36「肉」
洗面所の黒い床に倒れた私は、起き上がった副社長の手によって仰向けにされる。
「──うっ」
思わず声が漏れる。脱力した私は視線を右に向ける。
視線の先に、浴室の真っ白な床が目に入る。凸凹したその床に飛び散っていた水滴は、なんの曇りもなく真っ白に反射する。
浴室の透明なガラスの扉は、一切の曇りなく真っ白な床を映している。意識の薄れた私には少々眩しすぎるほどのその白さは、私には到底手の届かない聖域のように思えた。
私は思わず、その聖域へと手を伸ばす。
しかし、手を伸ばしたところで何が掴めるわけでもなく、私の意識が明瞭になるとも思えなかった。だが、薄れた意識下で私が本能的に求めたのは、どうやら黒ではなく白だったことは確かだった。
すると、突如私の体が宙に浮いた。
私が求めた白は天国の白だったのだろうか。天使が私を天界へ連れて行ってくれるのだろうか。
ぬいぐるみのように抵抗することの出来ない私の体は、薄れかかった私の意識とともに宙に浮いていた。
しかし、現実はそんなオカルトな状況ではなかった。
薄れかかった意識で顔を動かすと、目の前には副社長の顔があった。そして私は徐々に息苦しさと圧迫する何かによって、首が痛みを訴えていることに気付く。
そう、私の体は首を掴んだ副社長によって宙に持ち上げられていた。
視線を落とした先には、私が手から落としたであろう拳銃が床に転がっているのが見えた。
「やっと大人しくなったな」
私は彼の手を首から引き剥がそうと抵抗したが、彼の手は私の首と一体化しているように固かった。そして、それは私の手に力が入らなくなっている証拠でもあった。私は足を動かそうとしたが、虚しくも空を蹴っただけで、私の体が微かに揺れる程度の抵抗しか出来なかった。
「……くそ」と吐き捨てるように言葉にしたつもりだったが、うまく発声出来ていたかも分からない。
意識が飛びそうになる。もうすでに右肩と左脇腹の出血は感じない。ポタポタと何かの液体が落ちる音が鬱陶しいノイズの裏で微かに聞こえた。
息が出来ない。そして全身がじわじわとする感覚に支配されていく。引きはがそうと必死にばたつかせる両脚は、私の体にぶら下がっているただの大きな肉の塊と思ってしまう程に感覚を失っていた。
おそらく頸動脈が圧迫され全身に血液が回っていないからだろう。そのせいで思考回路もスリープモードに入ろうとしていた。
「だんだんお前の色が消えていくのが見えるよ」
副社長はほくそ笑みながら私に唾を吐きかけた。薄れゆく意識の中で彼の動かした口の中から飛んだ唾液がスローモーションで宙を舞う。
その唾液が私のスーツに飛び散る。染み込むことなく私のジャケットに飛び散った彼の唾液は表面張力によって小さな半球状に変化した。黒いスーツだからだろうか、彼の飛び散った唾液はしっかりとその輪郭を残す。
その半球状に変化した唾液を見つめる視界は、外側から暗くなってくる。徐々に視界を侵食していく暗闇はまさに緞帳とも言えた。
そうか、私の緞帳は灰色ではなく真っ黒だったか。そして意外なことに上から降りてくるのではなく視界の四方から閉まっていくのか、とぼんやり考えてしまった。
緞帳が閉まりかけたその時、聞き覚えのある爆発音が聞こえた。
その数秒後、凄まじい轟音を立て、何かの重機が建物を壊しているような音が聞こえた。
それはもちろん鬱陶しいノイズに遮られていたが、その凄まじい轟音は相当な音量だったのだろう。意識が飛びかかった私にもはっきりと聞こえるものだった。
そして数秒後、また何かが爆発する音が聞こえ、何かの重機が建物を壊しているような音がまた聞こえた。さらにその音は先ほどよりも近い場所で聞こえる。
私は音のする方へ顔を向けようとするが、副社長の手によって微動だにすることが出来かったため、視線だけをその音の方へ向ける。
「……ちっ、なんだよ」
