21「クリームソーダ」

 すでにポールが引き出され、鎖で閉鎖された運動公園の入り口に、私は「スーパーカブ50」を停めた。バイクから降りヘルメットを外す。鍵を抜きパーカーのポケットにしまった。そしてまたも眼帯がズレたのを直す。自分の学習能力の無さにひとつまみの苛立ちを感じ、それを自分の足元の地面にふりかけた。

 バイクから降りた私はキャップを被り、鎖で閉鎖された入り口を跨いで公園内に不法侵入する。誰もいない夜の公園は、平日の昼間の人気のなさとは違った面持ちで私を出迎えてくれた。

 入り口の一番近くには緑のフェンスに囲まれたテニスコートが20面ほど並んでおり、フェンスに沿う形で設置されている暖色の光を放つ街灯が、テニスコートと公園の芝生の広場を分けるアスファルトの道を照らしていた。

 暖色の光を浴びながらテニスコートを横目に公園内を歩く。靴がアスファルトを踏みしめる音だけが静寂の公園内に響いたように聞こえる。

 風が吹き、芝生の広場に植えられた何本もの大きな木の葉が揺れ音を立てる。それに目をやると木の葉で夜空が見え隠れし、藍色の天井の下で体を揺らす大きな生き物のようにも見えた。

 吹き抜ける風がキャップと眼帯で隠されていない露わになっている私の顔を撫でる。

 軽い冷気の中に生温かさを感じたような気がした。しかしこの生温かさは本物ではなかった。懐かしい記憶を引き出した公園を肌で感じていた私が作り出した幻の風のような気がした。

 不思議と鼻腔に突き刺さらない冷気は、懐かしい記憶によって私の感覚が麻痺しているだけであって本来は見事に私の露わになっている部分の体温を奪っているに違いない。

 嗅覚は記憶を引き出しやすいと神田が言っていたのを思い出す。それは鼻がいい神田だけではなくて一般人でも同じだそうだ。匂いを感じる器官と記憶を司る器官は近いところにあるらしい。懐かしい匂いだなと感じることが多いのはそのためらしい。その理論でいうと私の懐かしい記憶が嗅覚を刺激し、実際の感覚を鈍らせているのかもしれないとふと思った。

 

 私が歩いた先にはあったのは、いくつかの遊具がある広場だった。

 先ほどの芝生の広場とは違い、砂が敷き詰められた大きめの広場には子供が遊ぶような大きめの遊具があった。車や飛行機を摸したオブジェや、砂の地面に埋められたいくつもの廃タイヤや、木で出来た滑り台と綱渡りの遊具が点在し、中でも一番目につくのは真っ赤な太いロープで組まれた東京タワーのような巨大な遊具だった。

 真ん中に5mほどの巨大な鉄のポールがそびえ立っており、そこから放射状に太い真っ赤なロープが組まれ、ロープだけで出来た三角のテントのようになっている。

 子供達はそれに登ったりくぐったりして遊ぶのだろう。私も兄とその遊具で遊んだ記憶があった。

 広場は砂で敷き詰められているため、足を踏み入れると足を取られる感覚があった。その感覚でさえも懐かしく感じた私は意味もなく感触を確かめるようにその場で足踏みをした。

 私は一番近くにあった真っ赤なロープに触れる。ロープには砂がついており、私の手にも砂をつけた。少し湿った砂は簡単には離れず、何度か両手を叩いて振り落とすことが出来た。

 真っ赤なロープは中央のポールから地面に向かって強力に張ってあり、簡単には緩むことはない。

 私は先ほど触れたロープを再度両手で掴み、足を乗せてみる。そのままバランスを保ち地面につけたもう片方の足もロープに乗せてみた。両手を離し、ロープの上で立った私は落ちたら湿った砂で洋服が汚れることは明らかであったため、バランスを保つことに全神経を集中させる。

 両手を広げロープの上に立った私は余裕がないはずであるにも関わらず、ふと視線を夜空に向けてしまった。

 するとそこには、小さな白い斑点を描いた藍色の衣は私に覆い被さってくるかのように広がっていた。

 それに目を奪わられていたその瞬間、私の体を風が通り過ぎロープの上の私を揺らす。あっ、と思った時には私は何も成す術もないまま砂の地面に落ちた。

 お尻からついた私の体はビーチで日焼けを楽しむ人のように、砂の広場でくつろぐ人のような格好をしていた。両手とお尻が痛いと感じたのは起き上がって砂を振り払っていた時だった。

 ジーンズのお尻の部分にはうっすら湿った跡があるのが分かる。やってしまったなと後悔した私だが、幸いにも今は夜であり、情けないお尻の尻もちの跡にも気付かないふりをしてくれる。

 夜の公園に不法侵入してまで何をやっているんだろうとふと思い、自分で自分を鼻で笑ってしまった。

 幼少期、ここで遊んでいた頃の記憶ではもっと身軽に動いていて、この真っ赤なロープで出来たテントを縦横無尽に駆け巡っていたと思う。今ではロープの上に乗ることすらできないのか。

