16「酸素」

 左太ももを撃たれた私よりも神田の右腕と両足の負傷の方がひどいにも関わらず、神田の動きは鈍さを見せなかった。

 私が必死で立ち上がるのを見守るかのように神田は穏やかな表情を見せていた。駅構内を吹き抜ける風が私の背中を包む。その風が神田の前髪をなびかす。

 数日前の生温かい風はどこに行ってしまったのか、冷気に包まれた私の体は自分の意志とは無関係に身震いした。

「寒いよな、女の子がこんなところにいたら風邪引いちまうよ。早く終わらせようや」

 なぜ女の子だけが寒いところにいると風邪を引いてしまうのか、私には見当がつかないが、あの世代の人間には常識なのだろう。

 私にはそんなことを考えている余裕は無いのだが、神田にとっては早く終わらせられるほど簡単な仕事らしい。左太ももからの出血は私の黒のチノパンに滲み、くるぶしまで伝ってくる。靴にポタポタと血液が垂れた。その音に耳を貸してると、神田の後ろから何かが突進してくる音が耳に入った。


 神田はそれを軽々と避けた。

 私の目の前に滑り込んできたのは謎の男だった。彼の左脇腹には神田のナイフが刺さったままであり、さらに背中や左腕、左脇腹などの体の至る所から出血が見られ、まだ心拍と呼吸音が聞こえること自体が不思議に思えるほどだった。

 私は初めてちゃんと謎の男の顔を見た。うずくまる目の前の黒のスーツを着た謎の男は180cmほどの大柄でやや筋肉質の体格をしており、黒いミディアムショートほどの長さの髪は少しウェーブしていることが分かる。そんな大男が急に私の目の前に現れた。

 見覚えがあるような気がしたのは彼の顔を見たからだけではなく、彼の音が近くで聞こえたからだ。誰かに似ている音がする。心拍や呼吸音、殺気だけでなく彼の体から発せられる音は私の知っている誰かに似ていた。


 大抵、音が似ている人間は親子か兄弟、長年連れ添った夫婦くらいなものだ。この謎の男も私の知っている誰かの家族なのだろうか。

 懐かしいような音を聞き、誰と似ているかを記憶の引き出しから探そうとしたが見つからなかった。なぜならば、謎の男はその場で神田の方を向き起き上がり、またも間合いを取り戦闘準備を始めたからだ。


 私は彼の隣についた。こうなったらこの人物が誰の家族であっても敵か味方かが分からなくてもなんでもいい。目の前の神田を始末したい目的が合っていれば、今は彼もれっきとした私の武器になり得る。私は荒い彼の呼吸のリズムに自分の呼吸を無理やり合わせた。

 並ぶ私達を見た神田は眉をハの字にしたが、すぐに覚悟を決めたかのように口角を上げた。

「なるほどな」

 何かに納得した神田は銃を左手で持ちながら、またも別のナイフを腰から取り出した。

「一体いくつ持ってんの」

 呟く私を謎の男は一瞥した。

 私は隣の彼が大きく息を吸う音を待っていた。それまでは彼の呼吸音に合わせ私も息を合わせる。呼吸するたびに左太ももの痛みが顔を出す。しかし痛みには慣れている。我慢は出来た。そしてそれが来た。

 隣の謎の男が大きく息を吸った。それに合わせ私も息を大きく吸う。その瞬間、謎の男は走り出す。私もアイスピックを握りながら神田に迫った。


 神田はその場でナイフを逆手で構えた。

 中腰になった神田の両足めがけ謎の男は引っ掻くように左手を大きく振り被る。その姿はまるで大きな熊のように見えた。

 その姿を見ていた私は倒立回転をして宙に舞い、全身を回転させながら神田の左側から背中に向けて飛び込む。全身の勢いと力を、アイスピックを持つ左腕に集中させる。瓦割りをするように神田の背中めがけて左腕を叩きつける。

