35「蛍」

 銃口からは煙が立っていた。

 火薬の匂いが鼻を撫でる。副社長が引き金を引いた時にはすでに、彼の持つ拳銃は私の顔の横にあった。

「──なっ」

 副社長の表情が一瞬強張った。

 彼の拳銃を右手で払う。銃弾は床を撃ちぬき、虚しい発砲音だけをその場に残した。

 しかし、副社長は自分の懐に入ろうとした私の背中に向かって上から肘鉄を食らわす。

「クソが!!」

 上から落とされた肘鉄の衝撃により、まっすぐに進む突進の勢いを保ったままの私の体は、床へ這いつくばりそうになる。しかし瞬時に床に手をつき倒立回転をし、そのまま副社長を飛び越え宙に飛ぶ。

 体を横に回転させながら宙を舞う私は、副社長を向く形で床に着地した。

 膝立ちで着地した私はそのまま副社長の背中に目がけて飛び込む。右手に構えられたアイスピックの針は天井の蛍光灯の光を浴び、モノトーンの中で白い光を露わにさせる。

 飛び込んだ私は、副社長の背中を捉えたと思った。しかし振り返りながら放つ彼の裏拳をまともに喰らった私は、左手にある鏡へと吹き飛ばされる。

 鏡に打ちつけられた私の体は磁力を失ったマグネットのように、潔く洗面台へと落とされ、そのまま床にも落とされた。

 洗面台に寄りかかる形で座り込む私を掴もうと近付いてきた副社長は手を伸ばした。

「──少しは大人しくしてろよ」


 決して筋肉質とは言えないその腕のどこにそんな力が隠されているのかと不思議に思う。

 彼の左腕は何の迷いもなく私の首元を狙う。その左腕はまるで彼自身の姿を体現しているかのようだった。

 伸ばしてくる彼の左腕を両手で掴み、懐へと引き寄せる。

「嫌だね」そう吐き捨てた私は副社長の脇腹に膝蹴りを食らわす。

 バランスを崩した副社長が倒れる。

 副社長が倒れるのと同時に体を起こした私は、片膝を立て、腰に手を回しズボンにしまっていた拳銃を取り出す。そして床に倒れた彼の胸に向けて銃口を向ける。

 呼吸を整えているのは私だけではなく副社長も同じだった。互いの荒い呼吸がいつの間にか同じリズムで繰り返されていることに気付く。

 しかし気付いたことはそれだけではなかった。

 彼は左手に持った拳銃を寝転がりながら私の腹部に突きつけていることに気付く。視界には入らない場所だとは言え、銃を構える音なら普段なら逃さない。さらに鬱陶しいノイズがあったとしても彼が憤った時のノイズが聞こえるくらいならば、銃を構える程度の音は把握できるはずだった。

「二番煎じにしてはちゃんと使い方を知っているのね」

 長い黒髪が自分の頬にかかり、息をする度に黒いカーテンが揺れる。

「……人間の最大の情報源は何か知っているか? 耳でも鼻でもない。目だ。目が半分以上の情報を人間にくれる。そして俺の目は俺に何でも教えてくれる。お前がどんなことをしようとしているのか、何を感じているのか、ほんの少し相手をよく観察すれば筋肉の動きで分かるんだよ」

 彼の声は言葉を発するごとに落ち着きを取り戻していった。

 さすが人類の叡智である「言葉」の力は素晴らしい。言葉の力は人間としての在るべき姿に整えてくれる器のようだと感じる。

「そんなの知ってる。1番から聞いた」

「……あいつは特別だ。俺と同じ目人めじんであっても、あいつは目人とは呼べない」

「……何だ。ちゃんと自覚しているじゃん。二番煎じ」

 副社長は視線を逸らし舌打ちをした。

「俺が二番煎じなんじゃない。あいつが異常なんだ」

 その呟くような言葉を話す彼の目は、先ほどの怒りに身を任せた暴漢と同じ人物の目だとは思えなかった。

 彼も沢庵のように、黄色く染まる以前の彼がいたのだろうか。


 彼が目人であることはプロフィールを見た時に知っていた。そして昔の記憶を思い出し、同じく目人である1番と訓練した時のことを思い出した。

 1番は私が動くタイミングで攻撃を仕掛けてくることが多かった。それは私の筋肉の動きをよく見ているからだ、と彼女はよく言っていた。

 視力が良く、視野が広い目人は、相手の筋肉の動きで行動が予想出来るらしい。さらに表情筋を読み取ることで何を考えているのかをも予想出来るとのことだった。

 そして私がハウリングで殺気を感じれるように、目人もそれを感じる際には「何か」が見えると1番が言っていた。ちなみに嘘か本当か分からないが、彼女は相手の顔に「モナ・リザ」や「真珠の耳飾りの少女」といった「絵画」が描き出されると言っていた。

