34「氷」

 副社長はさらに、床に寝転がる私に追い打ちをかける。

 冷静さを欠いた彼はもはや殺し屋とは呼べず、ただの暴漢と呼ぶにふさわしかった。しかし、ただの暴漢ならば優位に立つことは他愛ないが、鬱陶しいノイズと彼の腕力が異常に強力で一撃一撃が鉛のように重かったせいで、思うような立ち振る舞いが出来ない。

 屈みながら気の済むまで殴り続ける副社長に対し、私は何もなす術がなかった。

 ただ黙って殴られ続けるしかない。しかし拳を1発づつ食らうごとに私の体は悲鳴をあげる。そしてその悲鳴すらも耳の周りで鬱陶しく鳴っているノイズに邪魔されていた。

 副社長が振り被る腕の音、彼の荒い息遣い、私の体に勢いよくぶつかる拳の音、私から漏れる息の音、そしてスピーカーから流れる雑踏の音から聞こえるノイズ。

 静寂とは言い難いこの部屋で私は完全に窮地に立っていた。


「俺の! 邪魔を! するなよ! クソガキ! が!」

 その瞬間、ノイズをかき分け、彼の言葉から微かなハウリングを感じ取る。

 薄れゆく意識の中でそのハウリングを聞いた私は、まだ自分の耳は正常で、なおかつまだそのハウリングを感じ取れるほど意識が残っていることに気付く。そして何より副社長の音が聞こえたことが私の精神を安定させた。

 大丈夫。ハウリングが聞こえる。奴も人間だ。ちゃんと殺意を持っている。そしてその殺意がちゃんと聞こえる。まだ大丈夫。まだ私は死んでいない。

 頭の中でその言葉達を文字にして思い浮かべる。言霊は頭に思い浮かべるだけで作用するのだろうか。口にしないといけないならば、この湧き上がる力はなんなのだろう。

 不思議と痛みに耐えられた。それは痛みが薄れたのではなく、ちゃんと痛みを痛みとして認識出来たからだろう。

 私は殴られている。頭、腹、今度は右脇腹。

 一発一発を冷静に感じ取る。それは後ろ向きな感情ではなく、反撃のチャンスを狙っているからだ。

 すると、身を丸めた私に対して副社長の攻撃が単調になってきたことに気付く。

 頭、右脇腹、右脇腹、腹。頭、左脇腹、右脇腹、腹。頭、右脇腹、右脇腹、腹。

 次は頭だ。私は床に片手を着き上半身を支え、頭部に目がけて飛んでくる彼の拳を捉え、がら空きになった彼の右脇腹に肘鉄を食らわす。

 彼がうめき声をあげ一瞬たじろぐ。その隙を逃さない。

 私は飛び起き、前方へ飛び込み倒立回転をする。両手の力はまだ地面を押しのける力を残しており、両手のバネの力を利用し宙に飛ぶ。

 空中で体をひねり、横回転させながら副社長へ飛びかかる。

 副社長は体勢を立て直し、銃を取り出し飛びかかってくる私に向かって三度ほど発砲した。私は避ける気は全くなかった。

 宙で回転する私にその銃弾が撃ち込まれる。腹部や背中にいくつかの痛みを感じる。しかし宙で回転する私を止められるのは時間くらいなものだった。

 そのまま私は副社長に飛び込んだ。私の体が副社長へ落ちていく力を全て左脚に乗せる。

 そして落ちていく瞬間、左脚は直線を描き副社長の頭部へ放たれた。

 

 感触はあった。おそらく私の蹴りは副社長の頭部に直撃したであろう。

 落下の勢いは止まず、私が副社長に蹴りを食らわせた直後、私の体は前方へと投げ出された。何度か不恰好に回転し、頭をガラスのデスクの脚にぶつけた。

 先ほど彼が置いた溶けかけの氷が、私がぶつかった衝撃でカーペットに落ちてきた。

 ポトッと情けない音を発したそれはまるで飴細工のように綺麗だった。カーペットを濡らしている氷は、窓ガラスに映る深海のような光をぼやかしており、自らを輝かせるためにそれらを利用しているようであった。

 

 副社長はうつ伏せに寝ていた。ノイズの森から微かな呼吸音が顔を覗かせていた。死んではいない。

 私はその姿を目に入れながらデスクの脚にもたれかかりながら座っていた。

 やっとの思いで一矢報いることが出来た私は、自分の呼吸が落ち着いていることに気付く。あれだけ動いたのにも関わらず不思議と落ち着いているのはおそらく副社長の音が聞こえたからだ。

