいる埃の時間と同じかもしれない。この世界の時間よりも私の時間は早く過ぎているのかもしれない。

 そう思えるほど、私はこの世界に取り残されている気がした。いや、私がこの世界を置いてけぼりにしている気がしたという方が正しい。


 誰かの溜め息が聞こえた。

 その溜め息が、自分のものであり、私の呼吸が少し落ち着いた合図だったと理解できたのは、私が吐いた息によって、顔付近に舞う埃が不規則に私の時間と同じ速さで動いたからだった。

 私の世界に急に取り込まれた埃は、この場を去るようにどこかへ消えてしまった。

 その埃の行方を目で追っていたが、一瞬のうちに見失ってしまった。

 私の時間では埃は生きてさえ行けないのか。

 ほんの少しの寂しさは夜風の冷たさに適応できなかったのだろうか、暖かさを失った私の寂しさは、低体温症のように小刻みに震えていた。

 それと同期するように私の顎が小刻みに震える。

 呼吸は出来ていたはずだった。

 いや、人間は呼吸が出来てさえいれば生きていけると錯覚してしまったのはなぜだろうか。

 私の腹部からの傷口から流れる血液は、酸素と一緒に体温も私の体の外へと零していった。

 

 足音が聞こえる。それが足音だと分かったのは規則的なガラス片や木片を踏んだ音がしたからだ。

 耳の中の嫌な圧はいつの間にか消えていた。

「分が悪いよな」

 低音域の倍音が多いのは神田の声とよく似ていたが、やはり少しうわずったような声色に違和感を覚える。

 そして私はもう一つ、彼からハウリングが聞こえないという違和感に耳を傾けた。

 耳の中の雑音が幾分かクリアになったこの世界は、ずいぶんと広く感じた。

 傷口から溢れる血液は私の体温を奪っていくのに対して、なぜか無数の傷口はその周辺に熱を帯びさせていた。

 冷え切っているはずの私の体の芯と、それに反してじんわりと火照る傷口が私の感覚を狂わせる。

 近付く足音に耳を傾けていると、不思議とその狂った感覚が髪の毛をまとめるように私の手中に収まっていく気がした。

「すまないな」

 その言葉とは裏腹に彼の声からは申し訳なさなど微塵も感じない。

「本当にすまないと思っているよ。君を巻き込むつもりなんてなかったんだ」

 深海の光の隙間で冷たく光る彼の言葉は、揺らめくことなく私の耳へ一直線に届いた。

 彼の言葉を頭の中で文字にする。その行為のおかげで、私の正気は保たれた。

「まさか、よりによって君とはね。運命という言葉は嫌いだが、それ以外の言葉が見つかりそうにないな」

 彼の言葉を乗せた足音は、寝転がる私の足元までくるとその音を閉ざした。

 神田と同じような高さから彼の音が聞こえた。神田とよく似た呼吸の音は、嫌な圧に邪魔されておらず、その開放感が心地よく感じた。


 足元に立つ彼が口元に手を当てるのを音で把握する。そして何か硬いものを折るような音が聞こえた。

 彼の存在を耳で確かめていることで正気を保っている私の中で、一つの合点がいった。まだ働く私の思考回路は赤ランプを灯してはいないようだ。

 彼との戦闘で見かけた牙のような物。彼の凄まじい威力の噛みつき。そしていま私の足元で口元に手を当てる彼。

 つまり、彼は口に存在する武器で対象者を始末する殺し屋ということだ。──と言っても現在の彼は殺し屋ではなく秘書だということらしいが。

 彼は口から「それら」を手に取り武器にしているようだ。そして時には「それら」が生えたままの口で対象者に噛み付く。

「それら」は普通の物とは違うようだ。私の背中に刺さった「それら」を手にした映像が脳裏に浮かぶ。

 恐竜の歯のような、硬く掌に収まるほどの牙。

 その正体はおそらく彼の「歯」だ。

 

歯人はじん」と呼ぶべきだろうか。

 彼は異常に発達した「歯」を武器に戦闘を行うのだろう。

 記憶に残るシーンを一つずつ紐解くと、彼の「歯」が発達している部分は二つあると考えられる。

 まずはその形だ。

 普通の人間の歯とはをしている。それは私の背中に刺さった時と、神田を始末するのに共闘した現場に落ちていた時に見た物から言って間違いないだろう。

 恐竜の歯の化石のように大きく硬い彼の歯は、歯というよりもと称した方が腑に落ちる。

 彼はその牙を生やした口で神田に噛み付いた。その傷跡が抉ったようなものだったのはそのためだ。

 そしてもう一つ、異常に発達している部分はそのだ。

 それは歯と言うよりも、彼の体自体が異常に発達していると言った方が正しいのだろう。

 つまり、神田を始末するために共闘した際、彼が投げたものは自身の歯だったということだ。

 牙のような無数の彼の歯が凄まじい速度で自分に向かってくることを想像すると、銃を発砲されるよりも恐ろしく感じる。

 彼が自分の歯を抜いてそれを安易に投擲できるのはその成長スピードが異常だからに違いない。

 彼が自身の歯を何度も投擲できたのは、からだ。それも異常なスピードで巨大に成長し、すぐさま彼の武器となる。

 そして彼の武器は失われた瞬間に、自らの体の中で瞬時に生成され、いつ抜いたことかも分からないほどの速度で入庫される

 現に今、私の足元に突っ立っている彼が、口に手を当て硬い何かを折るような音を発したのは、彼がその掌に鋭利な牙を納めているからに違いない。

 

 彼の歯をその何度も生え変わっていく性質と考えれば「鮫」と言った方が正しい気がする。

 しかし、実際にレスリングのような地を這う彼の戦闘スタイルと噛み付いた傷跡を見た私は、彼を「犬」のように思った。

 彼は、神田のような従順で理性的な警察犬ではなく、縄張りを荒らされ怒りに身を任せ襲ってくる野犬だ。

 ただ、話し方や体の動かし方などの彼らから発せられる音や立ち振る舞いに関しては、神田は荒っぽい野犬のようだし、私を始末しようとしている彼は冷静な警察犬のように思える。

 兄弟なのにこうも正反対な人間になることは、真面目な警察官の兄と大雑把で楽観的な女子高生の妹を持つ私には痛いほど理解できるものだった。

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