26「味噌」

 頭の中の一時停止ボタンを押し「エリーゼのために」を中断した私は、落としていた視線をゆっくりと彼に向けた。

「あなたには関係のない話だってさっきから言ってるでしょ?」

 私の言葉が耳に入ってはずだったが、未だ彼はノイズを発さない。銃を突きつけながら腕を組んだ彼はその微笑みを崩さずに溜め息をついた。

「……まず今ここにいる職員の中で一桁の番号は僕しかいない。それに僕らからすれば、裏切り者が突然現れたんだ。君が急に暴れない保証はどこにもないし、まず対応した窓口の事務さんの命が危ないだろう? そもそも、ここは関係者以外立ち入り禁止なんだ。場違いな格好でこんなところにいては迷惑なんだ。いくら君が専務や神田さんに気に入られているとしてもね」

 彼の流暢な言葉は、鈴のような声色に乗ってなんの装飾も身につけず私の耳に入ってきた。彼の言葉はまさしく正論だったが、彼の言葉だからだろうか、私は素直に受け入れたくはなかった。

 これが伯父さんや紫仁しにが相手だったなら素直に首を縦に振っただろう。しかし、彼の場合はその言葉の節々に他人を見下している様が顔を出す。彼の「さも自分は俯瞰に位置し公平な目線で相手が間違っていると物申し、そこに私的な感情や我儘は入っていませんよ」と主張している素振りが昔のままで、私は今も辟易していた。

「じゃあ、なんで『G.O.』は私を助けたの?」

「君を助けたんじゃない。副社長からの指示で現場に向かったんだ」

「副社長の指示?」

「あぁ。到着したら死んだ副社長の側近二人と死にぞこなった君がいたけどね」

 側近とはあの男女の傭兵のことだろう。それよりも私は副社長の指示で私達の元に来たことが気になった。

 一体、副社長はなんのために私達の元に向かわせたのだろうか。

 シンは、個人的に始末を依頼された傭兵が私を狙ったのだと予想していた。しかし、そこに副社長が介入していたのなら話は変わってくる。傭兵が個人的に私を狙っていたことを知ったとしても副社長はなんの損得もない。よって無理矢理介入してくる必要はない。

 それなのに傭兵が私を始末しようとした現場に「G.O.」の職員を向かわせた。これは明らかに何かの目的があるはずだ。

 そもそもシンの予想が大外れだったとして、傭兵が個人的に私の始末を依頼されていないと考えればこの話の筋は通る。

 副社長が私を始末するために自らの側近である傭兵を使った。これなら納得がいく。

「G.O.」の職員を向かわせることで自ら現場に赴くことなく、きちんと私を始末出来たかを確認出来る。さらに表向きには、なんらかのきっかけで傭兵が私と戦闘したことを知った副社長は、自分の側近が負傷していないかを心配して「G.O.」の職員を向かわせたと釈明も出来る。しかし、そこで不明な点はなぜ副社長が面識もない私を狙ったのかということだった。


 振り返ってみると私が副社長と間接的に関係を持った人物がいることにはいる。神田の弟だ。

 しかし彼は私と同じく神田の始末を狙っており、それが失敗に終わったのは私と同様だった。

 もし神田の始末を副社長に依頼されていたと考えれば、副社長が恨むべきは1番とシンだろう。私に矛先が向けられることは考えられないはずだ。

 とにかく、副社長が私を狙い自分の傭兵を使って始末する理由が見当たらない。つまり傭兵が私を狙った理由も未だ暗闇の中だ。

「でも副社長が指示したのは事実だよ?」

 急に私の頭の中の会議に入ってきた目の前の男性の方に顔を向ける。

 彼は相変わらず微笑んだままでこちらに銃を向けていた。先ほどよりも彼からうっすらとノイズが聞こえた。

「神田さんも知ってるし、清掃課の課長も知ってた。あと専務も」

「副社長が私を狙ったってこと?」

「そうは言ってない。けど、そうじゃないとも言えない。正直そんなことどうでもいいし、僕ら『G.O.』には関係無い。少なくとも僕にはね」

 彼は銃をジャケットの内ポケットにしまいながら言った。先ほど彼から感じたうっすらとしたノイズは跡形もなく消え去っていた。

「どう? もうこれで充分?」

「何が?」

「君がここに来て聞きたかった話。一通り話したけど」

 彼の微笑みは、見れば見るほど彼が心から笑っていないことが分かる。そんな分厚い微笑みの仮面越しに彼の本来の瞳が私の目を見ているのが分かった。

「……まぁ神田さんじゃなくて残念だったけど」

 私は座っていたパイプ椅子を戻した。去ろうとする私に彼は続ける。

「あ、そうだ。僕、今は人事部の部長なんだけどさ、こんなこと言うと君に気持ち悪がられると思うけど、正直いうと君ほどの殺し屋は中々見つからないんだ。だから僕はいつでも歓迎だよ」

