27「蜂蜜」

「なー、早くしろよー」

 シンは落ち着きのない子供のようにその場で地団駄を踏んだ。そのリズムに合わせ彼女の声が揺れる。

 その揺れから、シンの苛立ちが再び燃え上がる前にここを退散したほうがいいと私は感じた。

「これだけやったら帰りますから」

 私は床に置いたままの残りの薬品類を片付けを再開させた。

 しゃがんだ私は薬品類の中から2cmほどの小瓶を持った。

「麻酔」と書いたラベルを貼ったその小瓶を眺めた。小瓶の中に閉じ込められた透明の液体は私の手の中で小さく揺れており、小さな泡を水面に付着させている。水よりも粘度が高そうだなと思ったのは光の屈折具合が水よりも鈍く感じたからだ。

 本当にこんな小さいもので神田の痛覚を遮断出来るのだろうかと疑いの目を向ける。

 顔を上げると、紫仁しにはベッド付近にある椅子の背もたれに脱いだ白衣を掛けていた。そして、シンは紫仁に「なー、いいだろ?」と再び何かを懇願していた。二人とも私のことは視野に入っていないようだ。

 ふと魔が差した私は持っていた小瓶を右腕を支えている三角巾の中にしまった。

 シンと紫仁に視線をやるも未だやり取りを続けていたままだった。

 麻酔薬の小瓶を盗んだ私はそのまま何事もなかったように片付けを再開させた。

「頼むぜ。一瞬だけでいいからさ」

 シンの紫仁への懇願は未だ続いていた。

「無理です」と紫仁はシンに視線をやることなく片付けをしている私の方へ向かう。

「神田に言ったところですんなり見せてくれるわけ無いだろ? ショナイで頼むよ」

「一瞬でも駄目。先生が神田部長に頼めばいい」と紫仁は床にしゃがみ、私が片付けている薬品類を拾う。手伝ってくれるのだろう。真っ黒な瞳は前髪に隠れていたが彼女の口角がほんの少し釣り上がり、紫仁が私に微笑んだのだと気付く。

「ありがとう」

 呟く私に紫仁はなんの返事もせず薬品類を棚に戻す。彼女は私が並べた規則性を確認しそれに沿って置いてくれる。

「だから、嫌なんだよ。あいつに貸しを作るのは」

 片付けを手伝う紫仁に構わないシンは、胸の位置で手のひらを天に向け両手の指を曲げながら歯がゆそうに話し続ける。

「パートナーだったらそれくらい許してくれるんじゃ?」

「絶対にやだ。それに『元』パートナーだからな。あいつと組むなんて今後一切ありえねー」

「子供みたいな見栄張らないで下さい、先生」

「見栄じゃねー」

「子供みたいな意地張らないで下さい、先生」

「意地でもねー」

 私は棚を片付けながら紫仁とシンの会話を聞き流す。シンは紫仁のずれた返答に居心地の悪さを感じないのだろうか。

 会話をキャッチボールと捉えるならば、相手が球を投げる瞬間に、もう一つの球を投げてくるようなテンポの紫仁と、普通の人が1球を投げるタイミングで2球投げるようなテンポのシンとでは上手いことにキャッチボールが出来ているのだろう。不思議と彼女達の会話は成立していた。

「……仕方ないです。神田部長には伝えときます」

「あ? いや、それじゃ駄目なんだってばさー。うちがデコちゃんの死体を見たら、それはショナイにしてくんないと、特にあのおっさんには」

 紫仁はその言葉に反応せず「麻酔」と書かれたラベルが貼ってある瓶を棚に戻す。

「無視すんなっての。デコちゃんをひと目見れればいいんだってば」

「私の権限じゃ見れないです。神田部長に内緒なんて無理です」

 紫仁は背伸びして棚の上段に瓶を置く。

「だからぁ、そこをシニーちゃんに頼んでるんだってばさー。うちとシニーちゃんとの仲だろ?」

「ひと目見てどうするんですか?」

 紫仁はもう一つ瓶を拾い、先ほどと同じ棚の上段に置こうと背伸びするも届きそうになかった。それを見ていたシンは紫仁から瓶を奪い棚の上段にしまう。そして紫仁に向かってニヤリと笑った。

