23「クリームソーダ その2」

 彼女から受ける恐怖で視界が曇ったように感じ、頭上に拡がる藍色の衣が無数の白い斑点を描いていたことすらも気付けなくなっていた。

 彼女と対峙した私の心拍は103回/分ほどに上昇していた。私から吐き出される荒いままの息は、目の前で拡散されてはすぐに空気に溶けて消えていくばかりだった。

 彼女が両手で構えた銃が月明かりに照らされ鈍く輝く。

 左目の眼帯が蒸れて痒みを感じた。左手の甲で眼帯の上から目をこする。

 体を少し動かしたことによって、外れた右肩の痛みが全身に拡がったような感覚に陥り、我に返る。

 突如、彼女の姿がぼんやり輪郭を歪めたのは左目の眼帯のせいだけではなかった。それは彼女が私に向かって走り出し始めたからだった。


 前傾姿勢のまま私に向かって走ってくる。

 遠近感が掴めないせいもあって彼女の輪郭がぼやけてしまっていた。しかしそれよりも私が彼女に集中しようと思えば思うほど彼女の輪郭が周りの風景と混ざっていくように感じる。

 まるで手のひらから零れ落ちる砂を必死で掴もうとしているみたいだった。やはり彼女は私のテンポの少しずれたところで手拍子を叩くように、私の気持ちの悪いタイミングで動く。

 

 私が迫る彼女を左腕で防ごうとした時はすでに彼女は私の懐に入っていた。

 まただ。いつの間に、と思う隙もなく彼女は私の腹部に蹴りを入れる。

 その衝撃で私は後ろに飛ばされた。砂の地面に尻もちをついた私が起き上がろうと地面に手をついた瞬間、私の眉間に彼女の銃口が向けられる。

 一体何度目だろう。彼女の銃が私に突きつけられるのは。

 唾を飲んだ私のタイミングに合わせ、彼女が足を浮かせた。まただ。また、私の予期せぬタイミングで彼女が動く。

 彼女の筋肉質の左脚が地面から浮き、私の右肩に蹴り込まれる。

 骨がぶつかる音が右肩から全身に響き、その衝撃は私を体ごと左に吹き飛ばした。

「──うっ」

 思わず呻き声が漏れた。

 飛ばされた私の体は何度も地面を跳ね返り、胎児のように膝を抱える形で砂の上に寝転がった。

 呻き声とともに息が吐き出され、大きく息を吸った。その瞬間、ハウリングが急接近してくる。

 彼女が走り込み私の顔面をサッカーボールのように蹴り飛ばす。

 石と石とがぶつかったような音が頭蓋骨に響いた。意識が飛びかける。頭上に拡がる藍色であったはずの衣が一瞬で真っ白に変わった。

 ここで気を失ったらもう目が覚めることはないだろう。

 私は奥歯を噛み殺し全身に力を入れ正気を保つ。

 口に液体が伝わっており、自分の鼻から何か液体が流れ出ているのに気付く。

 口に入ったその液体を、ぺっ、と吐き出す。砂の地面に飛び散った黒っぽいそれは私の鼻から出た血液だった。

 それを認識してから、顔面の痛みに隠れた鼻の痛みが顔を出した気がした。

 顔に力を入れ表情筋を動かし感覚が残っていることを確かめる。少し眼帯がずれたが、直す気力は残っていなかった。

 

 地面にうつ伏せになった私は左手で地面の砂を掴む。立ち上がらなくてはと思った時には、すでに彼女は、地面に寝転がる私の目の前で両手で構えた銃を向けていた。ハウリングはまた強弱をつける。