 そう言った彼は内ポケットから名刺を取り出し、私に差し出した。その時、内ポケットを開いた隙間から一瞬見えた銀色の拳銃が、蛍光灯の無機質な光に照らされ反射した。

 彼の名刺を左手で受け取った私はそれをじっと見つめた。

 その名刺には何の色味もなく、真っ白な紙に黒い文字で「働こGO 人事部長 5番 明太めんた」と明朝体で印字されただけだった。

「無愛想な名刺」

 そう呟いた私の言葉は明太の耳に届いたのだろうか。

 もし届いていなくても、私があえて付け加えなかった「あなたに似て」という言葉も含めて彼は感じ取っているだろう。彼の細い目はその形に似合わず相手の心の内をどこまでも見通せる。

「まぁ、検討しといて」と背を向けた私に呟いた彼の鈴のような声は、先ほどと同じように私の耳の上らへんを撫でた。


 私はエレベーターに乗り地下2階にある処置室に向かった。

 紫仁がいないかと浮き立つ気持ちに錨を降ろしたが、風に吹かれている私の船は依然微かに進んでいた。

 何を話そうか、何を話したらいいのか。そう考えると汗がじんわりと手のひらの湿度をあげた。私のスイッチが「3番」に入っていないと、紫仁と気軽に会話も出来ないのかと思うと情けない気持ちになる。

 とりあえず処置してくれたことに感謝の気持ちを伝えよう。それから自然と会話は生まれるだろうと信じていた。

 地下2階の処置室は学校の保健室程度のスペースに置いてある4つのベッドのみが蛍光灯によって照らされており、その他のスペースは段ボールやビニールシートで覆われた得体の知れない機械やらで満たされていた。

 ちょっとした遊園地ほどのフロアだったが、実際に処置室として使用されているのはたった4つのベッドの周辺だけであり、その他は処置道具が入った無数の棚や大きな手術道具などで溢れていた。

 切れかかった蛍光灯の明かりだけが私を迎え入れてくれる。

 足を踏み入れた私は、相変わらず埃だらけで薄暗いこのフロアから懐かしい匂いがしたのを感じる。

 ゆっくり深呼吸してみると埃っぽい匂いとともに懐かしい気持ちが溢れる。紫仁の服の匂いと同じ匂いを感じた。しかし紫仁の音は聞こえなかった。

 今日は仕事じゃないのだろうか。紫仁の部屋がある地下4階に向かおうと考えたが、これ以上目立つことは神田さんに迷惑がかかってしまう気がしてやめた。それに「G.O.」の施設内をウロウロしてまた明太とばったり出会うことも避けたかった。


 少しの間、ここで紫仁、もしくは救護課の職員が来るのを待つことにした私は処置道具の入った2mほどの棚を眺めていた。少し霞んだ透明なガラスを縁取る灰色に塗られたステンレスに埃がかぶっており、指でそれをなぞると落書きが出来るほどだった。

 埃のついた指を浴衣の腰らへんで拭う。ガラスの引き戸の奥には大小様々ないくつもの瓶が置いてあった。相変わらず棚の中で乱雑に置かれた瓶は大きさ順にも、名前順にも並んでいなかったため私の心はそわそわし始めた。

 紫仁は片付けが苦手なわけではないが、自分のルール内で綺麗に収まっていれば気が済むタイプだ。しかし、だからといって他人に整理されるのも苦ではないらしい。出会った当初は自分のルールをごちゃごちゃにされるのが嫌なのかと思っていたが、私が一緒に暮らしていた部屋を綺麗に整頓した時には感謝されることがほとんどで、あとは整頓されたことを気付いてないかのどちらかだった。

 ガラスの引き戸を開け、私は無造作に置かれた瓶を取り出し一度床に置いた。

 薬品の名称が書かれたものもあれば、ラベルが剥がされた跡だけがあり何も書いていない瓶もあった。他にはプラスチックのボトルやピンセットなどの物入れにしているビーカーを取り出した。

 手に取った中に「麻酔」とラベルが書かれた透明の液体が入った瓶がいくつもあった。おそらくこれが神田が使用した「G.O.」特製の麻酔薬だろう。そしてなぜか近くに2カートンほどの煙草の束が無造作に置かれていた。

