41「ガゼル」

 ガラスの破片や木片で散らかった床に突っ伏す彼の背中が、呼吸に合わせ上下する。それはまるで大きな熊か何かが目の前で倒れているのかと思えた。

 窓ガラスから覗く街の明かりは暖色系の光で溢れている。外から吹き込んでくる風は今の季節にしては冷たく感じた。

 鼻腔に刺さる冷気とは別に何か化学薬品のような匂いを感じ取った。きっと神田ならば文句を言っているだろう。

 私にとっても、このプラスチックの焼けたような奥歯が浮くような匂いは心地の良いものではなかったが、なんとなくこの街並みには似合っているような気がした。

 私の脳はきっと今日のことを、この異臭とも言えるべき匂いと共に記憶するだろう。

 倒れる副社長に近付こうと足を踏み出すと、床のガラス片が小さく音を立てる。

 その音に集中してしまっていたせいか、彼の呼吸の音は耳には入ってこなかった。

 私は散弾銃を再装填させた。しかし弾が空になっていた為、窓から吹く隙間風の隙間の中で虚しく音を響かせた。

 中身が空っぽになった散弾銃を床に放り投げる。床に寝転がっている副社長の体よりも、私が投げ捨てた散弾銃の方が生き生きして見えたのは気のせいだっただろうか。しかしもちろん、真っ黒な一つ目の生き物からは、もう音は聞こえない。


 部屋中に舞った煙がようやく落ち着いてきた。

 7番の声が聞こえた方に目を向けると、そこには天井に突き刺さった斧にしがみついている彼女がいた。

 どうやら彼女は副社長が投げた斧が頭上を通過した瞬間に飛び上がり、斧を掴みそのまま天井へ突き刺さったのだろう。

「ちょっ、もう始末したん?」

 驚いた様子の彼女は体を前後に揺らしながら言う。そしてその前後の動きに合わせ、勢いよく体を縮ませた後で一気に前へ体を仰け反らせた。

 振り子のような彼女の動きに耐えきれなくなった斧は、彼女が体を仰け反らせると同時に天井から抜ける。

「おっ、と」

 床に着地すると同時に、床に斧を突き刺し彼女は膝立ちで地面についた。斧と床がぶつかる音はそこまで鈍い音ではなかった。

 7番のスカートがふわりと重力を失くし宙に浮遊した。スカートから覗く足は黒タイツを纏っていたが所々解れており、薄っすらと出血しているのが見えた。

「もうやっちゃったの?」

 頬を膨らます彼女は、まるで「一緒に帰ろうって言ったのに何で待っててくれないの?」と言うように話しかけてくる。

「いや、まだ死んでない」

 寝転がる副社長から目線を反らさず私は答える。まだ彼の背中は上下に動いている。

「それ、貸して」

 私は7番を見ず手を伸ばした。

「え? あぁ、これ? いいけどあんま乱暴にしないでよ」

 7番は床に突き刺さった斧を抜き私に渡した。

 斧を受け取った私は、その重さに驚く。

 見た目よりもずっしりとしている彼女の斧を持っていると肩が外れそうになる。

 なるほど。これじゃ引きずるので精一杯な訳だ。

 私はその斧を肩に担いだ。そしてゆっくり副社長に向かって歩みを進める。

 その一歩一歩が重かったのは7番の斧のせいではないだろう。

 彼の話がまだ少し引っかかっているのかも知れない。神田の主人のこと。護音と言う組織のこと。彼が言った「……誰も死なないように」という言葉。

 私は自分の中の余計な思考を振り払うように副社長にめがけて斧を振りかぶった。

 空を切り裂き一直線に放たれた斧は副社長の体を二つに分けた。

 そのイメージを瞼の奥に描いた私は自然と目を瞑っていた。そのことに気付いたのは私が放った斧が何か硬いもので阻まれたことに驚き目を開けた瞬間だった。


 くるんとした毛先が一番に目に入った。

 隙間風のせいで左右に揺れるその髪は、私が雲と見間違えた、あの日の夜空に揺らめいていた一筋の煙と重なる。

 私が振り下ろしたと思った斧は中腰になった彼の頭上で止まっていた。

 聞こえてくるのは神田によく似た彼の音と、彼の髪を揺らす風の音だけだった。

 

