33「氷水」
光の差す方へ向かう。私がそれに近付くにつれ、段々とその光は輪郭を帯び始めていく。
やけに廊下が長く感じるのは気のせいだろうか。私を取り巻くノイズの壁は徐々に音量を上げており、まさに声を大にして「近付くな」と言わんばかりだった。
光の輪郭に近付くと、そこにあったのは一枚の扉だった。その扉の15cm四方の窓が光の輪郭の正体だった。
目がくらんで窓の奥の景色が見えない。暗闇の中で、その光に照らされた私の金髪のエクステが妖艶に輝いていた。
耳を塞ぎたくなるほどのノイズを感じながら、私は左手にアイスピックを持ったまま、その扉のドアノブに手をかける。私の心拍は121回/分へ上昇していた。
扉を開いたと同時に私の長い黒髪を風が揺らした。揺れるたびに肩や背中に触れる髪に違和感を感じたのは、このウィッグを付けるのが久々だからだろうか。
「随分遅いじゃないか」
エントランスで聞いた声と同じ声の男性がそこにはいた。
高級そうなガラスのオフィスデスクと、革で出来た茶色のソファは、彼の権力を体現しているかのようだった。そしてデスクの左右には高さ1mほどの巨大なスピーカーがあり、彼を取り囲む砦のように思えた。
デスクの上にあるアイスバケットに入った3本ほどのワインは、優雅に氷水の湯舟に浸っているように見える。
ガラスのデスクの向こうで私に背を向け、一面窓ガラスに映る夜景を見ている声の主がゆっくりとこちらに振り返る。
間近にした副社長の顔はプロフィールの写真と相違なかったが、彼の眼差しは写真のよりもずっと鋭かった。そして正面にいる私よりもずっと遠くの何かを見据えているような気がした。
彼の着ていたストライプ柄の灰色のスーツのジャケットが揺れていたのは気のせいではなく、窓ガラスがほんの少し空いていたからだった。窓ガラスが映す赤や黄色の光の粒は、まるでその輝きで暗闇にいる者達をおびき寄せる深海魚の疑似餌のようだった。
深海には波があるのだろうか。
その輝きに目を奪われそうになった私はぽつりと考える。
「そんなに夜景が珍しいか?」
私は数m先にいる副社長に視線を向ける。
「君が3番か。思ったよりちゃんとしてるんだな」
私は、副社長の言った「ちゃんとしてる」の言葉の意味がよく分からなかった。「年齢の割にちゃんとしてる」なのか、「女の割にちゃんとしてる」なのか、「殺し屋の割にちゃんとしてる」なのか。
なんにせよ、彼の言葉なんてどうでも良かった私はその言葉を聞き流す。
私は、未だ気持ちの悪いノイズの壁のせいで目の前にいる副社長の音が聞こえなかった。しかしこの部屋に入ったことで、その気持ちの悪いノイズの壁の正体が判明した。
それはデスクの左右に置かれたスピーカーから流れる音だった。
スピーカーからは微かに雑音が聞こえる。それは雑踏の中で耳をすましているような音だ。そしてその音自体はさほど大きくなかった。それよりも窓から入ってくる音の方が大きい。しかし問題はその音の種類だった。
その音からは無数のノイズを感じる。それはまるで何千個のチューニングが合っていないラジオデッキが置いてあるかのようだった。
私は左右にあるスピーカーを交互に見つめる。
その様子に副社長は気付いたようでソファから立ち上がりデスクの前に歩いてきた。
「うるさいか?」
私が視線を逸らすと彼はデスクのアイスバケットに入った氷を一つ手に取る。
「
副社長は手に取った氷を掲げ、蛍光灯の光に照らした。溶けつつある氷は副社長の指を濡らし、臙脂色のカーペットに黒い斑点を作った。
「俺には真っ黒に見える。お前はどうだ? この音は何に聞こえる?」
まるで舞台のようだ。私は彼の言葉を聞いて、贅沢にこの一人芝居を独り占め出来るなんて出来るなんて滅多にない機会だなと皮肉った。
「真っ黒。……お先真っ黒ってこと? ……ん?お先真っ暗だっけ?」
私の言葉を聞いた副社長は目を丸くさせながらこちらを向く。しかし彼の眼差しは丸くなっておらず未だ尖ったままだった。
「中々面白いことを言うんだな。外の世界に触れた証拠か?」
面白いと言う割には彼の表情は全くと行っていい程変化を見せていない。
私は左手に持ったアイスピックを今一度握り直す。握った柄が汗ばんだ手のひらと擦れ、心地良いとは言えない音を立てる。
副社長は手に持った氷をガラスのデスクの上に置いた。溶け始めている氷は光の反射を減らし、全身に滑らかな景色を映していた。
副社長は濡れた手を払う。水滴がカーペットへと飛び新たな斑点を作った。そしてその手をジャケットの内ポケットに忍ばせる。