 悲しくはないものの、ほんの少しの虚しさを感じた。

 しかしその虚しささえもすぐに忘れてしまい、砂の広場をうろつき、車のオブジェに跨った時にはすでに別の記憶が私の頭の中を流れていた。


 車のオブジェに乗り込んだものの、運転席に足がうまく収納されず、私の足は幼少期よりも長いことが証明できた。

 私がこの車のオブジェに乗り込んだのは、これが私専用の乗り物だったからだ。というのも家族でこの公園に出向き砂の広場で遊んでいる最中、兄は飛行機のオブジェを占領し、私を乗せてはくれなかった。そのため仕方なく私は隣にある車のオブジェに乗り込むことがほとんどだった。

 いつのまにか私の兄専用の飛行機への執着は薄れ、次第にこの車を愛車として好むようになっていった。

 年を重ねると兄とはこの公園に出向くこともなくなり、私一人で遊んでいることも増えた。その時に心のよりどころだったのはこの車のオブジェだった。

 隣の兄専用の飛行機のオブジェは空いていたが、私の愛車は決まっていた。兄と遊ばなくなった私は、一人でこの車のオブジェに乗り込み遊んでいた。遊んでいたというよりも過ごしていたと言った方が正しいのかも知れない。

 私のこの車の運転席に乗り込み色んな場所に行った。もちろん私の頭の空想の中で。

 色んな景色を想像し、色んな状況を想像した。

 時にはこの車はタイムマシンになったり、頑丈な戦車にもなったりした。私の想像力は今よりもずっと豊かだったように思う。

 今この車のオブジェに乗っていても見えるものは砂の広場と目の前にある体育館の入り口、そして頭上の藍色の空だけだった。

 あの頃は本当に様々な場所に行くことが出来た。この車に乗った時の高揚感は今では感じられないだろう。

 私が一人で空想にふけっていたのは、兄と遊べなくなったことで一人きりになった寂しさを紛らわすためじゃなかった。

 その寂しさよりも、空想の中で誰にも邪魔されずに新しい場所に行けることへの興奮が勝っていたと思う。それに何より私は一人じゃなかった。この車が一緒だった。

 流れる時間を逆らって移動する私を時間警察からを守ってくれたのは、対峙する無数の戦車の砲撃から私を守ってくれたのは、流線的な真っ白のボディのタイムマシンでも、いくつもの銃弾の跡が生々しく残っている暗緑色の洗車でもなく、紛れもなく今乗っているこの車だった。


 私は長年生死を共にしてきた相棒を労うかのように、黒い塗装が剥げアイボリー色の素体が剥き出しになった車体の側面に部分に触れる。

 こいつはいまだに、数々の子どもたちを各々の夢のある場所に連れて行ってくれているのだろうか。それとも逆に子どもたちのぶっ飛んだ空想に仕方なく付き合ってくれているのだろうか。

 私はもう空想の中で異星人やゾンビ達と戦うことは出来なくなってしまった。お前が私に付き合ってくれることも、私がお前を付き合わせることも、もう叶わない。

 車のオブジェから降りた私は、じゃあと挨拶をする代わりに塗装の剥げかかったボンネットを軽く小突いた。

 コンコンと、空っぽの車体に反響した懐かしい音は砂に吸収されるように姿を消した。愛車に別れを告げた私は体育館の入り口に向かう。

 体育館の入り口に置かれた自動販売機が閉園時間など気にしていないように光を放っていた。だれにも目に留まらないはずの自動販売機の明かりは暇を持て余した私を蛾のように引き寄せた。


 自動販売機に照らされた私は目の前で仁王立ちした。

 さて何を買おうか。私の目線は左下のコーヒー類を通り過ぎ、中段にあるジュース類をも通り過ぎ、上段にあるクリームソーダ味のジュースに留まった。

「クリーム、ソーダ」

 そう呟いた私の声は自分の耳に入り、舌まで向かいクリームソーダの味を舌の上で再現していた。気付いた時には私は自動販売機のボタンを押していた。

 自動販売機の口から勢いよく吐き出されたのはクリームソーダ味のジュースだった。

 混濁した黄緑色が自動販売機から吐き出された衝撃で撹拌される。それを手に取り自動販売機の明かりで照らしてみる。自動販売機には名称不明の小さな虫が飛び交っているのが分かる。

 撹拌が収まり泡立った「それ」を眺めている気分は悪い物ではなかった。自動販売機の隣にある街灯から何度も点滅している光が横目に入る。


 その時、誰もいないはずの夜の公園でノイズが聞こえたのは勘違いではなかった。

 私の後方、砂の広場に入る前の数mほど先にある木の陰からノイズが聞こえた。


 誰だ? 聞いた事のないノイズは確実に私に向かって放たれていた。

 ハウリングではないものの、閉園時間を過ぎたこの場所で他人の気配がすること自体怪しい。しかしそれは閉園時間の過ぎた公園に侵入している私も同様だった。

 もしかしたら警備員のような人間が見周っており、私を発見したのかもしれないという考えも隅に置く。

 私はパーカーのポケットにクリームソーダ味のジュースを入れた。重みで首元が下に引っ張られる不快感を隅っこに追いやる。

 私は自動販売機の後ろに周り、自動販売機の陰に身をひそめた。

 耳に集中する。

 ノイズは止むことなく、しかしハウリングに変化するでもなく一定の雑音を放ち、なおかつ私との一定の距離を保ったままでいた。


 今日は武器になりそうなものを持ち歩いていない。

 唯一望みが有るとするならばキーホルダーに付いた「スーパーカブ50」の鍵くらいなものだった。私はパーカーのポケットを弄りジュースの下敷きになっていた鍵を握り存在を確かめる。