 神田はその場で飛び上がり、謎の男の左側頭部を横から蹴る。

 謎の男の左手は空を切った。宙で蹴りを入れた神田はその勢いを保ったまま上半身を左に回転させ体を向ける。

 神田の目の前には左手でアイスピックを叩き落そうとしている私の姿があった。

 神田の背中を捉えていたはずの私の目線が神田の目線とぶつかる。しかし構わず私は左腕を叩き落とす。神田も勢いを殺さずに手に持ったナイフを私に向けて振りかぶる。

 私の左腕と神田の右腕が交差するようにぶつかる。

 骨と骨がぶつかるような鈍い音が全身に響いた。おそらく神田も同様だ。

 跳ね返された二人の両腕は衝撃を吸収できずに互いの体の外へと反発した。その衝撃は私の体をも跳ね返し、私は駅構内の改札口側へと飛ばされる。

 空中で仰け反りながら飛ばされる私に向けて、その場で衝撃に耐えた神田が持った左手の銃が火を吹く。

 駅構内に響いた発砲音と共に私の左腹部に衝撃が走る。

 私は地面に叩きつけられた。その痛みを感じてから左腹部の傷から何か液体が漏れていることに気付き、そのべっとりとした液体に手をやり触れる。痛みはそれからやってきた。


 神田はその場を未だに微動だにせず、痺れを振り払うかのように自分の右腕を何回か振っていた。

 私の黒のパーカーの左腕部分には、噛みつかれた際に出来た神田の傷からの出血がこびりついていた。あれだけの傷を負ってもまだ倒れる気配のない神田を相手にしていると自分の方が痛みに耐えられないだけなのかと錯覚してしまう。

 私が飛ばされた場所はまだ狙撃手から狙われない位置だったのは不幸中の幸いだった。


 すると、神田の背後から、謎の男が組みつく。

 羽交い締めにされた神田は謎の男を剥がそうともがく。しかし謎の男は神田に体を密着させ離さない。

 神田の手から銃が離れ、床に落ちた銃が鈍い金属音を立てる。

 彼の目線が私に向けられた。目と目が合い「今だ」と言わんばかりの彼の表情を感じ取る。

 私は唾を飲み込み、起き上がる。

 羽交い締めにされている神田に向かってアイスピックを両手で握り込み、腰の位置で構え、そのまま走る。このまま神田の腹部にこのアイスピックを突き刺せば始末できる。

 思わぬ好機を感じ取ってから不思議と足が上手く動かなくなるのを感じた。夢があと一歩手前にある時の武者震いだろうか。しかし、私はなりふり構わず一目散に神田に突進する。

 動き辛い足を「死ぬ気で動かせ」と心の中で体に言い聞かせる。

 なんとか言うことを聞いてくれた私の体は神田に迫っていく。あと数mほどでアイスピックが神田に届く。私は目を瞑ってアイスピックを突き出した。

 しかし、神田の腹部には届かなかった。正確に言うと私の握っていたアイスピックは両手ごと神田の体の外へと弾かれた。


 目を開いた時には私の両手は空を刺していた。

 さらに私の両手の手首付近には手首に対して垂直に、刃物でつけられてような傷がそれぞれついていた。何が起こったか分からなかったが、目の前の神田が私の左太ももを狙って蹴りを入れてきた。

 その衝撃でまたも左に飛ばされる。地面に顔を擦るかのように私は倒れた。同時に手からアイスピックが離れる。


 地面に顔をつけながら神田の方を見ると羽交い締めにされていた神田の両手にナイフがそれぞれ持たれていた。

 左手に持っていたナイフからは血液が垂れている。

 おそらく神田は私が迫ってくる時に謎の男の左脇腹に刺さったナイフを抜き、両手で持ったナイフを交差するように前に出し、交差したナイフで私が突き出したアイスピックを払いながら私の両手を切りつけたのだ。