同じく副社長もその音のする方へ顔を向けた。
どうやら、あの重機のような物が繰り出したような音は、耳がいい私以外に、副社長にも聞こえているらしい。ということは、相当な音量だと分かる。
その爆音は間違いなく意識を飛ばしかけた私が生み出した幻覚ではないことは確かなようだった。
その数秒後、またあの轟音が聞こえる。そして先ほどと同じとようにその音は近付いてきている。
その音に気を取られた副社長の力が少し緩んだのを感じた私は、両足をバタバタと動かし、再びもがき始めた。
それに気付いた副社長は、念を押すように手に力を入れ、私の体を壁に押し付ける。
「無駄だよ、
しかし、彼も彼で、この轟音が気が気ではないようだった。一瞬、視線を私から逸らす。
そしてまたあの爆発音が聞こえる。それも数mの距離から。
鬱陶しいノイズをかき分けるように聞き覚えのあるハウリングが聞こえた。ここにいてはまずいと感じたのは、耳で感じた情報からではなく、私の本能的な勘だった。
そして爆発音の直後、何かが高速で回転するような、空を切り裂く音が聞こえた。そして重機のような何か硬い物が何かを破壊しながら近付いてくるような音がした。
同じく危険を察知した副社長は掴んだ私から手を離した。床に落とされた私は咳をしながら酸素を取り込む。
「──はぁ、はぁ、はぁ」
すると、轟音が止んだ。
彼と私は音の聞こえた方へ視線をやった。一瞬の静寂の中で副社長が唾を飲み込んだ音が洗面所に響く。それはまさに嵐の前の静けさだった。
その瞬間、私のすぐ隣から爆発音が聞こえた。いや、正しくは凄まじい威力で床を踏み込んだ音だった。
爆発音の直後、高速で回転する何かが私の目の前を通り過ぎた。
私は腕で顔を庇う。高速回転する何かが撒き散らした扉や壁の破片が、凄まじい勢いで飛んでくる。
轟音が、洗面所であった場所に響き渡る。
鳴り止んだ轟音の主は、洗面所であった場所の奥に大きな穴を開け、そこで止まった。
私が顔をあげるとそこには、無数の破片が散らばっており、床や天井、壁を大きく抉ったような跡が残されていた。
私が背にしていた洗面台の戸棚や鏡もかろうじて形を残している程度で、浴室に関しては、もはやどこに浴槽があったのかも分からない。ガラスの扉は粉々に砕けていた。
その光景に私は息を飲んだ。
幸いだったのは、私がいる場所は奇跡的に被害が少なく、私のスーツに破片が飛び散り埃が被った程度だったことだ。
煙や埃が飛び交う中で私が見た物は、決して高級マンションの洗面所とは呼べないものに変化しており、解体途中の作業現場とでも呼んだ方が無難であった。しかもその作業員は相当乱暴な作業をしている。巨大な3歳児か、もしくは躾のなってない馬鹿でかいダックスフンドが暴れたようにも思えた。
舞い上がった煙の中から副社長を探すもその姿を確認することは出来なかった。
煙を発している大きな穴からは、瓦礫を崩しているような音が聞こえる。おそらく高速回転した何かが動いているのだろう。
その音が徐々に近付いてくる。
「……はぁ? 行き止まりとか、ま?」
煙が止み、やけに息の多い独特な声質の人物の人影が徐々にはっきり見えてきた。
鏡を見るようにスマホを遠ざけながら前髪を直す彼女は、以前着ていたグレーのスーツではなく、どこかの学校の制服だった。
「てか、うちの前髪ぼさぼさなんやけど!? ……え!? やば~」
彼女は鏡にしたスマホに映った自身の髪を気にしており、何度もくしゃくしゃにしては手櫛で直していた。
彼女が履いている黒タイツのシルエットを見ていると、その細すぎず太すぎもしない両脚のどこに、足人と称されるほどの力が隠されているのだろうか。不思議でならない。
そして黒タイツの上に履いたグレーのチェック柄のスカートは髪を何度も直す度に揺れており、その姿はいかにも女子高校生らしかった。
