第三章「額が広い傭兵」

20「スパイスカレー」

 軽い朝食を済ませた私は、自分の部屋のベッドに寝転がり、天井のくすんだ白色を眺めながらこれからどうしようかと考えていた。

 映画を見に行けば、また暴力団の組員に狙われてしまうのではないかという雀の涙ほどの心配が働き、私の選択肢から映画鑑賞が外れた。かといって家にいても何の面白みもなく、ただ無駄に時間を消費する未来の私が見え透いていた。


 毛先をいじりながら思ったのは、プリンになった私のショートボブを染め直すことだった。ついでに毛先も切ってもらおうと一瞬決意しかけたが、眼帯姿で美容院に行くことで悪目立ちしてしまうのではないかという考えが私の第一歩を阻んだ。

 美容院とはお洒落な人が行くところだ。本来、美容院の存在意義とは、お洒落じゃない人がお洒落になるために行く場所であるのではないかと思うが、実際のところは違う。

 お洒落な人がよりお洒落になるために、もしくはそのお洒落を維持するために行くところだ。さらに言えば「お洒落な美容院に難なく通っている私」を周囲に見せびらかしたいだけの人もいると思う。

 しかし、そんな非常に穿った考えを持ってしまう私だが、別に美容院に何か恨みや嫌な記憶があるわけでは無い。

 ただ単にそういった人達を羨ましがっているかもしれないし、憧れを孕んでいる可能性もある。そして私も最低限の美容にも努めなくてはいけないなという考えも持ち合わせている。

 私は礼奈のように美容に対して興味があるわけでは無い。しかし私は自分という人間が好きだし、自分の顔も嫌いでは無い。人によく見られることは嫌では無いし、何ならよく見られたい。しかし、それは自分の中の思いの範疇であってそれを無理やりにでも自分に言い聞かせる必要が無いなとも感じている。

 全員から好かれなくてもいいから、自分を好きになってくれる人を大切にしたほうがいいと誰かが言っていた記憶がある。もしかしたらドラマかなんかのセリフかもしれない。

 私もそう思う。しかし全員から好かれようと思うことは悪いことでは無い。

 逆に自分を好きになってくれる人だけを大切にすることは、その他の人を大切にしない要素も含んでいるわけであって、これから自分を好きになってくれる人を度外視しているのでは無いかとさえ思う。

 自分が綺麗になろうとすることを他人が批評することは、日本人ならではの感情なのかもしれない。そして私もその気質を持っているような気がする。

 私が美容院に行こうとする人達を稀有な目で見てしまう後ろめたい感情や、私自身がお洒落に取り組もうとしている前向きな感情など、美容院は私の様々な感情を誘発させるのが得意だ。その感情の右往左往がとにかく面倒で、美容院という存在が無くなってしまえばどんなに楽なのだろう、髪という概念がなければどんなに自由だろうとさえ思う。

 そういったしがらみにわざわざ自分から立ち向かわなくても良いのでは無いかと天井を眺めながら思い直した私は、結局美容院に行くことをやめた。

 殺し屋には心の余裕が必要だった。髪がプリンになったところで対象者が始末できないわけでは無い。仕事に支障が無ければそれでいい。

 自分にそう言い聞かせた私は、ただ単に美容院の予約が面倒くさいことを正当化したわけでは決して、決してなかった。


 余計な考えでカロリーを消費した私はちゃんとした昼食が食べたくなり、外食でもしようかと言う考えが頭を過ぎった。そして頭の中を通り過ぎるそれを手荒に捕まえ、手のひらでもぞもぞと蠢くそいつの向かう方向へ、逆らうことなく身を任せた。

 スウェットからいつものジーンズと白のパーカーに着替える。黒いキャップを持っていこうと思ったのは眼帯をつけた自分の顔が見え辛いようにするためだった。斜めにかけたウエストポーチにキャップのバンドを留める。

 ヘルメットを持ちながら、家を出て庭に停めてあった兄の「スーパーカブ50」に跨がる。暗い緑色とくすんだ白い車体は街中の色に溶け込むわけでもなく目立つわけでもなく、静かに息を潜めるような色をしている。ヘルメットを被ると左目の眼帯も相まって流石に視界が悪くなった。しかし見えないわけじゃない。大丈夫だろう。

