31「プリン その2」
私と関係が深く、一桁では無い、番号の低いような殺し屋でも始末できる相手と言えば、
しかも彼女は救護課の課長である。彼女を失った「G.O.」は相当な痛手を負う。そして私の処置を唯一している彼女だけが、私の怪我の具合を把握しており私の体の弱い部分を知っている。
始末する前に尋問をして私に有利な情報を得たかったからなのか、親友を失った私に精神的なダメージを負わせ冷静な判断が出来ないうちに始末しようとしているのか、もしくはその両方とも考えられる。
副社長にとっては紫仁の始末はメリットしかないだろう。私が「G.O.」を去った瞬間を狙って紫仁を狙ったのだろうか。
嫌な予感はよく当たるが、今回ばかりは外れて欲しいと心から思った。しかしそう思えば思うほど嫌な予感は信じたくない事実に姿形を変えていった。
「殺されたのは二人いる」
伯父さんの声にわずかなノイズを感じ取ったと思ったが、実際は私の耳がざわついただけだった。
殺されたのは、二人。その中に紫仁は入っているのか。一瞬の沈黙の後、伯父さんの第一声を逃すまいと耳に集中する。
「……71番と42番だ」
良かった。紫仁の名前は無い。そう思ってしまったのは、そう願っていたからかも知れない。
しかしその数字を頭で繰り返している内に次第に私の表情は一切の感情を失い始めていた。
71番と、42番。71番と、42番。71番と、
42番。
42番。……42。そうだ、紫仁のことだ。
予感はいつの間にか姿を消し、事実だけが私の目の前に突っ立っていた。
「71番は処理部の機動課の人間だ。で、42番は救護課の課長だ。……確か、礼央と同じ部屋だった子じゃなかったか?」
伯父さんの声はいつになく息が多かった。しかし、私が頭の中で42という番号を執拗に繰り返していたせいか、受話器越しでも伝わるその溜め息のような伯父さんの声は私の耳には届かなかった。
なぜ紫仁が殺された?
理由は分かっていたはずだった。間違いなく私を狙った副社長の仕業に違いない。しかし私は頭の中で何度も現れる疑問符を繰り返し投げ捨てていた。きっとその事実を疑うことで私は紫仁の死を拒絶したかったのだろう。
なぜ紫仁が殺された? そのドロドロとした液体だけで私の思考の水槽はいっぱいになっていた。
その後の伯父さんの話には耳に入っていたが、振り返ってみても何を言ったのかを思い出すことは出来なかった。
私は誰かを失うことを嘆いていい人間ではないと理解しているつもりだ。何人もの命を奪ってきた私にとって死はそこいら辺に転がっているようなものだったし、それを足でどかして歩いてきたような人生だ。
インスタで流れる投稿写真が一枚削除されるように、上から下に流れる無数の命が一つなくなっても誰も気付かないのではないかと思っていたが、違った。
紫仁は私の数少ないフォロワーの一人だったし、私も彼女にとって数少ないフォロワーの一人だった。
上下に流れるはずの投稿写真が一枚失くなるだけでこんなにも苦しいものなのかと、私は今日初めて知った。
紫仁。紫仁。紫仁──。
口に出して言っているのか、心の中で唱えているのか、自分自身でも定かではなかったがそんなことはどうでも良かった。私が彼女の名前を言い続けていれば、もう一度彼女に触れることが出来るような気がしていて私は彼女の名前を言い続けた。
何も見えない。
目の前が真っ暗になるとはまさにこのことかと思ったが、実際には単に私が目を閉じていただけだった。
目を閉じると真っ暗闇の中に現れた紫仁がいた。そして紫仁の口が動く。
先日、私が「G.O.」の処置室から出る時に紫仁から聞こえた「また」という言葉に合わせ紫仁の口が動いた。
──紫仁!