「3番だっけ? 大したことないんだね」

 彼女の低く響いた声は顔面の痛みを堪える私にゆっくりと降り注いだ。

 顔面と鼻からの出血が顔に付いたせいで地面の砂が顔に貼り付く。

 私は左手を広げ手にしていた砂を手放した。そして自分の腹部に手を入れる。

 パーカーのポケットには激しく動き回ったせいで容器がパンパンに膨張したクリームソーダ味のジュースが入っていた。

 私は上半身を少し起こし、ポケットの中で手に取ったクリームソーダ味のジュースを彼女の頭上に向かって投げつける。

 彼女の目線の少し上にクリームソーダ味のジュースが飛んでいくのがスローモーションで見えた。彩り豊かなポップなラベルがゆっくりと回転していくのが見える。

 その刹那、藍色の衣に穴を開けたような発砲音が響く。そして私の上空に投げられたクリームソーダ味のジュースが爆発した。

 彼女は自分で射撃した物がクリームソーダ味のジュースとは気付かなかったようだ。彼女の細く鋭い眼差しに空白が生まれた。

 その隙に私は起き上がり彼女に向かって走り込む。走り込んだ私に彼女の銃口が向けられる。我に返った彼女の眼差しは細く鋭いものに戻っていた。


 向けられた銃を持つ彼女の右腕を目がけ、思い切り蹴りをいれる。ふくらはぎからの漏れ出す血液が宙に舞う。

 私に向けられた彼女の銃口が左へと逸れるのが見え、発砲される。銃弾は私の遥か左側の地面に誤射された。

 私の蹴りは芯を食い損ねたようで、彼女の手から銃は離れなかった。

 蹴りを入れた右脚が地面に着地する瞬間、その右脚を軸にし彼女に背を向け左脚を浮かす。体を彼女の方へ回転させた勢いを左脚に乗せ、踵で蹴りを入れた。

 私の踵は彼女の左脇腹に当たり手応えを感じたが、そのまま彼女に左脚を捕まれてしまった。

 先ほど爆発したクリームソーダ味のジュースの容器の破片が地面に落ち、黄緑色の雨が降り注いぐ。


 地面の砂に降り注いでいたクリームソーダ味の雨はポタポタと連続的な音を立てたと思いきやすぐに止んだ。

 私の左脚を自分の左脇腹で抱え込んだ彼女は、その姿勢のまま右手に持った銃を構える。

 ハウリングがまた強くなる。しかし耳をふさいでいる場合ではなかった。

 抱え込まれた左脚を軸に、地面と平行になるように体を宙に浮かせた私は右脚で彼女の側頭部に蹴りを入れる。蹴りを入れた道標を表すかのように、ふくらはぎの血が宙で赤い線を描いた。

 側頭部に蹴りを入れられた彼女は、右手に持つ銃とともに体ごと飛ばされた。

 私から標準を外した銃が火を吹くも、またも弾丸は地面の砂に飲み込まれるだけだった。

 私は真下の地面へ打ち付けられる。右半身を下に地面へ打ち付けられたせいで、脱臼した右肩に衝撃が走る。

 一方、彼女はなんとか倒れず私の蹴りに耐え、持ちこたえたようだったが、バランスを崩し、さらに地面の砂に足を取られふらついていた。

 私は地面の砂を握りしめながら立ち上がる。体勢を立ち直した彼女がこちらを向いた瞬間に掴んでいた砂を思い切り投げつけた。

 私はその砂を気持ちの悪いテンポで攻撃する彼女に対しての鬱憤を晴らす勢いで飛ばした。

 彼女は左腕で顔を覆う。彼女の視界から私が消えているだろう。

 私は赤いロープの遊具の中へと戻る。


 まだロープをかい潜る力は残っていた。

 鼻から垂れそうになった血を啜りながら遊具の中で絶命した男性のもとへ向かう。

 後方から彼女のハウリングが聞こえ、銃声が鳴るもまだ私の体に新たな風穴を作ることはなかった。

 未だに、そしてこれからも静寂を続ける男性の死体が手に持つ銃を、私は奪う。

 銃を奪った私は赤いロープの遊具から出て、車のオブジェへと向かった。右腕を脱力させたまま走る私を狙った彼女の射撃は、車のオブジェに放たれる。


 乾いた音が車のオブジェを背に隠れる私の耳に響く。

 オブジェに穴が空き破片が飛び散る。隠れる私に破片が飛んできそうで、私はその場でより身を屈めた。

 私の愛車が……と心の中で嘆く。私は手に取った「グロック17」の弾倉を確認する。左手で銃を持ちながら取り出した弾倉を、動かし辛い右手で持ち、残弾数を確認した。

 弾倉には5発の弾丸が込められていた。

 私は右手で持った弾倉を銃に戻す。しかし右腕は肩が可動しないため上半身全体を器用に使ってなんとかして弾倉を戻すことが出来た。右肩の痛みは未だに私の体全体を蝕んでいた。

 彼女からの射撃は三度ほど続いたが、いずれもオブジェによって防がれた。オブジェの破片がパラパラと虚しく散乱する。

 私はオブジェから身を出し、彼女に向けて発砲する。左手で構え発砲した銃の反動が左腕を中心に全身に伝わり、右肩の痛みを刺激する。しかし私の撃った弾丸は彼女を捉えることは出来なかった。

 数m先で彼女が銃を両手で構えたまま、ゆっくりと私との距離を詰めてくる。その重厚感のある堂々とした姿を目に入れた私は、すぐさま再び半壊寸前のオブジェに身を隠した。

 

 私は、銃を構えた彼女がオブジェに身を隠す私を覗き込む瞬間を狙う。オブジェの後ろで膝立ちになり、銃を握り込んだ私はその瞬間を待った。

 彼女の足音がだんだんと近付いてくるのが聞こえる。と同時にもちろんハウリングも近付いてくる。歩くたびに彼女の靴を砂が捉え、何か擦れるような音が聞こえてくる。

 その音が段々と間隔を縮めた。彼女が走ってくるのが分かる。私の心拍数もその音に応じて速くなる。

 そして音が消えた。

 まずい、と私の本能が言ってたが、それに耳を貸した時には膝立ちする私の上空を、両手で銃を構えた逆さまの彼女の姿が通り過ぎようとしていた。彼女は勢いをつけ体操選手のようにオブジェを飛び越えてきていた。