私は息を呑んだ。その瞬間、スピーカーの音量が急に上がる。
左右から聞こえる雑踏の音は、無数のノイズを私に向け放たれる。それはまるで意思を持っているかのように私を取り囲んだ。しかし不思議なことに、スピーカーから聞こえる雑踏の音量が上がるのに比例してノイズが強くなると思いきや、ノイズはある程度音量を上げただけで強まることはなかった。
私がスピーカーから流れる音に眉をひそめた瞬間、気付くと副社長は銃口をこちらに向けていた。
いつの間に? そう思った時には彼の銃から弾丸が発射された。
スローモーションで放たれる銃弾を目に入れることしか出来なかった。真っ直ぐ私の方へ向かってくる弾丸は、全くと言っていいほど軌道をずらしておらず、弾丸の大きさが徐々に大きくなってくるばかりで、どれほどの距離まで近付いているか分かり辛い。
私は左へ避けようとした。しかしスローモーションになったのは弾丸だけでなく私の体も同様で、避けたというよりは、ずらしたと言ったほうが正しかった。なびく私の黒い髪だけがその場に取り残される。
私の右肩に銃弾が撃ち込まれた。衝撃は私を後方へと誘う。しかし左に避けようとする体の動きは止まらず、私の体は左に傾きながら半回転する。
床にぶつかるように私の体が吹き飛ばされた。
打ち付けられた体は臙脂色のカーペットの上で何度か転がる。仰向けになり回転を終えた私の体はカーペットと擦れ合ったせいで、スーツの下の素肌にほんのり熱を帯びさせた。
右肩の痛みは、耳の周りで延々と続くノイズよりも鬱陶しくはなかった。
視線の先には暖色の光を降らすダウンライトが何個か見える。目がくらみそうになるほどの光量ではないが、私の瞳にある程度の眩しさを与えた。
あまりの鬱陶しさに耳の周りのノイズを振り払おうと両耳を擦る。しかしノイズの壁は全くと言っていいほど消えない。
これでは副社長の音が聞こえず、彼の動きに対してワンテンポ遅れた反応をしてしまう。まずはこのノイズを取り払うことが先決だった。
左に顔を向けると、先ほどと同じ場所で副社長が銃口をこちらに向けていた。
こちらに近付いてこないことが引っかかるが、深追いはしない判断は殺し屋としては正しい。
対象者に近付くということは、始末できる確率が上がるのはもちろんのことだ。しかしそれは対象者からしても同じことで、殺し屋が対象者に反撃される確率も上昇する。
つまり短期決戦しなくてはいけない状況以外では、じわじわと弱らせて始末することが殺し屋の基本になる。しかし、私においては、フリーランスで業務時間も限られているため、そんな余裕はなく毎回短期決戦になってしまうのが現実だった。
この状況で深追いしてこない副社長は、おそらく顔に似合わず冷静で論理的な性格なのかも知れない。殺し屋としては有能な職員であることは間違いなさそうだ。
私は副社長を視界に入れたまま手に持ったアイスピックを逆手に持ち替える。
そしてそのアイスピックを副社長に向け投擲した。
アイスピックは直線を描き副社長の顔面に向かって放たれる。
副社長がそれを避ける瞬間を狙い私はすぐさま起き上がる。そしてジャケットの内ポケットから取り出した拳銃を構えた。肩に掛けていたフォーマルバッグが床に落ちる。
私が拳銃を構えたのと同じタイミングで、体を逸らし私のアイスピックを避けた副社長は、すぐさま拳銃を構え直した。アイスピックは窓ガラスぶつかり床に転がった。
膝立ちになりながら両手で拳銃を構える私と、体を右に向けながら左手で拳銃を構える副社長が睨み合う。
私達を取り囲うのは、こちらにおいでと誘い続ける深海の光と、流れる血をいつでも掻き消せそうな臙脂色のカーペットだけだった。
ノイズは未だ私の耳の周りで鬱陶しく踊っていた。そのため副社長の音が聞こえない。
彼がいつ発砲してくるか、引き金を引こうとしているのか、そのタイミングが分からない。彼はそれを理解しているようで、銃を構える彼の表情は余裕を孕んでいた。
「自分の能力に頼る人間ほど始末するのに簡単なことはないだろう? 3番なら承知してると思ったが」
口角を上げながら副社長は残念そうに言う。その表情はわざとらしく嫌味の匂いがした。
ゆっくりと呼吸だけに意識を向ける。彼の言葉に耳を貸すこと自体、時間の無駄だ。
吸って、吐く、吸って、吐く。私の呼吸の音に意識を集中させようとするが、ノイズの壁がまたも邪魔をし、集中力を欠いてくる。
「うるさいか? 少し赤くなっているみたいだが」
私の頬が紅潮していないのは自分でも分かる。おそらく苛立つ私の姿が彼にはそう見えているのだろう。