「あ? ひと目見て……つるっとしたおでこをちょんって触る」

 シンと目が合ってしまった紫仁は慌てて目線を下に逸らす。

「……私は先生の『元』教え子です。私に頼めるのなら『元』パートナーの神田部長にも頼めるのでは?」

「シニーは昔から好きだけどよー、あいつは昔から嫌いなんだよ」とシンは両手を前に出しゴジラのようなポーズをとり口を大きく開ける。

 その姿を見ても何の反応もしない紫仁を見ているとヒヤヒヤする。果たして、シンは紫仁との会話がずれていることに気付いているのだろうか。

「はい? おでこをちょんって触るためだけに私が規則を破らなきゃいけないんですか……」

「あ? そうだよ? 悪りーかよ」

「良くないです。好き嫌いは」

「だから、シニーのことは好きだって言ったろ?」

「私の身にもなってください」

「オーケー、分かった。文字通りシニーと一つになってやる」とシンは着ていたジャケットのボタンを外し始める。

「今は、先生が私を好きなこととこれとは無関係です」

 ジャケットを脱ごうとするシンに目もくれず、紫仁は床に置いてある試験管立てを棚に戻す。

「……ちぇ」とシンはその大きな肩を落とす。

 紫仁はシンに一瞥し溜め息をつく。

「意味が分かりません」

 紫仁の言葉にシンはあからさまにしょんぼりとしているだけだった。

 彼女達の会話に蚊帳の外だった私は最後の瓶を棚にしまう。

 私は「紫仁も大変だね」という意味を込めた苦笑いを紫仁に送る。しかし、紫仁はその意味を感じ取っていないようで、伏し目がちの表情のまま胸元で小さくピースを作り私に送り返した。


 一通り棚の片付けが済んだ私は勝手なことをして迷惑を掛けてしまったことを紫仁に謝らなければと思った。

「ごめん、勝手にいじったりして」

 紫仁は棚のガラス戸を閉めた後で膝についた埃を払う。私の体よりも細く引き締まった彼女の体のラインに沿うように黒のパンツスーツが貼りついているようにも見える。

 白いYシャツの上から黒のベストを着た紫仁の姿は新鮮だった。神田やシンが着ているものと同じスーツであり、彼女も「G.O.」の殺し屋だったのだと実感する。

「大丈夫。物が多くて大変なの。ありがとう、礼央」

 紫仁は目線を下にやったままそう言ってくれた。

 私は何も言わず微笑みで返した。するとシンが私の右肩を勢いつけて叩く。

「よし。じゃあ、これでもうれおちーはシニーとさよならだな」

 シンのその言葉からは、私と紫仁がもう会うことのない永遠の別れを手引きするようなニュアンスを感じたため、そう思いたくない私は聞こえていない振りをした。

 シンが何度も強く叩いたせいで、私の右肩は忘れていた痛みを思い出す。痛みでしかめた私の顔を、シンは大げさな作り笑いで見つめる。シンのおでこにわずかに血管が浮き上がっていたことは至近距離で見つめ合う私にしか気付けなかっただろうし、彼女のノイズがハウリングしそうになるほど不安定になっていたことは耳のいい私にしか気付けなかっただろう。

「さぁ、あちらになりまーす」とシンはエレベーターの方へ私を誘導するように、工事現場の片側通行の作業員のように片腕を回し何度も円を描いた。

 私は溜め息をつきながらシンの誘導に従って嫌々歩みを進める。私の履いたスリッパの音が薄暗い処置室に響く。その音のテンポはいつもの私の足音よりもずっと遅かった。

 

 エレベーターのボタンを押すと暖色系の光が上の矢印の形で光る。

 エレベーターの機械音は相変わらず何かを吸い込むような音をしていた。

 後ろからシンの声が聞こえた。「これでやっとゆっくり蜂蜜を堪能できる」と独り言を呟いた後で、「なーいいだろー」と猫撫で声で懇願を再開させた。先ほどおでこに血管を浮き立たせた人物とは思えないほどに紫仁に話しかけるシンはノイズを安定させ始めた。

「──礼央」

 紫仁の滑らかな絹のような声がシンの猫撫で声をかき消した。

 私は振り返って彼女の伏し目がちな顔を見る。

「また」

 紫仁はそう言った後で胸の位置で小さく手を振った。

 私は三角巾で支えている右手を挙げた。右肩に痛みが走るが構わない。さらに私は微笑みを送ったが、紫仁は目を伏せたままであり気付いていなさそうだった。

「また」と私は自分にだけ聞こえる音量で呟く。

 開いたエレベーターに私は素直に飲み込まれることにした。

 私がエレベーターに足を踏み入れたタイミングだった。紫仁の口から「ね」と言う発語がエレベーターの閉まり始めた扉の隙間を縫って私の耳に届いた。

 その声が聞こえ、私が振り返った時には白い扉が目の前にあるだけで、すでにエレベーターの扉は閉まっていた。

 

 私はエレベーターのボタンを押す。紫仁の声は未だに耳に残っていた。

「ね」とはなんだったのだろう。

 紫仁が先ほど手を振りながら言った「またね」の、「また」と「ね」の間隔が広かっただけなのだろうか。または、私に言い忘れたことがあって呼び止める「ねぇ」の、始めの「ね」だったのだろうか。もしくは「ね」から始まる何かの単語だったのだろうか。

 考えれば考えるほどきりがない。あの場にシンさえいなければ、もっとテンポのずれた紫仁らしい会話を楽しめたのにと考えてしまう。しかし、私も紫仁もシンには逆らえない。シンの機嫌を損ねようなんて間違ってでもしたくはなかった。