 私の後ろにいた7番が「え?」とも「は?」ともつかない声を上げる。

 その声を耳たぶに灯しながら、私は大きく息を吸った。

 それまで自分が息を止めていたことに気付いたのは吸った息を同じ大きさで吐いた時だった。

 私の呼吸が始まると同時に目の前の男性は起き上がり、防いでいた斧を外へ払う。

 握りしめていたはずの斧が彼によって受け流された。その力に抵抗できなかったことに驚く私は床に落ちていく斧を呆然と眺めていることしかできなかった。

 彼の登場に腰をぬかしたのか、はたまた始末できると思った寸前に思わぬ邪魔が入ったことに出鼻をくじかれたのか、それとも予想していた人物がそのタイミングで登場したことに肝を冷やしたのだろうか。

 いずれにせよ彼によって私の握力は弱まり、彼が払った斧は床に落ちた無数のガラス片の上に落ちていった。私の体を突如蝕んだ彼の神田に似た音は、耳でもなく、腰でもなく、鼻でも肝でもなく、確実に私の指先を浸食していた。


 上体を起こした彼はゆっくりと深呼吸した。私は彼の呼吸の音に触れ、あの夜を思い出した。神田を始末しようとしたあの夜だ。

 シンが爆破させたヘリコプターから立ち上る煙の臭いが未だに鼻に残っているように感じた。

 鼻を擦った私を見て男性が口を開く。

「すまない」

 彼のちゃんとした発語を耳にいれるのは初めてだった。神田の声よりも少しうわずったような声色は窓の隙間から吹く風にかき消される事は無かった。

「──謝るくらいなら邪魔しないで」

 そう吐き捨てた私は、彼の頭部にめがけて蹴りを食らわせた。

 しかし私の足は硬い何かによって防がれてしまった。右側頭部を覆うように出した彼の両手は異様に硬く、私は違和感を覚えた。

 人間の腕はこんなに硬いものなのだろうか。

 しかしその疑問符は、7番の高速回転によって吹き飛ばされた。

 私の後ろからの爆発音とともに7番が高速回転してくるのが横目で見えた。

 風圧で私の髪がなびく。私が身をかがませたときにはすでに、7番は目の前の男性に追突する寸前だった。

 しかし男性は体を低くし前転のように斜め前に転がり高速回転を避ける。

 私の右隣に避難した男性は副社長を抱きかかえていた。


 私は落としてしまった斧を掴む。その瞬間、男性が飛びかかって来たのが、私の周りの空気が揺らめいた音で分かった。

 男性の姿で視界が覆われる。そして私の視線は、男性の影が視界を覆う中、その影の隅に見えた床に寝転んでいる副社長へ誘導される。

 それはまるで、目の前の現実から目を背けようとする私の自意識のように、自然と受け入れたくないものから目を逸らしているようだった。それがどんなに近く巨大なものであったとしても。


 私は後方へ避けようと体に力を入れた。しかし迫ってきた男性は私に飛びかかりながら何かを投げつけてきた。

 急激に音量を上げたハウリングが私の耳を掠める。同時に、振り返った私の頬を男性が投げた物が掠める。

 痛みよりも頬に触れた液体のぬるい感触が先に私の脳に届く。

 私は体を反らし後方へ回転した。

 

 地面に着地した私の目線は男性を捉えたままのはずだった。

 しかし、私が居た場所に飛びかかったはずの男性の姿が見えない。

 どこだ?

 音に意識を向けるが、耳に入ってくるのは副社長の荒い呼吸の音だけだった。

 その瞬間、ハウリングが急激に私の頭を響く。

 突如私の頭上から何かが降ってくる。

 私は反射的に頭を守る。背を向けた天井から何かが降り注ぐ。

 それは弾丸よりも遅い速度で、弾丸よりも大きく、弾丸よりも鋭利だった。

 鈍い痛みは、私の背中の至る所から発生している。背中に突き刺さったそれらは、私の背中を貫通することなく、杭のように打ち付けられていた。

 新しい痛みで更新された私の傷だらけの体は、まだちゃんと痛覚に対して反応していた。どうやらまだ私の痛みのストレージの空き容量は残っているみたいだ。

 しかし、私のCPUは色々な感覚を処理するのに精一杯でラグを生み出していた。

 背中の痛みで体を動かせない。

 無理に動かそうとすると、背中に刺さったそれらが僅かに傷口に触れる。そのせいで痛みが産まれる。その繰り返しだった。

 Yシャツに滲み出た血液は、私の脇腹を伝い、胸や腹部まで侵食してくる。その生暖かさを不快に感じた私だったが、しばらくするとその不快さが癖になってくるのだろうか、血まみれのYシャツに触れる肌はいつのまにか鳥肌を立たせていた。