「うるさいのはあなたの声。中途半端な力しか無い癖に」
私の言葉を聞いて副社長の眉がほんの少し動いたのが分かった。
「負け犬の遠吠えっていうのを初めて聞いたよ」
口角を上げる副社長の目は全く動いていない。
「負け犬の遠吠えっていう慣用句を使う人を初めて見たよ」
私は彼の言葉に食い気味で喋り鼻で笑った。それを見た副社長は舌打ちをした。ノイズ越しでも分かるほどに。
副社長は大きく息を吸った。大きく胸が動くのが見えた私は、彼が発砲してくると分かった。
私は構えた銃を上に向け発砲した。
軽い破裂音が部屋に響く。その瞬間、その音に気を取られた副社長に一瞬の余白が生まれた。 ちょうど真上にあったダウンライトが銃撃によって破損し、破片が降り注いだ。
破片が落ちてくる前に、私は副社長の右に回り込む。副社長はその姿を捉え、回り込む私に向かって二度発砲する。しかしその発砲は間に合わず、部屋の壁に撃ち込まれた。
右に回り込んだ私は1mほどのスピーカーに向かって跳んだ。忌々しいノイズを発し続けるスピーカーを踏み台にし大きくジャンプする。
副社長の後ろに回り込んだ私を副社長は横目で捉えていた。
私は深海の光を羽織りながら大きく脚を開き副社長の頭部に目がけ、蹴りを入れる。
全身の力を使い大きくしなった私の右脚は副社長の顔面を捉えた。しかし副社長は両手で顔を防いだ。
骨同士がぶつかり合う音が右脚を通して全身に伝わる。私の体はそのまま副社長の上に重なるように落ちていく。
副社長に馬乗りになった私は、後ろに手を回し、拳銃をズボンの腰部分に入れ、しまいながら一呼吸置いた。
そして私は振りかぶった拳を彼の顔面に叩き込む。それを何度も何度も繰り返した。
しかし両手で顔面を防いだままの彼に、私の拳がちゃんとした衝撃を与えられていなかった。
右腕を動かす度に右肩の出血はYシャツの右肩部分を濡らし続け、その不快感は徐々に範囲を広げていった。
鈍い音が604号室に響き渡る。しかし私の耳には届かず、未だノイズしか聞こえていなかった。
そのノイズを振り払うかのように私は何度も彼の顔面を殴る。
腰にしまった銃で頭部を吹き飛ばしてしまえばすぐに始末できると知っているが、これは感情的な攻撃だった。
しかしその感情的な攻撃が仇となってしまう。
副社長は組み合ったまま私の体を勢いよく右に払い、さらに両腕で私を押し飛ばした。
思った以上の力で吹き飛ばされた私は彼の腕力に驚く。
私の体は飛ばされ右側の壁に打ち付けられ、うつ伏せの状態でいた。カーペットは私の右肩から出た血液をスーツのジャケット越しに染み込ませていたが、すでにどこが汚れているのか見当もつかなくなっていた。そしてカーペットにはその汚れだけしかなく、私が殴ったせいで生まれたものは私の拳の赤みだけで、副社長には全くの負傷を負わすことが出来なかったと分かる。
起き上がった副社長は洋服についた埃を払う。「……全く」と呟いた彼は乱れた髪を手櫛で直した。
壁に打ち付けられた痛みは私の内臓まで響いているように感じる。
私が起き上がろうと床に手をついた瞬間、副社長が近付いてくる。彼の気配を感じたが耳で聞くことが出来ず反応に遅れる。
私の背中は彼の荒い息遣いを感じ取った。すると私のジャケットの首元を副社長が掴む。そしてそのまま私の上半身は彼の腕力によって無理やり起こされた。
横目に見た副社長の顔は怒りに狂っているようだった。
鼻息が荒く、歯ぎしりがうるさい。
先ほどの余裕綽々な副社長の表情は嘘のように消え去っており、そこには怒りに身を任せたただの30代くらいの男性がいた。
彼は私のジャケットを掴んだまま私の腹部に向かって何度も拳を振るった。
「お前! みたいな!
単語を口にするごとに執拗に殴りを入れられる。
腹部から湧き上がった痛みは嘔気となって胸まで這い上がってくるようだった。
彼は言葉にならない怒りを雄叫びのように放ち、私の顔面を殴る。
その勢いで飛ばされた私は脱力しきったまま、カーペットの上に吐き出されるように投げ捨てられた。
口腔内が火傷のように熱を帯びる。そしてそれを冷却するかのように液体が漏れ始める。
口の中に溜まったそれを吐き出した。しかしその吐き出したものが血液かどうか把握できなかったのは、カーペットの色がそれと似たような色合いだったからだ。もしかすると胃液だったかもしれないし、もしかするとスチームパンクで出てくるような機械仕掛けの人形の私から漏れ出る冷却水かもしれなかった。
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