 エレベーターが動いているのは頭では分かっていたが上に昇っているのか、下に降りているのかは体感では分からなかった。

 扉が開くと風が入り私の前髪をなびかせた。

 地上1階のエントランスに向かって歩くと玄関のガラスの自動ドアから風が通って来た。深呼吸した私は、新鮮な空気を思い切り吸い込む。そのあとで初めて先ほどいた地下のフロアは息苦しかったのだと気付く。

 エントランスの手前にある受付の時計は19時45分を指していた。

 辺りは真っ暗だったが私のいるエントランスから街灯やマンションの明かり、車のランプなどが目に入り、まだこの街は呼吸を続けているのだと感じた。

 その光は生きる活力に溢れていて、先ほどの地下の鬱々とした薄暗さとは比べ物にならなかった。

 しかし、この光を眺めていると不思議と居心地の悪さを感じてしまう私がいた。さっきまではこんな気持ちにならなかったのにと思った私は、先ほどまで居たあの「G.O.」の地下施設の薄暗さに居心地の良さを覚えていたことに気付く。

 この光を見た私は、まるでオジギソウのようにすぐさま目をつぶりたくなった。私の体が反射的にこの生きる活力に満ち溢れた光を拒んでいるのだろう。夜になっても日の光は消えておらず、人工的な光に姿形を変え、私を空の下に出さないようにしてるようにさえ感じる。

 頭では成長しているように感じても、体はいつまでも記憶を保持している。

 シンの不機嫌に対する防衛本能だったり、地下施設の居心地の良さだったり、私には眩し過ぎる外の光だったりは私の体を構築する全細胞が覚えている。

 体の全ての細胞が新しく生まれ変わったとしても、記憶は無くならない。新しくなったと見せかけて、私の体を構築する細胞を構築する成分が私の「3番」の記憶を全てを覚えている気がする。

 生まれながらの殺し屋は死ぬまで殺し屋なのだ。

 私は「G.O.」の地下施設に戻ることでそれを再認識させられる。

 スポットライトの下で輝く紫仁がお辞儀をしながら徐々に緞帳が下りるのを私は見ることが出来ない。それに、私の灰色の緞帳を下ろしてくれるような優しい人はどこにもいなかった。


 右腕を支える三角巾を外してもいいと白いスーツを着た救護課の職員に言われたのは紫仁と別れてから数日経った日の朝だった。

 この病室で過ごした期間は私の意識が戻った日から数えて、5日間ほどだった。

 病室にはカレンダーが無く、私のスマホも充電が尽きてしまったため、ここを出る直前までは今が何日目か分からなかった。「G.O.」を裏切った私が、「スマホの充電器を貸してください」なんて頼むことは恥ずかしくて出来なかった。

 右肩に微かな違和感を感じながら、私は用意された黒いスーツを身に纏う。どうやら私がここに運ばれた時に、着ていたパーカーとジーンズは処置をするために切られたらしい。そもそも白いパーカーは赤く染まっていたし、ジーンズもほとんど破れて使い物にならなくなっていたとのことだった。

 洋服は奪っておき、スマホの充電器は用意してくれない癖に、新品のスーツは準備万端なところから、「働こGO」の狂った倫理観が見え隠れしていた。しかも、用意されたスーツを袖を通した時に分かったのだが、どうやら「働こGO」はこのスーツを私の体型に合わせ新調しているようだった。ぴったりと体に密着する黒い布は私の皮膚を侵食する癌のようにも思えた。

 こんなところに予算を出すなんて、シンは本当に経理部の部長としてちゃんと務まっているのだろうかと疑いたくなる。

 用意された衣類の中に黒のネクタイがあったが、その格好で家に帰れば「縁起でもない」と祖母に怒鳴り散らされるだろうと思い、着けなかった。

 Yシャツの第一ボタンを外していたが、なんだか落ち着かず結局首元までしっかりボタンをはめた。私はベッドのサイドテーブルに置きっぱなしにしていた黒のキャップとウエストポーチを手に取る。顔は隠して出たかったがスーツには不格好だったため、キャップのバンドを通したウエストポーチを左肩にかけた。

 病室の時計は10時30分を指していた。

 履いていたスリッパから「G.O.」が用意した革靴に履き替える。

 やはりこれもサイズがぴったりであり、予想が的中した私は辟易する。「G.O.」は私のどこまでを知っているのだろうか。足のサイズの他に私の何を知っているのだろうか。革靴一つ取っても「G.O.」の、私を飲み込もうとする闇が垣間見えてしまう。


 エレベーターで地上1階に降りた私はエントランスからガラスの自動ドアを通して見える青空を見上げた。作り笑いのような透き通る水色は男女の傭兵達を殺したあの日の藍色の衣のような空とは別の人格のように思えた。

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