 警備員か? それとも石橋組の残党か? まさか同業者ということはないだろう。

 しかしこういう時の予感は必ずと言っていいほど嫌な方に当たる。そしてそれは今日も同じだった。

 耳を通り過ぎるノイズの中で微かな金属音がした。

 それはおそらく拳銃の音だと私は確信する。拳銃が揺れた際に部品同士がぶつかる音は私の耳に馴染んでおりすぐに分かった。もちろん一般の警備員は拳銃なんて持っていない。石橋組の残党か、もしくは同業者だ。

 私はもう一度耳に集中する。

 私が隠れている場所から砂の広場を跨いだ数m先の何者かの心拍や呼吸音に耳を集中させる。しかし私の耳をアクリル板で塞いでるかのように音は聞こえるも輪郭がぼやけた音しか聞こえず詳細が分からない。


 しかし聞こえないということは情報が無いということでなかった。

 私には情報が聞き分けられないという情報が手に入った。それだけで十分だった。

 私の数m先でノイズを発している何者かは石橋組の残党では無い。間違いなく同業者だった。

 この距離で確かな心拍や呼吸音が聞こえないのは殺し屋か、もしくはごく稀に存在する気配の無い一般人くらいなものだ。後者の可能性は低いだろう。消去法からして殺し屋に違いない。

 自動販売機の裏で落胆する私の感情が藍色の衣に綺麗に包まれたように感じた。

 またか、と思う。なぜ久しぶりの休暇を楽しもうとする私をことごとく邪魔する者がいるのか不思議で仕方なかった。

 狙われてばかりの私は今、「3番」なのか「礼央」なのかどっちなのだろう。そんなことに意識を移していると、不安定なノイズが距離を縮めてきたことに気付く。

 私はパーカーのポケットにしまっていた「スーパーカブ50」の鍵を握り締める。その手のひらが汗ばんでいてポケットの中の湿度が増したように感じた。

 自動販売機の裏は風を防いでくれていたため余計な音はしない。アスファルトの地面は軽く湿っており、地面につけたお尻がじんわりと濡れるのを感じていた。

 私はその地面からお尻を上げる。またジーンに砂がついてしまっていたのに気付き、払った。不安定なノイズが砂の広場の遊具を背に身を隠しているのを、私の耳は把握していた。


 私は自動販売機の裏で何度か助走をつけジャンプする。そして自動販売機の頭を掴んだ私は両手の力で自分の体を引き上げる。自動販売機の上に膝を掛け、登った。

 自動販売機の上で膝立ちする私の体を、隣に見える街灯の点滅した光が照らす。

 街灯は呼吸しているかのように規則的な点滅をしたかと思えば、急に点滅の間隔を詰め呼吸を荒げた。まるで不整脈のようなテンポだなと思う。

 風が頬を撫で、髪がふわりとなびく。こんな時にぼんやりと街灯を眺めてしまったのは街灯の明かりがぼんやりと私を照らしたからだろうか。私は我に返り、目線を下に向ける。すると砂の広場にいる不安定なノイズの正体が目視できた。

 滑り台を背に身を隠している男性の姿と車のオブジェを背に身を隠している女性の姿が目に入る。その瞬間全身の毛が逆立った。

 唾を飲み込む音が頭の中で反響する。それに共鳴するかのように不安定なノイズは音量を上げた。怒りでもなく、恐れでもなく、焦りでも嫌気でもない感情が私の心に冷気を帯びさせる。いや、もしくはそのすべての感情が混ざり合い私の心が冷気を放つ。

 深呼吸をしようと思う前に私は大きく息を吸っていた。

 覚悟はできた。仕事の時間だ。

 さあ、私専用の車に軽々しく触れた罰を与えてやろうか。


 不安定なノイズがギアを上げたかのようにチューニングをずらし、二つのハウリングに変化した。

 それと同時に男性と女性の顔が自動販売機の上に膝立ちする私に向けられたのが分かる。痛みを感じるほどの視線が私に送られた。

 私は自動販売機から街灯のてっぺんへ飛び移る。それと同時に男性と女性がそれぞれ構えた拳銃が音をあげる。

 二つの発砲音は砂の広場に響き、藍色の衣はそれを受け付けず、異物と認識しているように感じられた。

 静寂が二つの発砲音によって射殺された。私の耳が喧騒の中に放り込まれたように感じる。先ほど聞こえた風の音や車のオブジェの素体に響く私が小突いた音が懐かしく感じた。

 街灯のてっぺんに飛び移った私を追尾する二つの銃口は再度衝撃を放つ。

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