暗闇の中で私は手を伸ばして叫んだような気がした。実際に声が出ていたかは分からない。
勢いよく瞼を開けると私の両目尻には一滴ほどの涙が溢れ落ちる寸前だった。それを指で拭う。
もう、あのカラスの啜り鳴きのような声を、小鳥のさえずりのような声を、柔らかい絹のようなあの声を私は聞くことは出来ないのだろうか。
もう、あのぎゅっと抱きしめた時に匂う処置室の埃臭さの中に感じる紫仁の匂いを嗅ぐことは出来ないのだろうか。
最期に紫仁と会ったあの時、薄暗い処置室の片付けを手伝ってくれたあの時、もっと紫仁の顔を見ていれば良かった。片付けなんかせずもっと紫仁と話していればよかった。邪魔をするシンを退けて紫仁と話していればよかった。
処置をしてくれた感謝の言葉もまだ伝えられていないのに。外の世界はあたたかいものが沢山あるんだって、まだ教えてあげれていないのに。
今まで久々に会った時には、変な緊張感でいっぱいで、口にする言葉を頭の中で探っているばかりなのに、こうして会えない時間には話したいことがたくさん思い浮かんでしまう。もう二度と会えないなんて考えると溢れてくる言葉は絶えることを知らない。
兄の沢庵の話を聞かせてあげたかった。紫仁はどんな反応をするんだろうか。
石橋組を壊滅させてしまった話を聞かせてあげたかった。紫仁はどんな声で返事をしてくれるんだろうか。
7番と会った話を聞かせてあげたかった。紫仁はどんな目で私の話を聞いてくれるだろうか。
おでこがつるんとした女の傭兵と戦った話を聞かせてあげたかった。紫仁はどんな匂いを放ちながら私のそばで聞いてくれるだろうか。
紫仁が救護課の課長になった話を聞いてあげたかった。私は紫仁とのずれた会話に頭を使いながら合わせるだろう。
佐藤家は大雑把と潔癖症で綺麗に分けられること、兄と父と祖父の体の大きさが見事に似ていること、礼奈に乳液を使えと怒られた日のこと、母が作った食感の多いバナナオレのこと、プリンになってきた私の髪の毛のこと、神田とシンがハモったこと、7番の息の多い声と女子高校生のような話し方のこと、1番がうざいこと、明太が人事部長になっていたこと。
紫仁に話したいことはこんなにもある。
なんであの時話さなかったのだろうか。後悔しても遅いのは理解できるが、無駄なことだと分かっても、ありえることならタイムスリップして久しぶりに会ったあの日に戻りたかった。
今すぐにでもあの公園にでも行ってみようか。昔、家族と行き、私が副社長の側近の傭兵を殺したあの公園に行ってみようか。
私の愛車の車のオブジェに跨り、子供の頃のようにタイムマシンに姿を変えた私の愛車でタイムスリップしたらあの日に戻れるだろうか。
それぐらいしかタイムスリップをする方法は無かった。藁にもすがる思いとはこのことだろう。紫仁が生き返るのならば藁でも車のオブジェでも何でも利用してやるつもりだ。
しかし思い返せばあの車のオブジェは女の傭兵の銃撃によってボロボロになっており、もう二度と跨ることさえ出来ない。
またしても副社長の仕業だ。副社長が雇った女の傭兵のせいで私は愛車を失った。
副社長が私を狙う理由が勘違いだったとしても、私が副社長を狙う理由は今はっきりと産声をあげた。
「伯父さん」
受話器越しに話していた伯父さんの話を聞いていなかった私は一方的に口を開く。
「……私、耳のいい殺し屋がいるって聞いたの。その子に『働こGO』の副社長の始末を依頼したいんだけどいいかな?」
理解した伯父さんは鼻で笑った。その息が受話器越しに伝わる。
「……あぁ、もちろん。報酬は1時間10万円だけどいいか? 現場の希望は?」
「大丈夫。現場はどこでもいい。そっちで見繕って。明日の朝5時まででお願い」
「──了解した」
受話器越しの伯父さんが咳払いをする。
「えー、現場までの交通費はこちら持ちになるのでご心配なく。現場についてからが始業時間になりますので、そこから1時間10万円になります。その他ご希望等はございませんか?」
電話オペレーターのような声色に変わった伯父さんの声に違和感を感じる。きっといつもこのような話し方で依頼人と会話しているのだろう。
「無いです」