 キーを指しスイッチを押すと小気味のいいパルス音が流れる。わざとアクセルを吹かし排気音と吸気音を耳で感じる。

 玩具のような印象を受ける「スーパーカブ50」だが、だからこそ彼の音を聞いていても疲れないし、何度も聞きたくなる。

 ペダルを踏みギアをローにいれる。アクセルを捻りすぐにセカンドに踏み込んだ。後ろから押されるでもなく前に引っ張られるわけでもなく私の体は彼の動きに合わせゆっくりと進んだ。

 手のひらでもぞもぞと蠢く私の考えは、玩具のようにチープでシンプルなバイクの姿に変わっていた。


 家の前の道路に出ると透き通るような青さの空はどこまでも続いていた。

 真っ白な雲が大小揺れているように見える。

 あまりの心地よい空を見ていると、もしかしたら実はこの世は逆さまになっていて、世界の中心にある空が暮らす美しい場所を汚さないように、わざわざ私達が、空から一番遠い場所である天井で肩身狭く暮らしているのではないかと思うほどであった。


 平日の昼間だというのに私の家から大型ショッピングモールに向かう大通りは、血管を流れる血液のように何台もの車を運ぶ。

 まるで赤いテールランプが赤血球のようだなと思う。この車両達が酸素を運び、社会という心臓を動かしていると考えると1台くらい消えてもなんの支障も無いのではないかとふと思った。

 途中、流れが滞る箇所もあり、時間がもったいないと感じた私は車の横を走り抜ける。

 通りすぎる車の列を横目に、軽快な気分で渋滞している大通りから脇道に抜ける。

 住宅街を抜け、いくつかの信号機を過ぎショッピングモールまで大回りした。ショッピングモールに到着し、駐輪場にバイクを停める。

 ヘルメットを脱ごうとすると左目の眼帯も一緒に外れそうになった。そしてハンドルミラーにはぺったんこになったショートボブの私が見えた。頭頂部の黒い部分は依然、綺麗に染まった私の金髪の領域を侵食していた。

 染め直さなくてはいけないなという、鬱陶しさを振り払うように私は頭を掻いた。荷台のリアボックスにヘルメットとグローブをしまう。私はウエストポーチに吊るしていたキャップを被り、ショッピングモールへ向かった。


 平日の昼間のショッピングモールは意外と混んでいた。

 特にベビーカーを押した数名の母親の団体と何度かすれ違う。ベビーカーに乗せられた子どもは真横を通り過ぎる景色を掴むかのように両手をいっぱいに伸ばしてしきりに手を動かしていた。

 子どもは言葉にならない声を発する。しかし、それは言葉を知っている私達大人からすれば「言葉にならない声」と認識しているだけであって、もしかしたら本当は子ども達が発する言葉になっていない声の方が、本来の生き物の発声としては正しいのかもしれない。

 いつからか私達大人は、他人が共有しやすいようにと決められた言葉を覚えそれを駆使している。

 それをうまく駆使出来ているか、出来ていないかでその人の能力が決まるような風潮があるのは社会が言葉を重要視してきたからだ。しかしそれは、上手に他人が共有しやすい言葉を駆使出来るからであって、本来の自分の感情を表現し発声したということにはならないのではないかと私は思う。人一倍耳の良い私の自分の声の振動と自分の感情の波がピッタリ一致した記憶など無いに等しい。

 言葉になっていない子どもの声の方が本人の感情や主張の純度は非常に高い。だからその声に棘を感じないし、悪意を感じず嫌な気分にならない。子どもの声を聴くと私はいつもそう感じていた。

 ベビーカーに乗った子どもの姿を見ていると不思議と穏やかな気持ちになるのは私が女だからだろうか。もしくは日頃「死」をパーカーのポケットに入れて生きているような私が、この活発に生きようとしている生命力の塊に触れ、許容範囲を越えてしまうほどの「生」に触れたからだろうか。

 どちらにせよ、私の敏感なはずの耳に子どもの声は苦痛ではなかった。


 ショッピングモール内のレストラン街に足を踏み入れる。女性一人が立ち入るには非常に困難な焼肉屋や、ビュッフェ形式の洋食屋を通り過ぎ、入口の小さなスパイスカレーの店に立ち入る。

