19「納豆ご飯」

 伯父さんから渡された手紙には「10番が狙っている。イヌに任せた」と筆で書かれていた。

 私には何が何だか分からなかったが、おそらく「イヌ」というのは神田のことだろう。

 鼻がいい神田は数名の殺し屋からは「いぬ」と呼ばれて恐れられている。鼻がいいという特徴と社長に従順なところからそう名付けられたとシンが言っていた。

 殺し屋の世界では「狗」といえば神田のことに違いなかった。

 しかし、それにしても伯父さんが「無駄ちゃん」と呼んだ、あのスタイルの良い配達員から渡された手紙の内容をあっさりと教えてくれるとは思わなかった。渡された時にすぐ見せてくれればいいのにと私は思ったがそれは口にしなかった。

 私は手にしていた一枚の手紙を病室のベッドにまたぐように付けられたサイドテーブルに置いた。

「つまり、どういうこと?」

 顔を上げた私の目が伯父さんの目と合うが、左目の眼帯のせいでピントが合うまで時間がかかった。

「まぁ、だから要するに神田は俺たちの行動を知っていたってことだ」

 話の点と点が繋がらない私は首を傾げる。

「10番って人があの神田さんの弟ってこと?」

私の質問を聞いた伯父さんは視線を左上を見て考えた。

「えーっと……。あの男は神田の弟だが10番じゃない。10番は別にいる」

「じゃあ神田さんはなんで自分の弟と戦ってたの?」

「弟は『G.O.』の人間じゃない。『働こGO』の人間だ。今は副社長の秘書をやっている」

「副社長?」

 私が伯父さんに尋ねた時に、病室に中高年の女性看護師が入ってきた。

「あれ? また来たの?」と言った看護師は検温や傷の処置をしてくれた。すっかり顔なじみになってしまったらしい。検温や処置が終わり小さく会釈すると看護師は笑顔で返してくれた。

「俺も会ったことはない。けど、最近力をつけてきたって神田から聞いたことがある。それに副社長が力をつけてきたって噂がたつようになったのは、神田の弟が副社長の秘書になってからなんだと。──つまり副社長の力っていうのは秘書の神田の弟が大半を占めてるってことだな」

 私は言葉を発さずに何度か頷く。

「で、なんで対象者が神田さんって言わなかったの?」

 私は棘を多く含ませ伯父さんに言った。伯父さんが肩をすくめる。

「いや、それは……。サプライズってやつだよ」

 目を泳がせる伯父さんの言葉からは反省の文字が見えなかった。それは私が左目に眼帯をしており見え辛かったからではない。

「伯父さんがいつも言う、そんときはそんときって、言ってる意味は分かるけどさぁ、そんときになる前に分かってることがあるなら言って欲しいんですが」

 言葉の弾丸を強く放つように伯父さんに向け、私は自分の口の奥にあるであろう引き金を引いた。

「悪かったよ。あ、そろそろ時間だから。じゃあ俺は神田から話聞いてくるわ」

 早口で答えた伯父さんは私が動けないことをいいことに、私に放った弾丸と同じ速度で足早に去っていった。私は廊下に見える後ろ姿を凝視していたが、伯父さんは振り返ることなく病室から退散した。

 結局、質問は中途半端なまま終わってしまった。

 私は依頼主が誰だったのか、依頼が失敗したことで私達に何らかの損害があるのかを聞きたかったが、伯父さんはすでに軽トラを走らせ「G.O.」に向かっているところだろう。


 私が依頼を失敗したのはこれが初めてだ。というよりも依頼の対象者を狙う別の人間が現れ、「G.O.」のトップ達が一同にかいすなんていうイレギュラーなことが起こること自体、初めてだった。

 なぜあんなことになってしまったのだろうか。事の発端は神田の始末を受けたからだ。

 そもそも神田を始末しようとし、私に依頼してきたのは誰だったのだろうか。そして手紙にあった10番という人間は誰なのだろうか。

 なんにせよ、何の目的があるのか分からないが神田を始末しようとしている人間がいるのは確実だ。そいつは、神田の言っていた「私を狙っている人間」と何か関わりがあるのだろうか。

 考えたところで疑問は解決せずに頭の中をぐるぐるとまわっているだけで、気付けば病室の窓から見える青い空が光を弱め黒に染まっていった。


 数日前の神田の依頼を失敗してしまった私だったが、後悔や落胆を感じる暇もなく余計な疑問符ばかりが次々と浮かんでくるのは鬱陶しかった。こんなにも依頼を失敗した自分を責める思いが芽生えないのは、詳細不明だった対象者が神田であったことや、謎の男やシン、1番が乱入してきたせいで私自身が鳩が豆鉄砲を食らったような気分になっているせいだからだろう。