 一度空にした棚と、床に置かれた様々な処置道具や薬品の数々を見比べる。よくもこんな小さい棚にしまいこんであったと思うほどの量だったが、俄然やる気が湧いた。

 切れかかった蛍光灯が照らすベッド付近の小さなテーブルにあったティッシュ箱を手に取る。空になった棚の段をティッシュで拭いた。目には見えなかったがやっぱり埃かぶっていた。拭いた後の汚れたティッシュを見るとちっぽけな達成感が生まれる。

 次々に棚の段を拭いた後で処置道具や薬品を棚にしまう。まずは名称順で揃え、次に大きさ順で揃える。名称があるものは前の方に置き目に入りやすくした。

 中央の列に薬品類をしまう際にガラスの引き戸が邪魔をし、しまいづらくしていることに気がついた私は、一旦引き戸を外せまいかと試みる。


 引き戸に手をかけた瞬間、エレベーターが動く音がした。

 何かを吸い込むような低音はその音色とは裏腹に二人の人物を吐き出した。その方向に視線を向けた私は耳をすませる。

「なー、頼むぜ」

「無理です」

 コツコツと処置室に響く足音は聞き覚えのあるものだった。

「まだあるんだろ、どっかに」

 コロコロとした声の主は話しかけた相手に対していつも通りの縦横無尽な両手を広げていた。

「いくら先生でもその頼みは神田部長を通してからでお願いします」

 話しかけられた女性はカラスの啜り泣きのような声で返す。

 薄暗い中でその色の濃さを目立たせる黒のスーツを着たモデルのような体格の女性が、暗闇でも目立つ白衣を羽織った細身の女性に対し、必死で懇願していた。一方、その二人を見る私の姿は右腕を三角巾で支え、埃がついた浴衣が乱れたまま棚を漁っているようにしか見えず、急にみすぼらしく感じた。

「礼央?」

 エレベーターからこちらに向かう紫仁は、私の姿に気付き小さく呟いた。その顔は疑問符でいっぱいだったが、その隙間に花のような彩りが見えた気がした。

 小走りで私の元に来る紫仁の、髪につけた紫陽花の花びらを模したヘアピンが揺れた。薄暗いこのフロアで切れかかった蛍光灯の光を反射させるにはもったいないほどの輝きが私の目の奥に突き刺さる。

「──紫仁」

 私は床に置いてある薬品類にぶつかることに御構い無しで向かってくる紫仁へ近付く。

 幸い、薬品類にはぶつからなかったが、紫仁とは心地良いぶつかり方をした。と言うよりも私が一方的に紫仁に抱きついた。

「また会えた」

 私の耳元で紫仁の小鳥のさえずりのような声が私の鼓膜を揺らす。抱きつく片腕の力が自然と強くなってしまったのは、彼女の髪と白衣から、再びこの処置室に入った時の匂いを感じたからだ。

「痛い、礼央」

 紫仁の言葉を無視し、私は自分の鼻に集中した。神田ならば全身の隅々までこの匂いを感じることが出来るだろう。しかし、残念ながら私の嗅覚はそこまで発達していない。今はただ紫仁の匂いを逃さないように嗅覚で頬張ることだけで精一杯だった。

「おい、れおちー」

 シンのコロコロとしたビー玉のような声を感じるとともに、先ほどから感じていた不安定なノイズが強くなった。

 私が紫仁に抱きついたまま目を開けるとそこには、おでこに血管を浮き立たせ、まん丸の目を血走らせながら腕組みしたシンが立っていた。そして彼女の左手のいかついサバイバルナイフがちらちらと鈍く光っていた。

「──お前ら、離れろ」

 その言葉からハウリングの初期微動を感じ、すぐさま紫仁から離れる。昔の記憶は体がしっかり覚えていた。先ほどの病室で冷静に会話が出来た機嫌の良いシンの面影さえもない。しかし本来はこっちの不機嫌なシンがデフォルトだったことを私は思い出す。