 床にうずくまる私は、自身の背中へと手を伸ばし、背中に突き刺さった何かに触れる。

「──痛っ」

 触った感触は石のようであった。その形は歪な二等辺三角形で、鋭利な角の部分が私の背中に突き刺さっているのだろう。

 私はそれを引き抜いた。と同時にうめき声が口から漏れる。漏れたのは声だけではなく、突き刺さっていた何かが抜けた傷口からも生暖かい液体がじわじわと溢れる。漏れ出す液体は私のYシャツをさらに汚した。

 その光景だけに着目して見ると何か卑猥なことをしているようだなとくだらないことを考えてしまう。


 背中から抜いた何かは掌に収まる程度の牙だった。いや牙と呼ぶには随分と硬く、大きすぎた。どちらかと言えば、博物館でみた恐竜の歯の化石に近い。

 しかし、どこかで見た記憶があるなとぼんやり考えている余裕は私になかった。

 私が体をほんの少し動かす度に、背中の傷口は悲鳴を上げる。

 私は耳に集中し、男の行方を探す。

 しかし、研ぎ澄ましたはずの聴覚は、体中の痛みによって邪魔される。

「はあ、はあ、はあ……」

 自分の荒い息遣いが鬱陶しい。

 私は彼の存在を示す何かの糸口を探す。牙を握りしめる手に力が入る。


 私の呼吸。7番の呼吸。副社長の呼吸。私の血液が垂れる音。7番の血液が垂れる音。副社長の血液が垂れる音。空いた窓から聞こえる風の音。私の上昇していく心拍の音。

 私はこの空間に漂う無数の音をかき分け、彼の音の輪郭を掴もうとする。

 しかし、彼の音に触れることは出来なかった。


 こんなにも人の音が聞こえないは神田くらいなものだ。確かに神田の弟ならば私の聴覚から逃れる術を知っていてもおかしくはないだろう。

 以前、彼と神田の始末をする際に共闘した時にはちゃんと彼の音が聞こえた。だからこそ彼の動きや呼吸を把握して協力することが出来た。

 しかし今回は彼の音が聞こえない。

 いや、正確には耳に水が入ったようにぼんやりとしか聞こえなかった。

 嫌な圧が耳の中を支配し、彼の音を妨げる。そんな感覚に近かった。


 この感覚は、神田の音が聞こえないのとは明らかに違う。

 神田の場合は、真冬の早朝のようにピンと張り詰めたような静けさで支配される。それに比べると、彼の音を妨げるこの圧は少し不快に感じ、なぜだか落ち着かない。

 私は意味が無いと分かっていながら、顎を少し動かし耳抜きをする。しかし、彼の不快な圧は先ほどよりも増して私の耳の中を支配したように感じた。

 彼がどうやって私の耳に嫌な圧をかけ、自分の音を消しているのかは分からないが、一見すれば超能力のようなそんなことをいとも容易くできてしまう彼は、すぐカッとなる短気な副社長よりも何倍も相手にしてはいけない人だったなと私は今、後悔してる。

 さらに言えば、彼は私と共闘して神田の始末をする為に、わざと私の耳に自分の音を聞かせていたのかもしれない。そうすることで私との連携を取りやすくする為だろう。

 あの時、私が神田を始末する為に突如現れた謎の男を利用する前に、私は初めから彼に利用されていたのかもしれない。

 うずくまりながら彼の音を探す私の姿は、まるでライオンの縄張りの中心に踏み入れ、なす術なく座り込む一匹のガゼルのようだった。


 私はいつからガゼルだったのだろうか。

 604号室の扉を開けた時からだろうか。このマンションのエレベーターに足を踏み入れた時からだろうか。伯父さんから紫仁が殺されたと言う一報を耳に入れた時からだろうか。 いやもっと前だ。

 私が副社長の側近の傭兵を相手していた時かもしれないし、神田の始末を依頼された時からかもしれない。

 ここ数ヶ月間、私は知らぬ間に彼の縄張りの中心だとも知らず滑稽に倒立回転をし続けていた。

 自分のいる場所は、白か黒かなんて考えていたが、実際のところ白か黒かなんて考える自由も与えられておらず、彼の手の平で描かれた白と黒のグラデーションの上をコロコロと転がされているだけだった。

 私は、神田が一番初めにこの人を始末したかった理由を肌で、いや、嫌な圧が居座り続けるこの耳で感じることが出来た。

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