第四章「目がいい殺し屋」
32「ヒマワリ」
不規則なリズムの下に私はいる。
降り注ぐ
吐く息が白くなっているのを目に入れながらその不規則なリズムに耳を傾ける。吸った空気は白くないのに、吐いた空気が白いのは、グラデーションの真ん中より黒側にいる私の体の中の白い部分を空気に混ぜ、外に放出しているからだろうか。
それがいい事なのか悪い事なのかは知らないが、自分の体の中の白い部分を吐き出し、それが自分の目の前で消えていくのを見るのは、私の芯を洗練しているようで少しずつ高揚しているのが分かる。
鼻腔をツンとした冷気が通ると、一気に脳内まで冷却されたようで、いつの間にか副社長を始末することなど忘れていた。
数分後、佐藤家の庭兼駐車場の入口で待っていた私を伯父さんの軽トラのヘッドライトが照らす。
ヘッドライトに照らされた霙が一つずつ陰を作り、隠していたその姿が初めて私の前に現れたように感じる。それを目にした私はこんなにも霙が降っていたのかと初めて気付く。
軽トラはいつもと変わらぬエンジン音で私を出迎えてくれ、久しぶりに会った伯父さんも「よぉ」といつものあっけらかんとした挨拶を私に送ってくれた。
「どこにいる?」
助手席に乗った私はしきりに動くワイパーが霙を退けるのを見ながら伯父さんに聞く。
「──家だ」
運転しながら答えた伯父さんの声はほんの少しノイズが混じっており、緊張感のある声色をしていた。
「家?」
「奴の家。ここから30分。なんてことない普通のマンションだ」
「場所は知ってる?」
「あぁ、もちろん。……そうだ、これ」
伯父さんはクリアファイルに入った数枚の書類を取り出した。中に入っていたのは対象者のプロフィールだった。そう、つまり副社長のプロフィールだ。
「随分若いのね」
プロフィールの写真に目をやる。初めて見た副社長の顔は想像してたよりも若かった。もみあげを刈り上げており、七三分けで大きなウェーブを描く前髪は力強い眼差しをより強調していた。その見た目は歌舞伎町にいる自信に満ち溢れたホストのようだと思う。
多分神田よりも若いだろうその顔を見ていても、
「紫仁を殺した奴は誰だったの?」
伯父さんは眉間を掻きながら口を開く。
「……さぁな。俺も知らない殺し屋だ。番号は38。多分副社長の部下かなにかだろう」
「どうなったの?」
「もちろん生きてはないだろうな」
「……随分間接的な言い方だね」
「直接的な言葉にするにはちょっとな……。俺にも気を使ってくれよ」
伯父さんの言葉から、紫仁に直接手を下した38番という殺し屋は直接的な言葉に出来ないほどの仕打ちをされたんだと理解できる。当たり前だが「働こGO」を敵に回せばそれくらいの仕打ちを受けるだろう。
副社長はそんな会社相手に反旗を翻そうとしているんだ。余程の自信がなければやろうと思わないだろう。それこそ地獄のどん底から這い上がろうとしている深夜3時の歌舞伎町のホストのような見た目でなければそんな考えを思い付かないのではないかと、副社長のプロフィールの顔写真を眺め続けていた私は思う。
「そういえば5番から連絡が来た」
話が随分大きな角度を描いて切り替わったことに私は驚き、伯父さんの横顔を見た。
「なんで?」
「お前を勧誘してきた、もちろん断ったけど」
「……そう。ちょっと前にも
「明太?」
「うん、5番。人事部長」
「……あ、神田もそう呼んでたな」
「そう。神田さんがあいつを名付けたから」
「……そうか。というかあいつらを名前で呼ぶのは夏子か神田かお前くらいなもんだよ。あ、あとシンか」と伯父さんは鼻で笑った。その鼻から吐かれた息には少しばかりの嬉しさが混じっていたように感じる。
伯父さんのその言葉を聞いた私は頭の中で反芻し、そしてあることに気付いた。
──いや、まさか……。
うつむき、唇を指でなぞりながら記憶を辿ってる私が気になったのか、伯父さんが話しかけくる。