 宙に浮いた彼女の細く鋭い目が顔をこわばらせる私の目と合った。

 上空を逆さまのまま飛ぶ彼女の後ろで夜空の星が輝いたように見えた。まるで藍色の衣を羽織ったような彼女の姿に息を飲む。

 私は体を反らし銃口を向け彼女と対峙した。

 砂の広場には藍色の衣の上で7発の銃声のいくつかが重なって響き渡った。


 起き上がった時には私の白のパーカーは所々歪な白い斑点を残し、真っ赤に染まっていた。顔を左に向けると車のオブジェがあった。

 車のオブジェの裏で仰向けになっている私の目の前に藍色の衣が風でなびいているような景色が広がっていた。白い斑点は私のパーカーだけではなく藍色の衣にも存在していて、なびく衣と同様にゆらゆら揺れているように感じる。

 目眩を起こしているのか、本当に夜空の星達が揺れているのかは今の私の余力では見定められなかった。そんな私の体温を奪っていく冷気を帯びた風を、私は居心地の悪いものでは無いように感じていた。


 顔を右に向けると地面にへばりつくように仰向けで寝転がっている彼女の姿があった。

 私と同様に大量に出血していると分かったのは彼女の体から血液が流れ落ちる音が聞こえたからだ。

 視界がぼやけ、寝転がっている彼女の輪郭とその他の世界の輪郭が曖昧になってくる。

 私は何度もまばたきをし、視界がぼやけていくのを食い止めようとした。しかしそれは収まらない。左目の眼帯を掴み荒々しく外し放り投げる。

 視界が少し広がり、世界と混ざり合って消えてしまいそうな彼女の姿が見えやすくなる。

 私は地面に仰向けになった自分の体を右に倒す。

 右肩が下になったことで痛みが増したが、それよりも腹部や胸部の痛みの方が強かった。

 左手で地面の砂を掴み、彼女に向けて投げた。それは、彼女に砂が当たれば彼女の存在を物理的に確認できると思ったからだ。

「……うわ」とも「……あぁ」とも言えない呻き声が私の口から漏れる。しかし、力が入らず、砂は手から零れ落ち、私の体や地面に降りかかるだけだった。砂が降りかかる感触は冷たくてほんの少しくすぐったい。それが招いた心地よさによって私の意識は瞼と共にどこかへ落ちていった。


 数分後、意識が戻った私は、すぐさま彼女の存在を確かめる。顔を向けた先には意識が飛ぶ前と同じ体勢で寝転がる彼女がいた。私は力を振り絞り起き上がる。

 地面にへばりつく女の元へ歩みを進めた。

 私の足はふらつきながらも、かろうじて一歩、また一歩と歩みを進める。脱力した右腕が私のふらつきと同じ振れ幅で揺れる。

 彼女に近付いた私は、弛緩しきったように放り出された銃を持つ彼女の右手を踏み付ける。そして左手に持った銃を彼女に突きつけた。

「──誰?」

 息も絶え絶えになりながら私は、言葉を発するのがこんなにも疲れる動作だったのかと知った。口の中の皮膚が張り付くのが鬱陶しく、さらには声帯のヒダが破れているのではないかとさえ感じた。

 私の問いに彼女は答えなかった。

 その鋭い眼差しの奥には藍色の衣の一点を見つめる真っ黒な深淵が覗く。その深淵からは答える気力が残っていないのでは無く、自らの意思で口を固く閉じているように感じる。

 まるで蝋人形のように表情を変えない彼女は、さっきまで輪郭をぼやかし世界に溶けようとしていたのが嘘みたいに、まるでこの世界に干渉しないように、くっきりと輪郭を残すように目を開いて上空を眺めていた。

 私の耳は未だに彼女から血液が垂れる音が聞こえ続けていた。

 「あなた──10番?」

 もはや助詞を言う余力は私に残されていなかった。

 彼女は微動だにしない。彼女は一体何者なのだろうか、私を狙った目的は何だろうか、誰かに依頼されたのだろうか。何でも良かったが、何か一つでも情報を聞き出したかった。しかし口を開きそうな雰囲気は無い。かと言ってここで始末しても後処理は出来そうにない。

 私は辺りを見回した。けれど砂の広場を中心とする公園一帯にはもう何の音もしなかった。

 風と木の葉が揺れる音だけが耳に入ってくる。目の前の彼女と私の呼吸音だけがこの世界に取り残されている気がした。

 体温が一気に下がった私は身震いした。

 その隙を狙ったのだろうか、足で踏み押さえていた彼女の銃を持つ手が動いた。

 動きを感じた私はさらに強い力で踏み押さえる。

 彼女はまだ一矢報いるつもりらしい。もう待てないと判断した私は彼女の頭部に発砲した。


 二度の銃声は彼女の呼吸音を止めるスイッチだったのかもしれないと思えた。そのスイッチによって私の呼吸音だけがこの公園内に響くだけとなってしまった。

 私だけがこの世界から取り残されてしまったような寂しさを感じたが、私のショートボブをなびかせた風はまだ私をどこかへ連れて行ってはくれないようだった。

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