 中からはあからさまな中東アジア圏風の内装が目につく。

 私を出迎えてくれたのはインド人の中年男性ではなく、20代後半の女性だった。「いらっしゃいませ」と私に作り笑顔をこぼす。

 店内には女性客のみしか来店していないようで、その内3人が私と同様に、所謂いわゆる「おひとりさま」だった。

 スパイスカレーが独身OLに人気だと昨日の夕方の情報番組で見た。スパイスカレーが人気なのは分かるが、スパイスカレーの人気がOL限定だという明確な理由は番組では取り扱っておらず、さらには番組の最後になってもスパイスカレーの人気が独身限定である理由も定かではなかった。

 スパイスが体にいいから、健康趣向の女性に人気だとか大体の理由は想像つくが、この番組が主張するスパイスカレーが独身に人気な理由はきっと調査している店が家族連れで来店しにくい場所だからではないか、と番組を眺めていて思った。

 とにかくスパイスカレーが人気なことと、私が今日スパイスカレーを食べに来たことはなんら関係が無かったし、昨日の夕方の情報番組を見たからでも決して、決してなかった。

 

 食事を済ませた私はショッピングモールの中の雑貨屋を冷やかし、ショッピングモール内に併設されているスーパーでペットボトルの紅茶を購入した。

 駐輪場に向かっている間、眼帯をつけ、黒のキャップを深く被った不審者のような格好をした女性とすれ違う人達は思ったよりも振り返らないものなのかと初めて知った。

 私の自意識が過剰だったのか、他人のことなんて眼中に無いこの世の中が異常なのか、どちらにせよ、他人に見られないようにと選んだ黒のキャップだったが、それはある程度他人の好奇の目にさらされること前提で選んだのであって、こうも誰からも好奇の目をさらされないと私は本当にこの世に存在しているのかと不安になる。「3番」としては喜ばしいことだが、「礼央」としては複雑な思いだった。


 駐輪場に戻り「スーパーカブ50」に跨った私は、散歩がてらショッピングモールから家までの道のりを大幅に遠回りすることにした。

 日が傾き、徐々に街中が暗闇に飲まれていくのを感じながら私はバイクを走らせていた。どうせ帰ったところで何をするわけでもないし、左目が今すぐに治るわけでもない。

 私の左目の眼帯と暗くなった街中の相性は最悪だったが、見えないほどじゃない。私はヘルメットのシールドを上げ、通行している街中を見渡した。

 このまま夕食も済ませてしまおうかと思ったが、遅めのスパイスカレーのせいでまだ腹の虫は声を上げてはいない。

 なにしろ人通りが少なくなってきた夜の街中を走るのは気分がいい。周りの信号や街灯、車のテールランプやコンビニの明かりが当たり前のように流れ、姿を隠した自分をいい意味で無視してくれて、ありのまま受け入れてくれてくれているように感じる。

 そんな妙な安心感と夜道を探索している高揚感に包まれ、気が付くと家の最寄駅から随分遠く離れた地区に来ていた。

 信号で停車した私は辺りを見渡す。

「……どこ?」

 ふと呟いた私の言葉は、兄の「スーパーカブ50」に向けて放ったものだった。

 もちろん答えてもくれなかったが、相変わらず彼の目は真っ直ぐ輝いていた。

 信号を過ぎたところにあるコンビニに立ち寄る。スマホを取り出した私はいつもお世話になっているグーグルのマップを開いた。そこで初めて自分のいた場所は実家の最寄駅から5駅も離れた場所だと認識した。


 グーグルマップを見ながら、消えかかっている幼少期の記憶を掘り出すと、何度かこの地区には来たことがあったと思い出した。しかし断片的にしか覚えておらず、幼少期に何の目的でここに来たのか、誰と来たのかは思い出せなかった。だが結果的にどうやって家に帰るかはスマホが教えてくれた。

 家に帰るルートをなぞっている途中で記憶の断片が唸りを上げた。

「──ここは」

 そこは昔家族で出かけた事のある公園だった。

 公園と言っても小さい物ではなくて、体育館や室内プールが設置されており、テニスコートや野球場といった施設も併設され、大きな運動公園といったところだろうか。

 無駄に広い広場があって、昔そこでバドミントンやキャッチボールなんかをした記憶があった。

「こんなとこにあったのか」

 今まで何度か家族とそのようにして過ごした記憶があったが、場所がどこだったかと思い出せずにいた。しかし、散歩がてらのツーリングで見事発見することが出来た。

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