「何かあるのか?」
「いや、別に。ただ神田さんを信じた方が良さそうってことは確かかな」
「疑ってるのか? 神田を」
「いや……。けど、信じてはなかった。でも信じた方がいいかも」
伯父さんは理解してなさそうだったが、「そうか」と小さく呟いたのは、納得したように見せかけたかったからだろうか。
私達を乗せた軽トラはいつも通りのエンジン音を奏でながら高速道路に入った。
礼奈が連れてきたであろう水分を多く含んだ氷は、次第に純粋な水滴へと姿を変えていった。
助手席で瞼を閉じながら抱えているフォーマルバッグを開ける。中に入ったアイスピックと拳銃に触れる。指にひんやりとした感触が伝わる。暖房が強いせいなのか、火照ってしまった体を冷やすには少しばかり心許なかった。
自分の鼻息が強くなっていることに気付いた私は大きく深呼吸する。
口から吐かれた息は私のごちゃごちゃした感情を吐き出させてくれるかと思ったが、残念ながらそう上手くはいかないらしい。唾液を飲み込むのでさえ苦しく感じ、胸焼けをしたかと勘違いするほどの胃の不快感は副社長のマンションらしき場所に到着してからも続いていた。
「着いたぞ」
寝ていると勘違いしているのか、伯父さんは私に呼びかけた。私はゆっくりと目を開ける。数分前から雨音は姿を消しており、軽トラのワイパーは役目を終えていたことに気付く。
「……よし、じゃあ行ってくる」
「気をつけてな」
私は軽トラから降りると、抱えていたフォーマルバッグを肩にかけた。すると軽トラに乗った伯父さんが声をかけてきた。
「あ、そうだ。これ。忘れてたぞ」
伯父さんが身を乗り出し助手席の窓まで手を伸ばす。伯父さんの手にあったのはジップロックに入った黒髪のウィッグだった。
「あ、ありがとう」
それは神田を狙撃したビルの部屋に置いたまま失くしていたと思っていた黒髪のウィッグだった。それを手に取りフォーマルバッグにしまう。
軽トラはアクセルをわざと大きく吹かした後で、一瞬にして暗闇に飲まれ消えていった。きっと伯父さんなりのエールなのだろう。軽トラが消えていった暗闇を見続けていた私は大きく息を吐き振り返った。
水溜りを作ったアスファルトは、目の前にそびえ立つ10階立ての長方形の建物の姿をぐにゃぐにゃに描き、さらにその建物が発するオレンジ色の光をより強調させ輝かせていた。
マンションの一階には各部屋ごとに無理やり作ったような駐車スペースに高級車が何台も止まっている。中には「SATO」のエンブレムをつけた車もあり、その部屋の住人に妙な親近感が湧く。
さらにそれを囲うように庭木が植えてあり、自然を作ることで柔らかい雰囲気を作っていますよと言わんばかりである。
周りを見渡すと築年数の経った一軒家や古びたアパートに囲まれており、目の前のマンションだけがやけに際立っているように見える。それは高級車が止まっていることや、デザインがモダンだからという理由だけではなさそうだった。
耳をすませてみるとこの住宅街でこのマンションが建っている場所だけが、異様に静かだった。
隣の一軒家や、近くのアパートと違って全く生活の音がしないのである。それはまるで伯父さんのマンションのようだった。
伯父さんのマンションと同じように静かであるのに、こんなにも私の気持ちが落ち着かないのは当然のことだった。
周りから見れば伯父さんのマンションもこのマンションのように気味が悪く感じるのだろうか。目の前のマンションに歩みを進めた私は、そういえば耳で怪しさを感じ取れるような人間が私以外にいなかったか、と気付き鼻で笑ってしまった。
足を上げる度に、革靴の底はアスファルトの隙間に入り込んだ雨水を吸い寄せ小さな水柱を作る。灰色であったはずのアスファルトは真っ黒に染まり、それはまるでグラデーションを行ったり来たりするどっちつかずの私を殺し屋の世界に引き込むようであった。