しかし、彼女の足元に突き刺さった小さな二つの斧だけは、女子高校生らしさとは対極の位置に存在していた。
「あ! 3番じゃん」
彼女はこちらに気付いたようで、その場で両手を小さく振る。
光の反射で青とも黒とも言えるような色のブレザーから伸びた小さな手の平が小刻みに揺れる。それと同時に青と白のストライプのネクタイと、首からぶら下げたストラップに繋がるスマホが小刻みに揺れた。
こんな状況でよくもあんなに無邪気で居られるのは彼女がまだ幼い高校生だからだろうか。しかし逆に言えば、いつでも自分のペースを保てるということは、れっきとした殺し屋としての才能であるとも言える。無邪気に振った手から、なぜ彼女が「G.O.」で「7」という番号で呼ばれるのか分かったような気がした。
なぜ彼女がここにいるのか。
依頼を受けたか、「G.O.」からの指示で誰かを始末しに来たと考えるのが無難だろう。私か、もしくは副社長のどちらかを。
どちらにせよ、私が狙いであってもいい。とりあえず今は副社長によって閉まりかけた緞帳をこじ開けてくれた彼女に、私は感謝をした。
まだ整っていない呼吸のせいで声が出なかった。私が7番を見つめると目が合った彼女はキョトンとした表情で首を傾げていた。
「ん? どしたん?」
彼女のやけに息の多い声は、なんの交わりもなく私の耳に届いた。
随分クリアに聞こえた彼女の声のおかげで、先ほどまで鳴り止まなかったノイズが消えていることに気付く。
私はスピーカーのあった場所に目をやった。洗面所の扉や壁が粉々に破壊されていたおかげで、副社長と初めて対峙した部屋がすぐに目に入った。
するとそこには無残に切り刻まれ半壊しているスピーカーが2つ、倒れていた。
おそらく7番が斧を振り回しながら高速回転をして破壊したのだろう。もう一度7番に視線を送ると、先ほどと全く表情を変えない彼女がいた。
私があれだけ苦しめられていた音を、こんなにあっさりと消してしまうなんて、彼女は私の救世主なのか、もしくは運がいいだけの馬鹿でかいダックスフンドかのどちらかだ。
私は咳払いした。そしてその場から起き上がる。
「どうしてここに?」
やっとまともに出せた声は少し嗄れていた。
「え? あ……いや、部長に頼まれたから仕方なく……。つーかここの廊下長すぎ。ぴえん超えてぱおん超えてざぶんかよ」
彼女は足元に突き刺していた2つの斧を手に取った。どうやら狙いは私ではないようだ。
いくら小さいとはいえ、やはり女子高校生が持つには斧は重いのだろう。斧を手にする彼女は刃の部分を地面に引きずっていた。
「──あれ? 対象者は?」
彼女の言葉に私は辺りを見回した。
やはり副社長の姿は見当たらない。もし副社長が彼女の高速回転に巻き込まれているならば、この辺り周辺は血飛沫が舞っているだろう。しかしそのような跡もない。
私は奥の浴室であった場所に目を凝らす。
すると落ち着いてきた煙の中から人影が見えた。
私は、副社長に持ち上げられた時に床に落とした拳銃を拾おうとする。しかし手探りで探しても、床のどこにも置いていなかった。確かここらへんに落としたはずなのに…。
床に視線をやった私だが、嫌な予感がし、すぐに奥の人影に視線を移す。
するとそこには2丁の拳銃を構えた副社長の姿があった。煙が止むのを待っていたのだろう。私が彼の姿を捉えたと同時に彼も私の姿を捉えていた。
拳銃の一つは、副社長が元々持っていた「グロック17」。そしてもう一つの拳銃は、私が落とした「コルト・ガバメント」だった。
そして2丁の拳銃が火を吹く。
先ほどのノイズが消えた分、クリアに聞こえていた外部の音はいつもより大きな音に聞こえた。そして突如発せられた発砲音は私の耳を貫く。
急な発砲音に硬直した私の体は彼の射程から逃れることは出来なかった。
しかし、いつの間にか私の前に7番が立っていた。
いつここまで来たのだろうと思う間もなく、彼女はその場で中腰になり床を踏み込んだ。
「はぁあああ!!」
彼女の雄叫びと共に、爆発のような音が私の目の前で轟く。床が割れ埃が舞う。彼女の足元は周囲半径2m程度の円を描き床を割り、凹ませた。そして彼女は上体を捻った。
曲げた脚を勢いよく伸ばす。バネと呼ぶには荒々し過ぎるその勢いで彼女は垂直に跳び高速で回転した。床に引きずっていた斧は、回転した遠心力を利用して浮き上がり、彼女の周りを踊るように回転する。
「ぐるぐるぐるー」
呑気な7番の声が耳に入ってくる。それはまるで扇風機の羽根に向かって声を出し遊ぶ子供のような声であった。その呑気な声とは裏腹に発せられる、切り裂くような風圧を彼女の後ろで受けた私は、その場で立っているだけで精一杯だった。
副社長の放った銃弾が高速で回転する7番に撃ち込まれる。
しかし鋭い金属音が何度か聞こえ、彼が放った弾丸は回転する7番の斧によって天井や床、壁などに跳ね返された。
まさに一瞬の出来事だった。
着地した7番は凹んだ床の爆心地に膝立ちでいた。手に持つ2つの斧は彼女の前と後ろで回転対称性を持つような形で床に突き刺さる。
7番が私を守ってくれたことは間違いない。やはり狙いは私ではなく副社長のようだった。
「野蛮すぎ、くそわろた」
立ち上がった7番は床に突き刺さった斧を抜きながら私の方へ近寄ってきた。すると床に斧を置いた後で、首にぶら下げたスマホを起動させた。
起動させたスマホを横に持ちながら、私の肩に手を回す。ちょうど私の肩ほどの位置に彼女の頭があった。近付いてきた7番の髪から甘い花のような匂いがした。
「いくよー。はい、キュンです」と言いながら7番は親指と人差し指を交差させ小さなハートを作りポーズをとる。そしてスマホのカメラのシャッターを切った。
あまりにも現実と不釣り合いな彼女の一連の動作に私は呆然とするだけだった。
「……何それ?」と私は聞く。すると先ほど撮った写真を確認しながら視線をスマホから逸らさず7番は言う。
「えー? 記念? ってか、証拠? あ、これインスタにあげていい?」
彼女のペースは独特で、まるで息の多い彼女の声と同じような印象を受けた。
彼女のスマホのデータフォルダには、指でハートを作る彼女の隣で、埃だらけで傷だらけの私が唖然とした表情で彼女の横顔を見ていることだろう。
スマホを操作し終えた7番は顔をあげた。そして目の前で発砲してきた人物を目に入れたのが分かった。
「……え? まじ……。対象者って副社長かよ……。草なんだが」
顔を見なくても7番が気怠そうな様子が彼女の息の多さで分かる。
「知らなかったの?」
「たりまえっしょ!? 部長にはここにいる男を始末しろってしか聞いてねぇんすけど」
振り返った7番は、潤いで満ち溢れたその頬を垂れ下げた。「まじざぶん」と呟く彼女は目の前にいる副社長の顔を見据える。
「──でも、やるんでしょ?」
声のトーンを一つ下げて言った私の問いに、7番は答える。
「あたりまえざわ社長」
語感だけがいいその言葉を放つ7番の表情は、まるでオンライン対戦ゲームの対戦相手をマッチングしている最中のように嬉々としていた。
「あいつ、援交してそうな顔してて前から嫌いなんよなぁ」
まるで前々からぶん殴りたかったかのような彼女の偏見だけで生まれた言葉に私も同意する。
「ホストみたいなあの顔、私も嫌い」
「あ、いや、ホストの方が全然チャラくない。自信過剰な営業マンって感じ。まじきも」と7番は苦虫を噛み潰したような表情をした。あまりにも変化の絶え間ない幼い表情の女の子を見ていると、つい礼奈を思い出してしまう。年下の女の子の愛らしくて素直なところを微笑ましく感じた。
「……それな」
私は思わず鼻で笑ってしまった。
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