 私の初めての依頼失敗は白にも黒にもならず、グレーのまま終わってしまった。だが、幸いにも依頼が失敗しても私の命があるだけで奇跡的なことだった。さらに、あの神田を相手にしたのにも関わらず、私と神田の両方が生存していることは天文学的な確率の奇跡だった。天文学がどのような学問であるか学んだことが無いし、言葉的にもあっているか分からないが、今私はこの病室で心拍音を発せられていることに感謝するだけだ。

 

 退院してからも左眼の眼帯はしばらくつけておくようにと中年の女性看護師から忠告をうけた。視界の左側が狭まっていることは不便だったが、物珍しさもあり不快ではなかった。

 佐藤家に帰った私は、あれだけこの家に帰りたいと思っていたにも関わらず、退院し、玄関を開けた瞬間に私は「礼央」に戻れたようで、それ以降は「3番」だの「礼央」だの考えることも忘れ「礼央」として過ごすことが出来ていた。


 礼奈からは、左眼の眼帯について「かっこいいじゃん」とからかわれただけで、母からも同様に「それ、髪型と似合ってるわね」と言われただけだった。

 ここ数日間、二度も家を数日間離れ、傷を負って帰ってきた私を見ても、案外誰も心配して無い様子だったため、私の心の内は安心半分と不満半分だった。

 その夜、いつの間にか帰宅していた兄が私の部屋をノックした。

 また晩酌につき合わさせるのを確信していた私は兄のノックを一度無視したが、兄の方がしぶとかった。もう一度強めにノックをしてくる。

「おい、礼央。いるんだろ? 開けろよ」

 数日ぶりに聞いた兄の声はやけに間延びしており、一声聞いただけで酔っぱらっていると分かった。

 しかたなく扉を数cmだけ開け、扉の前の兄の姿を覗く。そこには神田でなくても分かるほど廊下に酒の匂いを充満させており、昆布のようにくたくたになった兄の姿があった。

「もう出来上がってるじゃん……」

 そう呟いたが兄の耳には届いていないようだった。

「礼央。久しぶりだな。また傷だらけじゃねぇか」

 廊下に酒の匂いを充満させた元凶である兄の口臭に鼻をつまむ。

「おっ、眼帯してんのか。殺し屋みたいでかっこいいな」

 兄の言葉はかろうじて聞こえる程度の呂律で私に話しかける。

 兄の指摘は鋭かったが、殺し屋という単語に反応しなかったのは、私がもう「礼央」としてここで生きられている証拠だろうか。そのまま兄の言葉を聞き流した。

「何? 晩酌はもう十分でしょ?」

「ん? 全然。まだまだ行けるから。……でも別にお前を誘いに来たわけじゃない。帰ってきたっていうから、そのだらしない妹の面を拝みに来たんだよ」

 きっと「だらしない妹の面」の、「だらしない」の部分は気恥ずかしくて思いつきのまま付けたのだろう。

「──普通に、私に会いたかったって素直に言えばいいのに」

 兄は本当に聞こえていないのか、聞こえていないふりをしたのか分からないが、私の言葉に何も返さずに「じゃあな」とだけ言い自分の部屋に戻っていった。


 私はふと、先日の沢庵の話を兄は覚えているのだろうかと気になった。

 いや、きっと覚えてはいないだろう。一方で私はここ数日間、何度も兄の沢庵の話しを思い返すことがあった。それは不安定な私の存在の中で、「礼央」の兄の足跡が残されているように確実に深く記してあった記憶だった。なんだ、ちゃんと「礼央」の証拠があったじゃないかと私は今気付く。

 そう思いながら扉を閉める瞬間に小さく深呼吸すると、舞い込んできた酒の匂いでいっぱいの廊下の空気を吸ってしまった。いつもなら兄のことを罵倒してやりたい気持ちでいっぱいになるはずなのだが、今回に関しては許してやろうと心の中で呟いた。


 目が覚めると私の左目の眼帯は外れていることがほとんどだった。

 きっと寝ている間に鬱陶しくて外してしまっているのだろう。朝起きてそのまま鏡を見に洗面台まで向かうと、そこに写ったのは、右瞼が紫に変色し腫れている23歳女性の姿だった。

 その女性の姿を見て初めて自分が鏡の前に立っており、その鏡に反転して写った左瞼が紫に腫れている自分の姿を見て驚愕していたと気が付く。

 それから私は部屋に戻り自ら外してしまった眼帯を探し左眼に付けるも、いまだ慣れないその作業に戸惑うこともしばしばあった。

 瞼の腫れは徐々に落ち着いてきたがまだ左側の視界の3割程度は見え辛い。そして眼帯をしている最中は蒸れて痒くなる。とても不便で仕方ない。失明しなかっただけ、まだマシだと私は自分に言い聞かせた。