マンションの玄関は右手に回ったところにあった。
スマホを取り出すと時刻は23時48分を表示している。私はストップウォッチのアプリを起動させた。電源ボタンを押し画面が真っ暗になったスマホの指紋をスーツのジャケットの裾で拭く。後ろで車が通過した音が聞こえる。湿ったアスファルトを走るタイヤの音が耳に残る。
木目調の頑丈そうな玄関の自動ドアを目の前にした私は深呼吸をした。
吐いた白い息に目をやると、まるで私自身がスチームパンクに出てくる延々と白い煙を吐き出す機械仕掛けの人形のように感じる。
心拍は先ほどとそう変わりなく、95回/分ほどで拍子を打っていた。間違いなく私の心臓は高揚しているのが分かる。
フォーマルバッグにしまったジップロックを取り出し、中に入っていた黒髪のウィッグを被る。
鏡のない場所でも上手く被れるようになったのは職業病だろうか。
長い黒髪の中で、数束の金髪のエクステが月明かりに晒され輝いたように感じる。
上空には先ほどの霙が嘘のように、藍色の衣を遮る雲は一つもなかった。
ジップロックを畳み、肩にかけたままのフォーマルバッグにしまうと同時に拳銃を取り出し、ジャケットの内ポケットにしまった。
木目調の頑丈そうな玄関の自動ドアが開く。
中に入ると左手にはいくつもの郵便ポストが目に入る。しかしその郵便ポストには一つとして番号が振られていない。やはりなと思った。
正面にはもう一つガラスの自動ドアが立ちはだかっている。左手にあるダイヤルキーと小さな液晶画面に目をやった。
ダイヤルキーを目の前にした私は動きを止めていた。
伯父さんから渡されたプロフィールを思い出す。しかしそこにはマンションの住所は書いてあったが、部屋番号まで書いていなかった。きっとつまりそういうことに違いない。
私は適当な4桁の番号を入力した。そして呼び出しボタンを押す。
間延びした呼び出し音がダイヤルキーの下についたスピーカーから漏れる。
ガチャという音がし、マイクで音を拾った時の特有のノイズが聞こえる。
「あ?」
スピーカーから男性の声が聞こえる。明らかに怪訝な表情を浮かべた声かと思いきや、案外落ち着いたその声からはマイクで拾った音とは異なるノイズが聞こえる。
「こんばんは、宅配便です」
あからさまな嘘だった。しかしそんなことはどうでもよかった。
「──宅配? ……まぁ、とりあえず上がって来い。6階の604にいる」
彼の声は、壊れかけたオルゴールが一針ずつ振動弁をゆっくり揺らすかのような低音の中に溜め息が混じっているようなそんな声だった。年齢と顔に似合わないなと感じた。
ガラスの自動ドアが開く。私はそれに招かれ彼の住処へと踏み入れた。
このマンションは副社長の家だ。それはこのマンションの一室に彼が住んでいるという意味ではなく、このマンション自体が彼の家だった。そう、伯父さんと同じように。つまり外から見えた何台もの高級車も全て副社長のものだろうし、ダイヤルキーの何番を押してもきっと彼が出るだろう。
私は自動ドアを過ぎ右手にあるエレベーターに乗り込む。
6と表示していたエレベーターの小さな電光掲示板は5、4、3、2、1、とカウントされる。それはまるで副社長が絶命するカウントダウンのように思えた。
エレベーターに乗ると、天井の左奥の隅で私を睨みつけるような、黒い球体を半分に切って取り付けたような物体が視界に入った。私はフォーマルバッグから取り出したアイスピックを監視カメラに向かって投げる。半球状の黒いガラスを突き破ったアイスピックは見事に内部のカメラのレンズに突き刺さっていた。手を伸ばしアイスピックを回収する。
防犯カメラを壊したのは、カメラに自分が映るのが嫌だったからでは無い。ただ単に仕事をする上で防犯カメラを壊すことは癖になっていたからだ。それに今日はなんだかムカついたからだ。
ちなみにムカついた理由は自分でも分かっていない。きっと紫仁のことがあるからだろう。