釣られてこちらも敬語になった。
「分かりました。では終わり次第ご連絡させていただきますので、よろしくお願いします。毎度ありがとうございました」
違和感のある伯父さんの言葉が途切れたと同時に電話が切れた。
スマホを耳から離し、ずっとスマホをくっつけていたために痛くなった右耳を揉む。部屋の壁に掛かっている時計の秒針だけがこの空間を支配していた。一秒ごとに繰り返されるその音が副社長の寿命を削っていく錯覚に陥る。
私はクローゼットを開け、脇に抱えられるほどの大きさのフォーマルバッグを手に取る。枕の下に隠していた刃渡り5cmほどのアイスピックを取り出しフォーマルバッグに入れる。そして、私はベットの下に隠してあった大きめの銀色のブリーフケースを開けた。
そこには拳銃や短機関銃、サバイバルナイフがいくつかしまってある。私はそこから使い慣れた「コルト・ガバメント」を1丁手に取り、それもフォーマルバッグに入れた。そしてジャケットのポケットに入った物に触れ、先日「G.O.」の処置室から盗んだ麻酔の小瓶が入っていることを確かめる。
ふと顔を上げるとカーテンの隙間から覗く窓に私の姿が映っていた。
相変わらず冷たい目をしているなと思う。もはやプリンと呼ぶには黒髪が侵食し過ぎている私の髪が目に入る。行き場を失った金髪は、だらしなく私の顔にしがみついているようにも見えた。
「……そろそろ切ろう」
独り言は部屋の隅に落ちることなく私の耳にちゃんと届いた。
窓に映る私の冷たい目の中の私は間違いなく殺気立っていた。もし私が自分のノイズやハウリングを聞くことが出来たのなら、そのうるささで会話もままならないだろう。
親友が殺されたにも関わらず、声を荒げることも、嗚咽するほど咽び泣くこともない。腹が煮えたぎるほど怒りが生まれたわけでもないし、悔しくて歯を食いしばるほどでもない。今の私は不思議と冷静だ。
思うことは一つ。ただ、紫仁と会いたかった。
そして紫仁と会えなくなった原因を作った奴をそのままにしてはおけなかった。
何も感情を顕にする必要はない。冷静でいることと殺気立っていることは、必ずしも反比例するわけでない。冷静でいてもなお、殺気は存在できる。怒りや憎しみといった一過性の感情に身を任せることだけが殺気ではない。冷静で、論理的で、素直な殺気だってある。
そうだ。私は殺気立っている。自分で分かっている。奴を始末したい。それは突発的な感情ではないことも私は分かっている。明日でも、明後日でも、1年後でも、10年後でも同じように奴を始末したいと思い殺気立っていることだろう。
しかしその殺気は上手く飼いならしておかなくてはいけない。
副社長と会った時にこの殺気を閉じ込めている檻を開け放つのだ。それが出来ると思えば思うほど、紫仁を失い喪失感で潰されそうな私の心は少しずつ軽くなっていく。
これが復讐という感情がもたらす作用だった。
私の心拍は65回/分を数え、不思議と落ち着いていた。
私は黒のスーツのまま玄関で靴を履いた。靴紐を結ぶ手はこのあと人間を殺す手に変わる。力を入れ結び目を固くすると同時に、副社長の命が途絶えるイメージが思い浮かぶ。
革靴を履き終え、床に置いたフォーマルバッグを手に取った。
重さを感じるフォーマルバッグは今の私のスーツによく似合っていた。
すると母が玄関に来る。
「あれ? どこか行くの?」
母の声はさっきと同じく息が多かった。おそらくこんな霙の降る悪天候の中で外出することが心配なのだろう。
「うん。ちょっと仕事に。伯父さんが来ると思う」
「そう。気をつけてね」
私の言葉で伯父さんと一緒だと言うことに安心したのか、母はあっさりと了承してくれた。
「あっ、そうだ。ネクタイはいいの? 葬儀屋さんのバイトでしょ? 黒いネクタイ、あったかしら」と母は探しに行こうとする。
「大丈夫。持ってるから」
ポケットに触れながらぶっきらぼうに放った私の言葉を聞いた母は「あ、そう。じゃあ気につけてね」とまたもあっさりとした返事を送ってくれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます