28「ご飯」
神田やシンがいつも着ているスーツと同じ濃度の黒のスーツを身に纏った私は端から見れば「G.O.」の職員に見えることだろう。
「G.O.」が用意した革靴はいい音が鳴った。エレベーターに向かう最中の私の足取りは決して軽くはなかったが足音を心地よく感じていた私は、どこまでも歩いていきたくなった。これも私が「G.O.」の記憶を覚え続けている証拠だろうか。
ガラスの自動ドアが開き、私は作り笑いのような青空の下に放たれた。
振り返っても私を見送る者は誰一人いなかった。不意に紫仁が中途半端に言った「ね」という言葉を思い出す。そういえば処置をしてくれたお礼をまだ言ってなかったなと私は思い出す。当分の間は「紫仁にお礼を言う」という目的だけを胸に生きていこうと自分に言い聞かせる。
またここに戻ってくるかどうかは分からない。紫仁との会話があれで最後にならなければいいなと願うしかなかった。
「働こGO」の会社から出た私の目の前には「スーパーカブ50」が停めてあった。
車体をよく見ると少し擦りむいたような傷があるのが分かる。あの時の自損事故はそこまで大した事故ではないことをその擦り傷から認識できた。私が意識を失ったのは、他でもない、デコちゃんと呼ばれる傭兵との戦闘が原因だろう。しかし、兄にはどう言い訳をしようか。スマホはまだ電源がつかないし、数日間実家にも伯父さんにも連絡を取っていない。だが、伯父さんには神田から話はしてあるだろう。
佐藤家の皆は心配しているだろうか。いや、心配していない可能性の方が高いように思う。
しかし、兄だけは違うなと私の勘はそう言っていた。兄はきっと心配している。私が勝手に借りた「スーパーカブ50」の行方を。
昔から勝手に物を借りる私に対して兄は腹を立てていた。兄弟なのだからいいだろうと勝手に思い込んでいた私は兄の怒りをまともに受け入れたことはなかった。
私自身、礼奈が私の物を勝手に借りても怒らないし、逆に妹に頼られることについて嬉しさを感じる。それが兄であってもそうだ。兄弟とは当たり前に物の貸し借りをすると神田から教えられたことがあり、それが憧れでもあった。
しかし、冷静に考えてみれば、もしかすると兄である神田は弟の物を勝手に借りて、弟の気持ちをないがしろにしていた可能性もある。私の憧れた兄弟愛はただの神田の図々しさだったのかも知れない。
このまま帰ったところで兄に見つかれば「勝手に何してんだ」と怒鳴り散らされるだろうし、帰ってきた「スーパーカブ50」の車体を舐め回すように確認し、私が作ったいくつもの擦り傷を見てはその都度、怒りを掛け算してくると予想出来る。
このまま乗って帰るべきだろうか……。
いっそのこと私が乗って帰ることなくこのままここに置きっぱなしにすることで、兄の「スーパーカブ50」は私に勝手に乗られたのではなく誰かに盗まれたということにしてしまえばいいのではないかと考えてしまう。
そんなことを考えて顔をあげると「スーパーカブ50」は首をこちらに傾けており、まじまじとこちらを見てくる彼の大きな一つ目と目が合う。彼の儚げな瞳を目に入れてしまってからはここに置きっぱなしにするのが可哀想に思えてきた。
よし、と決意した私は車体の鍵付きのフックにつけっぱなしになっているヘルメットを外した。ヘルメットを被った私はバイザーを下ろす。以前と比べ左側の視界は良好だった。
久しぶりの彼のエンジン音は病み上がりの私を歓迎してくれているように感じた。
佐藤家に帰り、数日ぶりの湯船に浸かった私はもう一度、私が狙われた理由について整理してみた。
まずは副社長の存在だ。私を狙った人物は副社長の傭兵とのことらしい。それはシンと明太の話からして間違いないだろう。しかし、なぜ狙われたのかは定かではない。
シンは傭兵が個人的に私の始末を依頼されたと予想していた。しかし、
シンの予想だと、この部分が説明がつかない気がする。副社長が個人的に依頼を受けた傭兵を気にかけるだろうか。
自らの側近だとしても、そんな面倒ごとには首を突っ込まないのが当たり前ではないか?
私の考えはシンとは違い、副社長が私を始末するために傭兵を使ったのではと考えている。しかし、その場合もなぜ副社長が私を狙ったのかが不明な点だった。
そして副社長と繋がる人物はもう一人いる。神田の弟だ。
彼は謎の男として、私とともに神田の始末のため一時的に協力し合った仲だ。
彼は副社長の秘書だと伯父さんが言っていた。そして最近、副社長が力をつけてきた理由が彼を秘書にしたからということだ。つまり彼は副社長の命令で神田を始末しようとした可能性が高い。しかし、なぜ副社長は神田を始末しようとしたのか。
確かに神田を狙う人物は少なくないだろう。「働こGO」の処理部の部長の神田は実質「G.O.」のトップに君臨する。彼を始末してしまえば「G.O.」は崩壊するに違いない。そんな「働こGO」にとって重要な人物を副社長が狙うとも考え辛い。第一に社長と1番が黙っていないだろう。神田を始末しようとすることは「働こGO」全体に喧嘩を売っているのと同じことだ。そんなことを副社長である人物がやるのか?
そういえば、シンによれば、私の知っている太った男性の副社長を始末したのは現在の副社長だというらしい。さらにその事実を私が知らなかったということは、少なくとも今から遡って5年の間に起きたことだ。私が二回目に「G.O.」を抜け出したのは18歳の時で、その時にはまだ中年の太った男性が副社長だった。
それを踏まえ改めて考えると副社長が「働こGO」に喧嘩を売らないと断言は出来ないのかも知れない。
「G.O.」の殺し屋のトップに君臨する神田、その弟である謎の男を自分の秘書に置き、「G.O.」とは関係のない傭兵を側近として雇っており、さらにここ数年間で副社長を始末し自分が副社長になった。「働こGO」に反旗を翻す準備が整っているように感じてしまうのは私だけだろうか。
現に神田の弟は神田の始末を目論んでいた。副社長が神田を始末し、「働こGO」に喧嘩を吹っかけてもおかしくはないのかも知れない。その理由がなんであれ、ここ数年で副社長を始末して自ら副社長になるほどの人物なら野心に燃えているに違いない。
副社長が「働こGO」を狙っているとして、それが私を狙う理由にはならないことは火を見るよりも明らかだ。
逆に裏切り者の私を味方につけてもおかしくないとまで思う。そもそも私に神田の始末を依頼したのも副社長なのではないだろうか。
副社長が私を憎む理由、もしくは邪魔な理由だけが思いつかない。
顔も知らぬ人間に嫌われていることほど居心地の悪いものはない。人気ユーチューバーが自分に対する批判コメントを読んでいる気持ちはこれと似たようなものだろうか。人気者は大変だなと、存在するかも分からない頭の中のユーチューバーと慰めあった。
気付くと私の頭の中の整理がついた頃には両手の指がふやけていた。
お風呂から上がった私は寝巻きを用意するのを忘れていることに気付いた。ドライヤーで髪を乾かした後、お湯で潤いを保った体でぴったりサイズの黒のスーツを着るのには少し手こずった。
リビングに向かうと、昼食の準備をしていた母が「またどっか行くの? 忙しいわね」と、いつも通りのテンションで話しかけてきた。どうやら母は私が数日間連絡もなしにどこかに行ってきたことについてはなんとも思っていないらしい。
いま、家には母と祖母と礼奈だけしかおらず、男性陣は外出中とのことだった。
兄に怒られることを覚悟していた私は執行猶予が与えられ、ほんの少し気が緩んだ。
黒いスーツのまま食卓を囲むことに祖母が注意すると思いきや、椅子に座った私に「おかえり」とお茶をすすりながら挨拶をしてくれただけで、数日間家にいなかったことも、黒のスーツのままここにいることに関しても何も言ってこなかった。
「礼奈呼んできて」
母はいつもと変わらぬ日常を私に託してくれた。母の声が少し息が多く感じたのは気のせいだったのだろうか。私はそれに気付いていない振りをして「はーい」と呑気に返事した。
2階に向かった私は実家の階段の段差がこんなに小さかったっけと思い返していた。
足を踏み入れるたびにミシミシと音を立てた。それを耳に入れると反射的に実家の匂いを感じ、帰ってきたんだなと実感できた。
「礼奈、ご飯出来たって」
礼奈の部屋をノックし返事を待たずに言った。またいつも通り「今行く」と言いながら中々降りてこないと思いきや、扉はすぐに開き「帰ってきてたの?」と驚く礼奈がいた。
「今ね」
礼奈の格好が上下スウェット姿であったおかげで今日が日曜日だということに気が付く。
「いつ帰ってくるか行ってよ。何回も連絡してのに出ないんだから。お兄ちゃんが怒ってたよ、バイク勝手に乗って! って」
礼奈の声は私の声に似ておらず耳にすっと入る高音が特徴的だ。
「あぁ、やっぱり」
一方、ぼそぼそと話す私の声は、低音も高音もどこに行きたいのかも分からないように聞こえる。
「私は連絡したんだからね。お姉ちゃんが怒られても私のせいにしないでよね」
礼奈はスマホをいじりながら私の全身に目線をやる。
「……っていうかなんでスーツなの?」
言い訳を考えてなかった私は「ええっと」と右上に視線をやる。
「葬儀屋のアルバイトがあって、泊まり込みで働いてた」
「へぇ」と礼奈は私の嘘をあっさり信じた。というより本当に私の話を聞いているのかどうか分からなかった。しかし、そんなこと言ってしまえば、今まで私と話した会話の全てを聞いているのか聞いていないのか、礼奈にとっては全てどうでもいいことのように感じているに違いない。
「ご飯だって」
「うん、すぐ行く」
礼奈はそのまま部屋を出てトイレに向かった。私は、礼奈が私を横切ってトイレに向かうスピードに驚いた。昔は、よちよち歩きで私の後をついてくるだけで精一杯だったのに、いつの間にあんな速度で歩けるようになったのだろう。
16歳の生きるスピードに23歳の私はついて行くことは難しいのかもしれないと感じた。数日間家を離れていたが、妹とちゃんと会話したのはいつぶりだろうか。
「家にいる」ということは家族との時間を過ごしていると私は思っていた。しかし、それは違った。家にいてもその人と接していなければ一緒の時間を過ごしていると言えない。家という大きな単位は人間という小さな単位の集まりで出来ている。建物という意味の「家」があったところでそれは家ではなく、そこに人間が住むことで家になる。そして、家をともにする人間達がいつの間にか家族になっているのだろう。
私が勘違いしていた「家にいる」ということは、複数の人間が集まる家に入っているだけに過ぎなかった。こうして妹の成長を今になって感じることが何よりの証拠であり、私が本当の家族になっていない証拠でもあった。
私は佐藤家の家族であるが本当の家族ではない。
5年前に私は佐藤家に養子として迎えられた。その時は礼奈はまだ生まれておらず、兄はまだ8歳だった。それまでは「G.O.」の施設で過ごしていたために、一般的な社会を知らず、「家族」という存在は神田やシン達の話でしか聞いたことがなかった。
当時、私は家族として迎えられた実感はなく、「G.O.」の訓練の延長だと思い込み、佐藤家の皆を目にした私は「この人達は私を鍛えてくれる新しいトレーナーなのか」と思っていた。
初めこそ壁を作っていた私だが、母特有の余計なお世話のせいで壁が壊されたことをきっかけに、砂の山が崩れるように一気に佐藤家に馴染み始めた。
母のおかげだけではなく、元々「G.O.」に所属していた伯父さんが佐藤家に迎えられる前から私と知り合いだったことも佐藤家に馴染めた理由の一つだった。そして伯父さんは私を佐藤家に迎えるとともに「G.O.」を辞めた。
当時、5歳ながら「G.O.」で3番として活動していた私を連れ出した罰が「働こGO」からの自主退職だけで済んだことは伯父さん自身も驚いたらしい。
そもそも殺し屋として育てられていた私が、なぜ佐藤家に連れて来られたのかは分からない。
「G.O.」にいた頃の幼少期の私が家族というものに憧れていたことは確かにあった。しかしそれはぼんやりと描いた青写真であり、誰かに家族が欲しいといった覚えはなかった。
佐藤家に迎えられた私は、誰かに「なぜ私はここにいるのか」と聞くことはしなかった。それは居場所のない私が、生きていいと言われた場所で生きていくことになんの疑問も持たなかったからだ。誰かに聞いてしまえば「あれ? なんでだっけ? 別にここにいなくていいんじゃない?」とあっけなく見破られてしまうのではないかという恐怖心もあった気がする。
そして18年経った今でも、私は自分が佐藤家へ連れていかれた理由を未だに知らない。
しかし、佐藤家の皆はどこから来たかも分からない5歳の私を、よく素直に引き受けたと思う。普通なら誰かも知らない子供を連れてきた伯父さん達に、事細かに状況を聞くと思うのだが私の知っている限り佐藤家の皆はそんなことをしなかった。
5歳の私が伯父さん達に連れられて初めて佐藤家に行ったの記憶はしっかりと覚えている。
あの日は夜だった。吐く息が白くなったことに驚いた記憶があるので、おそらく冬だった。施設から出て頭上を見上げると、限りない藍色の天井に描かれた白い斑点が輝いていることに驚愕した。それが夜空だと知ったのはだいぶ後の事だった。
施設内のエアコンの空気よりも何倍も強い空気の流れが私の髪をなびいた。どこかに強力な送風機があるのかと周りを見渡したが、そんなものはどこにもなかった。当時の私は、これが、神田から聞いた自然に吹いてくる風というものなのかもしれないとなんとなく察した。ちなみに当時の私は、神田から「風は色んな食べ物を連れて来てくれる」と聞いており、それを疑うことなく信じていた。今考えると馬鹿らしく思う。
当時の私にとって夜空も風も、ツチノコやネッシーのような未確認生物だったし、もしくは口裂け女や人面犬のような都市伝説だった。といってもツチノコもネッシーも口裂け女も人面犬も当時の私は知っているわけもなかった。
初めての外の世界に私の心は弾んだ。そして同時に見渡すものが何か分からないという恐怖もあった。私は伯父さんの後ろで目を輝かせながら必死でしがみついていた。
伯父さんに連れられた私は、「働こGO」のビルの前に停めてあった黒い車に目が行くもそれに驚く暇もなくその車に乗せられた。
隣に伯父さんが座ってくれたのが少しばかりの安定剤だった。
「寒いか?」
その声は、今まで会うたびに交わしてくれる「よぉ」という挨拶と同じくらい柔らかかった。私は初めて聞く車のエンジン音に耳が慣れなかったが、伯父さんのその声や心拍数は、聞こえるエンジン音よりも強く私の耳に響いた。
「これから俺の家族のところへ行く。分かるか?」
私は伯父さんの言葉の意味は理解できたが、なぜ伯父さんの家族のところへ行くのか理解できなかった。
「おじさんの家族」
言葉に変換してみると違和感で溢れた。私は伯父さんを知っている。そして私は家族というものを知らない。私は伯父さんの家族を知らないが、伯父さんがどんな表情で、どんな眼差しで、どんな声で私に話しかけるのかは私は知っていた。しかし、自分の家族と接している時の伯父さんがどんな表情をしているのか、どんな眼差しで家族を見るのか、どんな声で家族に話しかけるのかを私は知らなかった。
佐藤家に着く頃、車の中で伯父さんは私の顔を見た。
何度も会ってきたのに、初めて伯父さんと目が合ったような気がした。そして伯父さんの心拍が110回/分と上昇していたこともあって当時の私は怖いなと感じた。
しかし、今になって思い出すとあの時の伯父さんの目は私に言いたいことを渋っている目だと分かる。
「今からお前は3番じゃなくて、礼央だ。佐藤礼央、それが今からお前の名前になる」
「……礼央」
それが私が名付けられた瞬間だった。
真っ暗な車内で、私の目の前にある大きな伯父さんの顔が対向車のヘッドライトに照らされた。あの時の伯父さんの心拍の音は一生忘れることないだろう。
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