 いくら副社長と言っても人間だ。彼からも必ず音が聞こえており、その隙間から彼の絶命する姿が垣間見えるに違いない。そう思えた瞬間から彼を始末する方法を考える余裕が出来た。

 幸いにも彼はキレやすいタイプのようだ。

 私が一撃食らわした程度で頭に血が上り冷静さを失う。理性的な殺し屋としての側面と、感情的な人間としての側面を併せ持つ彼は、他の殺し屋よりもタチが悪く、手がつけられないだろう。現に副社長にまでなっているのだから間違いなく有能ではあるのかもしれない。だが、感情的になった瞬間が狙いだ。

 冷静さを失った殺し屋は、冷静さを失った瞬間、視界が一気に狭まる。人間は余計なことを視野に入れないように脳が働くように出来ている。その時を狙う。

 彼を沸騰させることは大したことじゃない。問題はその他だった。

 異常に強い腕力とこのノイズが先ほどから私を不利な状況に陥らせる。そこから突破しなくていけない。

 まず彼の腕力はどうにかなるとして、まずはこのノイズをどうにかしなくてはいけない。私は左右にあるスピーカーを交互に見遣った。スピーカーは大きな黒の箱のようで、その箱に繋がる線が見当たらない。おそらくは無線で接続しているだろう。しかし大元の電源を落とせば接続は切れるはずだ。

 しかし電源のコンセントもスピーカーからは出ていなかった。


 私は周囲を見渡す。

 この部屋は入り口から見て横長の長方形の形をしている。私のいるガラスのデスクから入り口の扉を見る形で、左には一枚、右には二枚の扉が見える。

 私は右の入り口側にある方の扉へ向かおうとした。

 しかし私がそれを止めたのは目の前で起き上がった副社長の銃口がこちらを向いていたからだ。

 いつの間に起き上がった?

 それを頭に浮かべた時にはすでに発砲音がノイズの裏で響いており、私の左腹部に穴を開けていた。

 彼の乱れた髪が目に入る。銃撃は私を体ごとガラスのデスクに押し付ける。そのまま力を失った私は地面にゆっくりと座る形で落ちた。

 後頭部がガラスのデスクの天板に当たり、コツンと情けない音を立てる。

 ジャケットを開いてみると白のYシャツの左腹部付近には20cm大の真っ赤な染みが出来ていた。

 それを確認した瞬間から私の呼吸が乱れ始めたような気がした。息を吸う度に左腹部が悲鳴を上げている。その痛みに対して顔をしかめていたせいで副社長がこちらに近付いていることに気付けなかった。

「……まるで4番と2番を足して2で割ったみてぇな戦い方だな。けど詰めの甘さは一桁の中でも一番だ。外の世界ってのは随分生温いじゃないか」

 彼は言葉を発することで、自らの怒りをシフトダウンさせ、徐々に口調を滑らかにしていき、微かに聞こえる彼のノイズを弱めていった。

 その言葉を聞いた私は眉をひそめる。

「……そりゃ、2と4を足して2で割ったら3でしょ? 算数も出来ないの? 二番煎じ野郎。神田さんが言ってたよ」

 副社長の口角がピクリと動くのが分かった。奴を怒らせるのは簡単だ。私は続けた。

「それに、あの趣味の悪い絵はあなたの目にはどう映ってるの?」

 私は鼻で笑った。副社長は口を開く。

「……その減らない口数は4番ってとこか?」

 副社長は表情を変えずに言った。

 伸ばした釣り糸は小刻みに揺れる程度でまだ餌は食われていない。もう一息だ。

「シンさんは、もっとビー玉みたいにうるさいから。そんなことも知らないの? そんなんだから二番煎じなんじゃない? 1番の二番煎じ。社長の二番煎じ」

 社長という単語を聞いた彼は小さく舌打ちをした。乱れた髪の隙間から見える彼の目は血走っているように見えた。

「あのクソ野郎の二番煎じ? 俺が? あんな野郎の? 二番煎じだと? ふざけるなよ」

「二番煎じでしょ。可哀想に。パートナーの力だけで上り詰めるところなんかそっくりじゃない?」

 私の言葉は彼のこめかみの血管を浮かび上がらせた。そして副社長はブツブツと呟く。

「……一緒にするな、あんな野郎と。あんな、野郎と、あんな野郎と──、一緒に! するなぁ!!」

 よし、引っかかった。徐々にシフトアップしていった彼のノイズはちゃんと耳の片隅で聞こえてきた。

 彼の怒り狂った表情を見ているとなんとなく滑稽に見えてしまう。この彼の唯一の欠点をプロフィールに書いておくべきだと、後で伯父さんに言っておこう。

 冷静さを欠いた副社長は右手に持っている銃を握りしめたままこちらに殴りかかってきた。

 私は立ち上がり、後ろのガラスのデスクを支えに後方へ回転した。

 殴りかかってきた副社長の拳はガラスの天板を貫き、デスクは粉々になった。

 割れたガラスの破片が副社長の右腕に刺さり、そこから流血していた。しかし彼はそれに気付いていないのか、はたまた気にしていないのか、流血に構わずソファの前に膝立ちでいる私を掴もうと右腕を伸ばす。彼の右腕は凄まじいスピードで私の喉元を正確に狙ってきた。

 私はその腕を蹴り上げる。軌道が逸れた彼の右腕は、彼自身の体を引っ張るようにバランスを崩させた。

 私はふらついた彼の肩を狙い、横へ蹴り飛ばす。バランスを崩していたことも相まって、彼はすんなり左側へ崩れ落ちた。彼はスピーカーにぶつかりながら床に倒れ込む。スピーカーもその衝撃で床に倒れる。しかし横に倒れた状態でいてもなお、スピーカーは雑踏のような音を流し私に向けノイズを放ち続けている。

 こちらを向くように倒れたスピーカーの近くには、先ほど私が副社長に放ったアイスピックが脱力したように落ちていた。

 それを拾いながら私は彼の体の上を飛び越える。踏み込んだ時にガラスの破片を踏んでしまいバリバリと音を立てた。私はそのまま入り口側の扉へと向かった。


 床に倒れた副社長を尻目に扉を開く。

 そこには一面真っ黒な壁に囲まれた洗面台があった。洗面台自体も黒の陶器で出来ているのが分かる。そして扉の入り口から右手には真っ白な壁に囲まれた浴室があり、黒色の床の洗面台と白色の床の浴室は部屋の中央できっぱり境界線を引いていた。

 モノトーンの洗面所に入った私は天井を見上げる。四隅を確認するも目当てのものは見当たらない。壁を確認するも真っ黒な壁は天井の蛍光灯を乱反射させており、隠された扉のような痕跡を見つけ出すには少々困難だった。

 私は洗面台に上り、顔を壁に沿うように当て、至近距離から観察する。

 すると一箇所、切り込みのような四角い線が入っていることに気付いた。手に持っていたアイスピックをその切り込み線に入れる。てこの原理を利用しその四角い切り込み線をこじ空ける。

 予想は的中した。

 その隠し扉の中にはブレーカーが入っていた。

 左に位置する大きなスイッチを切ればこの部屋のブレーカーが落ちる。そうすればこの鬱陶しいノイズを消し去ることが出来る。

 私はそのスイッチに触れる。大きく唾を飲み込んだ。その音がノイズの上でしっかり私の耳に入ってくる。そしてスイッチに手をかける。

 しかしその瞬間、洗面所の扉が一気に開いた。

 音のした方へ視線を向けると銃を構えた副社長がそこに立っていた。

「死ねぇぇ!!」

 彼の乱れきった髪は、擦り傷だらけの顔面と着崩れた灰色のスーツによく似合っていた。そして何より、その姿の方がまさしく彼の感情をむき出しにした姿をさらけ出しているような印象を受け、好感が持てるほどだった。

 しかしそんなことを考えてる場合ではない。

 彼は躊躇なく引き金を引いた。モノトーンを黄色い閃光が破る。

 私は洗面台の上で身を伏せる。

「……あぶな」

 弾丸はちょうど私の顔があった場所に向かって放たれた。頭上から鏡が破る音がし、思わず耳を塞ぎたくなる。洗面台の鏡を撃ち抜いた銃弾のせいで、鏡に映る私の頭にヒビが入った。

「動くなぁ!!」

 さらに副社長は射撃を続ける。私は電源を落とすまであと一歩のところだったが背に腹は変えられず、洗面台から飛び降りる。

「──ちっ、鬱陶しい」

 思わず舌打ちが漏れる。膝立ちになった私はアイスピックを逆手で握り締め、副社長に向かって突進する。

 彼の銃口は私の顔面の延長線上に構えられていた。しかし私の体は止まらない。いや、止める必要はなかった。

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