 目人の力は、神田のように過去を読み取れる鼻人びじんや、私のように現状を把握できる耳人じじんと違い、未来を読み解くことが出来る力だ。そして、おそらくその力のおかげで不意な攻撃を仕掛けてきたり、私の筋肉に力が入っていない部分や動こうとしたタイミングで攻撃をしてくる副社長の拳が何倍もの威力を増していたのだろう。

 そして、そのことを思い出した私は、同じように不意な攻撃を受けた瞬間が前にもあったように思い出す。

「あの傭兵も目人?」

「あ? ──あぁ、あいつか。お前に殺されたあの女」

 副社長は懐かしさを表情に出し微笑んだ。その微笑みの意味が理解できなかった私は眉をひそめる。

「あいつこそ出来損ないだ。俺と同じ目にしてやろうと思ったが、中々上手くいかなくてな。もう要らなくなったからお前に殺された方が何かと都合が良かったんだよ」

 ……なるほど。つまり、副社長は私に傭兵の処理をさせたということらしい。私が殺すことを見通して傭兵に依頼したのだろう。

 あの時の右肩の脱臼の治療費を副社長に請求すべきだなと私は思いついた。

 

 互いの呼吸のリズムが徐々に遅くなってくる。忘れていた右肩と左脇腹の出血が私のYシャツを濡らしていくのを感じた。

「随分落ち着いてるのね。もう死ぬのに」

 彼はその質問に答えなかった。

「あのスピーカーは何? 鬱陶しくてたまらないだけど」

 その言葉を聞いた彼はニヤリと笑った。

「あ? あれか。あれはな、人間だよ」

 私がその言葉の意味を理解できなかったことを彼は目で見て理解したようだった。

「人間──。人間達だ。外の世界の、黒い色を出してる人間。そういう奴らが自然と集まる場所にマイクを置いてみたんだ。何箇所もな。それをあのスピーカーから流してる。……お前にはああいう奴らの音が効くと思って準備してやったんだ。……面白いだろう?」

 私は顔をしかめる。何が面白いのか分からない。

「何が面白いのかって? 外の世界に逃げたって有名なお前を、外の世界の人間達が苦しめてるってことだよ。俺ら殺し屋は黒いまんまなんだよ。ここにいても外に逃げても、黒い奴らがお前を苦しめていくんだ。それを教えてやりたくてな」

 彼は鼻で笑った。

 彼の目線が私に向けられた瞬間、首の後ろが痒くなる。私は首に手をやり掻いた。耳の後ろらへんで爪が皮膚を擦る音が響く。突然現れた痒みはウィッグのせいだと思いたかった。

 モノトーンの洗面所で、真っ黒なスーツを着た私は灰色のストライプのスーツを着る彼と同じ黒色の床の上にいた。


「よく喋るのね」

 何か言葉を発しないと彼のペースに飲まれそうで、私は頭に浮かんだ言葉を素直に口にした。

 しかし副社長はそれに対して何も言わなかった。おそらく私の動揺を感じ取ったのだろう。彼は口元を緩ませただけだった。

「『秘密の部屋』の終盤のトム・リドルみたい」

 私の呟きは彼の耳には届いていなかったようで、口元は緩んだままの彼は、なんでも見通せるその瞳で天井を眺めていた。

「そんなにこっちの世界が嫌いか?」

 彼の壊れかけたオルゴールが一針ずつ振動弁をゆっくり揺らすような声は、モノトーンの部屋によく響いた。

 私は彼の問いに耳を傾けなかった。しかし耳たぶ辺りで掠めたその言葉のせいで、また首の後ろが痒くなってきたのを感じる。

「そういえば、お前の耳がどんなものか分かったのは、あいつが犠牲になってくれたおかげなんだよな。あいつのおかげで黒い人間の音を集めるアイデアが浮かんだ。実際にあのスピーカーはお前を妨害するのに役に立ったしな」

 どこにそんなべらべらと喋る余裕があるのだろうか。私が引き金を引けばその命は尽きるのにそれを全く理解していないような口調で彼は話し続けている。

 しかし銃口を向けられているのは彼だけではなく私も同じだ。私だけが優位な立場にいるのではないことを、私の腹部に押し付けられた副社長の拳銃の感触で思い出す。


 私は動けなかった。引き金を引くことも彼の顔面を殴って気絶させることも出来ない。私が今出来るのは、息を吸うことと吐くことの二つだけだった。

 しかしそれは副社長も同じはずなのに、私と同じ緊張感を彼から感じ取れないのはなぜだろうか。

 諦めているようには見えない彼の眼差しは相変わらず天井を眺めていた。

 彼の目には何が見えているのだろうか。

 寝転がった彼の瞳を見ていると平衡感覚を失いそうになる。

 私は自分の息の音に集中した。鬱陶しいノイズは私の耳を覆うように鳴り続けている。

 この現状を変えるには何かきっかけが必要だった。それはまるで無職の引きこもりが外に出るきっかけを欲しているような感覚によく似たものだった。

 ありえない何かが起こることを他力本願に期待している私は、親の脛をかじる引きこもりのようにだらしないと思われるのだろうか。

 汗が私の黒髪を伝い頬に触れた。

 唾を飲む音さえも鬱陶しいノイズに掻き消されそうになっている。

 すると、扉が急に閉まり軽い音を立てる。その音がノイズの隙間から聞こえた私はふとその扉へ視線を向けてしまった。

 おそらくその扉は窓から入ってきた風によって閉まったのだろう。しかし、それを私が認識した時にはすでに遅く、視線を逸らした瞬間に副社長はジャケットの内ポケットに手を入れ小さなリモコンを取り出し、何か操作した。

 リモコンを操作する彼に向け発砲しようとするが、突如私の耳の周りで鬱陶しいノイズは急激に音量を上げた。


 ノイズは勢いよく耳を貫いた。

 しかし、音量を上げたのはノイズだけで、スピーカーから聞こえる雑踏の音量は変化していなかった。

 思わず体が硬直してしまうのに耐え、私は副社長の胸に押し当てた拳銃の引き金を引いた。だが、副社長が私の銃を持つ手を払いのけるスピードのほうが速かった。

 彼の体の外へ弾かれた銃口は洗面台の戸棚へ向き、発射された銃弾は戸棚の扉を撃ち抜いた。

 撃ち抜かれた扉は大きな穴を作る。銃弾が彼を捉え損ねた悔しさからだろうか、思わずそれに目がいってしまった。

 するとその隙をついて、横に向いた私の顔を副社長の拳が貫く。

 耳の中で騒ぐノイズのせいで危険を感じ取れなかった。

 私の意識が飛びかける。しかし自分の体が床に落ちてしまう危機感が本能的に私の意識を繋ぎ止めた。床にぶつかるとしっかり認識できるほどの意識を私は保っていた。だが、逆を言えば意識を保つことだけで精一杯だったとも言える。

 体勢を崩した私の視界には洗面所の黒い床だけが映った。


 顔面をかばうように体を傾けた私は、左肩から床に倒れた。長い黒髪が私の後を追うように緩やかな曲線を描く。

 寝転ぶ私の視界は真っ黒だった。

 意識を失っているのか、私の目の前に洗面台の黒い戸棚があるだけなのかは分からなかったが、先ほど撃ち抜かれた銃弾によって生み出された亀裂がちらっと見えたことで、おそらく私の意識はまだ飛んでいないのだろうと思えた。

 頭の中のノイズは消えない。増加したノイズの上で微かな耳鳴りが聞こえた。

 その耳鳴りは殺意のハウリングではなく、副社長に殴られたせいで生まれたものに違いない。段々と弱まるその耳鳴りは先ほど増加したノイズよりもやけに鬱陶しく感じた。


 まばたきをしたのは髪が目に入ったからではない。きっとあと一歩のところで始末できたはずの状況が一変し、逆に私の命があと一歩のところで消えてしまいそうになっているこの現実を夢だと思いたかったからだった。

 しかし、何度かまばたきすればするほどに、ぼやけていた視界は徐々にクリアになっていき、紛れもない現実だと主張してくるようだった。

 床に横になっている私の黒髪は、洗面台下の床の黒色と混ざり合ってしまい、どこが髪で、どこが床なのか判断がつかない。それはまるで私自身が真っ黒な床に吸収され始めているのではないかと思えるほどだった。

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