 紫仁に目を向けると、彼女は前髪で隠れた困惑した表情をこちらに向け、シンを一瞥することなく首を傾げながら私を見つめていた。

「……あ、久しぶり。紫仁」

 私の掠れた声は薄暗いこの処置室に響いた。

「感動の再会はシニーだけじゃないだろ? 久しぶりだな、れおちー」

 シンはその大きな口を最大限まで広げた。しかし、おでこの浮き出た血管と目が血走ったままだったため、笑ったと表現するにはだいぶ無理があった。

 逆立つシンの怒りを鎮める術は思いつかなかったので、私は小さい微笑みを返しただけにした。

「……ったく、だから蜂蜜と味噌は合わねーんだって」と小さく吐いたシンの音からは先ほどの初期微動が収まっており、いつも通りの不安定なノイズに弱まっていった。

「なんでここに?」

 紫仁は前髪の隙間から覗く真っ黒な瞳を床に視線を落としながら私に尋ねる。

「歩けるようになったし、神田さんを探し回ってた」

 すぐにバレそうな嘘をついた私の瞳は紫仁とは反対に左上に視線をやる。

「久しぶり」と紫仁が呟く。私は嘘を微笑みでごまかしながら胸の位置で左手を小さく振る。

「は? なんでここにいるんだよ。あいつがこんなとこにいるわけねーだろ?」

 会話に入ってきたシンは不安定なノイズを撒き散らせながら私の痛いところをつく。手に持っていたナイフはどこかにしまったようだ。

「そうでしたっけ?」と、とぼけた私に対しシンは怪訝な眼差しを送る。

「こんなところに神田部長はいないでしょ?」

 紫仁の言葉を聞いたシンは紫仁の肩に肘を置き、「ほらな?」といった表情で私を見下す。

 肘を置かれた紫仁は、じゃれてくる子犬を無視するかのごとく微動だにせず私と向かい合っていた。正しくは子犬ではなくデカイ猿だったが。


 紫仁は、私が片付けている途中の棚に視線をやる。紫仁は何かに気付いたようで一度床の方に視線を落とした後、口を開いた。

「綺麗にしてくれたんだね。ありがとう」

 前髪に隠れた紫仁の真っ黒な瞳が私の瞳とぶつかった。その瞳は、薄暗い処置室の中でも際立つシンのスーツの黒色よりも遙かに純度が高い黒色で、何よりも鏡のように綺麗だった。

 埃だらけの処置室の中で見た彼女の瞳に映ったものは、全く埃なんかで汚れておらず、まばゆい光を放つ左右が反転した処置室だった。

 彼女には世界がこんな風に見えているのだろうか。私と違ってここでしか生きることを許されていない彼女は、彼女なりに輝く道を見つけたのだろう。救護課の課長として必死で生きてきた彼女には、この埃だらけの処置室の切れかかった蛍光灯も、自分だけを照らしてくれるスポットライトと同じなのだろうか。このスポットライト下で輝く紫仁を、私は見たことがない。

「ここでしか生きることが許されない」という「G.O.」に決められた立ち位置は、「何としてもここで生きていけ」と無理やり背中を押され上がったステージ上のバミリと言い換えることも出来るだろう。紫仁はそこで輝くことしか出来ないが、逆にそこで輝くことだけを許されているのだ。

 一方、どこへでも生きられる私は、佐藤家でも「G.O」でも生きることができ、いつでもどちらにでも逃げることが出来る。「生きていく」という点においては紫仁よりも自由なはずの私は、紫仁よりも明らかに不自由だった。私がそれを自ら欲したにも関わらず。


 紫仁の鏡のように綺麗な真っ黒な瞳は左腕を三角巾で支えた私を映していた。

 彼女の瞳を目に入れる度、私は自分の卑怯さと弱さを思い知ることが出来る。勇敢で強くなりたかった昔の私は、今の私よりも卑怯で弱かっただろうか。昔の私をよく知っている紫仁には今の私はどう映るのだろうか。素直で嘘のつけない彼女に聞いてしまえば、あっけなく教えてくれそうな気がするが、久々に顔を合わせた私の喉の奥から出るものは「久しぶり」という再会を喜ぶ言葉だった。

 私の瞳は紫仁と違って濁っているだろうし、鏡のように綺麗に映せない。紫仁の真っ黒で綺麗な瞳を対等に見つめ合うことなんて、私の汚れた瞳でしてはいけないはずだ。居場所を持たない卑怯で、いつでも逃げることが出来る環境に身を置いている弱い私の瞳に映るものは、表の社会で懸命に生きる佐藤家の皆と、裏の社会で全うに生きる「働こGO」の職員達ばかりだ。私は自分の瞳に自分自身の姿を映していない。自分の姿に目を向けていない。

 私の瞳は汚れている。そう思った私は紫仁の瞳から目を逸らした。

「……ごめん、汚れてるから」

「潔癖性?」

「……まぁ、そんなとこ」

 後ろからシンの「けっ」という嫌味を吐き出したかのような声が聞こえた。シンの不機嫌は気にしなければ害はない。何よりも私が本当に良かったと心から思ったのは、ここに明太が居ないことだった。

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