 左目の視力が戻るまでは仕事は出来ないな、と伯父さんに言われた。さらに伯父さんは「しばしの休暇を楽しめ」と呑気に言っていたが、神田の件はどうなったのだろうか。

 神田の始末が出来なかったことは紛れもない事実だ。しかも、私が狙っていたと神田に勘付かれてしまった。

「G.O.」を敵に回したとも取れる行動をしたのに、伯父さんが何も言ってこないのを私は不思議に思っていた。しかし私が退院してからというものの、伯父さんが直接私に会いに来ることは一度しか無かった。

 仕事が休みになったせいなのか、伯父さんが来る頻度が少ないせいなのか、徐々に私の中の「礼央」はぼんやりとして輪郭を何度もなぞるように色濃く描いていった。


 リビングに降りると祖母が一人で朝食を摂っていた。

 食卓には茶碗に白米を盛られており、納豆といくつかの漬物が並んであった。まだ時計の針は6時を指し始めたばかりだった。

 祖母はいつもこの時間に一人で朝食を食べていたのだろうか。いつもこんな時間に起きてくることがない私は祖母がいつ朝食を摂っているのか気にしたことがなく、それをちゃんと意識したのはこれが初めてだった。変な時間に目が覚めてしまったことで私の世界は少し広がった気がした。

 納豆を混ぜながら私を見つけた祖母は「おはよう」と小さく挨拶をした。

「おはよう」と私も小さく返す。

「早いんだね。目はどう?」

「うん、まぁまぁ」

「そう」

 祖母はそれ以降なにも聞かず、黙々と納豆ご飯を口に運んでいた。

 細身で白髪にしっかりパーマが当ててあり、つぶらな瞳が印象的な祖母の顔は、昔だったらモデルでもやっていたのではないかと言う面影を感じる。それに所作が凛としている。背筋もまっすぐであるし、何より曲がったことが大嫌いな性格だった。普段から膝が痛いとか、腰が痛いという話をすることもなく、足取りはいつも軽やかだった。

 私は茶碗にシリアルと牛乳を入れ、祖母の目の前の席に着いた。

「ねぇ、おばあちゃんって昔何かやってたの?」

「何かって?」

「何か、スポーツとかさ」

「いいや。普通に生きていただけだよ」

 そっけないように感じた祖母の言葉だったが、私の勘違いだったのだろうか。

 私が顔を上げると味噌汁をすすった祖母の目はほんの少し微笑んでいるように見えた。私は、祖母が私の知っている祖母になるまでを知りたくなった。あいにく黄色い沢庵は食卓に置いてはいなかった。

「おじいちゃんは会社を作ったんでしょ? その間はずっと主婦やってお父さん達を育ててたってことじゃん? その前は何やってたの?」

 私と目線が合わないのはいつものことだった。家族は家族同士で目を合わさないなと感じているのは私だけなのだろうか。会話は常に食事など何かしながら交わしている。

 互いに目を合わせることもないし、目を合わしたところで何があるわけでもない。だから不思議と自然に目があった時に居心地の悪さを感じる。この時も祖母と目が合った私は視線を逸らしてしまった。

「その前は便利屋ってやつをやってたね」

「便利屋? 何、便利屋って?」

「便利屋よ。知らないのかい?」

「いや、それは知ってるけど。便利屋って何すんの?」

「色々。本当に色々。依頼されれば何でもしたよ」

 そうなのか。便利屋をやってたとは知らなかった。

 そんな曖昧な職業が成り立つのかと疑問に感じたが、戦後の時代にはそういう曖昧な仕事が重宝されたのだろうか。そう思う私も、殺し屋と言う曖昧な仕事をしているんだとこの時は気付きもしなかった。

「本当に色んなことをやったね。人探しとか、掃除とか、あとは得体の知れない廃棄物の処置、何ていうものもあったよ。今考えるとゾッとするけどね」

「得体の知れない廃棄物って……」

 いくら戦後であってもそれは稀なことなんじゃないかと思いながら、祖母がSF映画のように防護服を着ながらエイリアンの卵を回収している光景を思い浮かべる。

「大体そういう依頼は暴力団とか、どこの国の軍人だかわからない外国人からがほとんどだったんだよ。そういう時代だったからね」

 微笑みながら話す祖母の目の前で私は「あぁ、そっちだったか」と思いながら、祖母が古びた工場で、大きめの麻袋に入った人間大のもぞもぞ動く荷物を引きずっている光景を思い浮かべる。

 何だかやっていることは私と伯父さんの仕事と何ら変わりないように思え、やっぱり家族なんだなと思った。しかしそれらは全て私の脳内で構築された若き日の祖母だったとふと思い出し、ここ数秒間の自分の頭の中のディスプレイに映ったイメージを、キーボードの一番右上を押して消去していった。

 それにしても「そういう時代だったからね」というたった一言で、現代であれば完全に違法な事案だったり、不道徳で非難轟々な行為をあっさり受け入れてしまうのはなぜだろうか。もし私達が一昔前にタイムスリップしたら、現代の私達の方が生きづらいのかもなと私はぼんやり考えてしまった。

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