私は6階のボタンを押した。エレベーター内の中央上に位置する小さな電光掲示板が1、2、3、4、5、6とカウントしていく。それはまるで副社長のK.O.判定をするレフェリーの合図のように思えた。
チン、と高級マンションにしては随分とチープな音が鳴り扉が開く。
目の前には長い廊下が見え、その突き当りの壁に一枚の絵画が飾ってあった。黄色いそれを視界に入れながら歩みを進めると、どうやらそれはゴッホの『ヒマワリ』だということが分かる。まさか本物ではないだろうと疑ったが、今はそんなことを考えている余裕はない。
突き当りを左に曲がると、左右に部屋が連なっていた。左手には手前から601、602、603と表記された部屋が、右手には手前から605、606、607、608と表記された部屋が並んでいる。
そして廊下の突き当たりには豪華な装飾を施した金色のナンバープレートに604と刻印された扉があった。その奥から嫌なノイズがかすかに聞こえ私の耳たぶを鬱陶しく撫でているようだった。
それが気持ち悪くなった私は両耳を揉み鬱陶しさを取り払おうとした。しかし一瞬消えた鬱陶しさは604号室に近付くにつれ増すばかりだった。
通常、ホテルやマンションは末尾の数字が「4」や「9」の部屋は用意していない。それは「死」や「苦」を連想させ人々が縁起が悪いと嫌がるからだ。
目の前の扉の豪華なナンバープレートに当たり前のように604と書かれていること自体が、このマンションの居心地の悪さを象徴しているようだった。
さらにその居心地の悪さは、ワントーン暗いダウンライトのせいでより一層強調されている。
左右の部屋に見向きもせず、私は真っ直ぐ歩みを進める。
柔らかすぎると言ってもいい臙脂色のカーペットは、私の足に絡みついては離してくれないような印象を受ける。
空気が薄く感じたのは気のせいだろうか。耳の中に溢れる嫌なノイズは私の胃を小刻みに揺らし、私は嘔気を催し始めた。
しかし足を止めるわけにはいかない。足を止める理由は見当たらなかったし、ただの吐き気で業務を中止して早退なんてしていられない。
私は604号室のインターホンに手を伸ばす。間の抜けたチャイムの音は薄気味悪いこの廊下に響いた。
「──空いてるぞ」
先ほどエントランスで応答した男性と同じ声がインターホンのスピーカーから聞こえた。
私はアイスピックを左手に持ち変える。反対の手でドアノブに手を掛ける。
私は息を深く吸うのと同時に扉を手前に引く。
勢いよく扉が開き、壁にぶつかる。その音を隠れ蓑にするように604号室に入った。私の後ろで勢いよく扉が閉まる音がする。
目の前は真っ暗だった。
目を凝らし部屋の様子を伺うも未だ目は暗闇に慣れない。耳に集中した。
先ほどよりも強いノイズは私の耳に取りついて離れない。これでは細部の状況を把握することができなくなってしまう。しかし、そのノイズは私の左から聞こえてくることが分かった。
より耳に集中するも、ノイズの板が四方から囲んでいるように他の音を遮断しているように感じる。
なんだこれは。
私は初めて経験する種類のノイズに邪魔され困惑していた。
困惑する一方で、私の目は徐々に暗闇に慣れ次第に内部の様子が見て取れる。
目の前にあるのは壁だった。そしてその壁にも大きな絵画が飾ってあった。茶色いそれに近付くとその絵画はムンクの『叫び』だということが分かった。きっとこれもレプリカだろう。本物であるはずない。
絵画の中心にいる人物は、ノイズの壁に囲まれている私と同じように周囲の音に慄いていた。
さらに近付くと絵画が飾ってある壁は、廊下の突き当たりだったことが分かる。
その廊下は左に続いており、廊下の続く方へ視線をやると、はるか先にうっすら光が見えた。
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