 手首からの出血が止まらない。痛みはそれほどだったが、神田を始末できるチャンスを逃してしまったことに落胆する。

 神田は謎の男に羽交い締めにされたままだったが、両手のナイフを逆手で持ち替え、背後の謎の男の両脇腹にそれを突き刺した。

「──うっ」

 謎の男の呻き声が静寂の駅構内に響く。

 初めてこの距離で聞いた彼の声は倍音を多く含んだ低音であり少し掠れていた。そしてその声を聞いて初めて、彼の声がことに気が付く。

 さらに記憶は辿られ、彼から発せられる音の既視感の正体は普段の神田のものとよく似ていることにも気付いた。

 仕事をしている時の神田は音を全く発さない。と言うよりもその音が私に聞こえることがない。

 どうやって行っているのか分からないが、耳のいい私を相手にする時のためだけに編み出した技だと昔、話していた。だから神田の相手は嫌なのだ。


 話は逸れたが、つまり私が謎の男の音が神田の音に似ていることに気付けなかったのは、音を発しない仕事モードの神田を相手にしていたからだった。

 普段の神田の音が頭から抜けていた。しかし、おかげで謎の男の正体が見えてきた。

 彼は神田の家族であり、おそらく兄弟だろうということ。

 なぜ神田と戦っているのか、なぜ「G.O.」に所属していないのか不明だが、彼が神田の家族であっても今現時点で私の味方であることは確実だった。


 謎の男が両脇腹を刺されたことにより脱力した隙を神田は逃さない。

 神田は両手で羽交い締めをしている謎の男の両腕を払いのける。そして体の向きを変え謎の男の腹部を前蹴りした。

 蹴りを食らった謎の男は後ろへ飛ばされる。

 腹部を押さえ前かがみになる謎の男が口から何かを手にするのが見えた。またあの時の投擲をするつもりだ。

 私は地面に倒れたまま飛ばされたアイスピックを取ろうとするが、距離が遠く掴めない。かと言って体中の痛みが治まっておらず、起き上がることも難しい。

 神田の兄弟である謎の男は二の矢を放とうとしている。私も加勢しなくては神田を始末出来ない。

 動け、動け、動け。

 頭の中で唱えるも体と心はついていかない。

 動け、動け、動け、動け。

 神田を始末できる最大のチャンスを逃した時から、私は酸素が薄くなっているように感じていた。

 上手く呼吸が出来ない。体の痛みよりも、神田を始末できず、神田に殺される恐怖が空気と混ざり合って私の身体に重苦しくまとわりつくのが厄介だった。息をしなくては。そう思うほどに呼吸のやり方がどんどん分からなくなってくる。

「苦しい」「体中が痛い」「苦しい」「神田に殺される」「苦しい」頭の中で浮かんだことはそれだけだった。それを永遠とループしている。

「動かさなくては」そう思うことが出来たが、右手を最大限に伸ばすもアイスピックには届かない。体ごとアイスピックに近付けるために地面を這おうとする。しかし、なんとしても体は微動だにせず、タイル状の冷気を帯びた地面に私の左太ももと左腹部、両手首から滴り落ちた血液が流れるだけだった。


 地面に這いつくばる私の姿は神田の目にはどう映るのだろうか。

 神田に視線をやると同じくこちらに視線をやる神田の黒目に、地面で匍匐前進するような格好でいる呑気な私と目があった。

 なんで、こいつはこんな状況で何を遊んでいるんだ? 私は神田の目の中の私にそう思った。

 そう思った瞬間からふざけているように見えたそいつに腹が立ってきた。ということはつまり、私の腹からは出血が止まらず黒のパーカーのポケット部分を血液でひたひたにしているが、まだ腹を立たせることは出来るみたいだった。

 ふと思う。そうか、まだ私は腹を立たせることが出来るのか。まだ私は何かをする力が残っているのか。まだ私には出来ることがあるのか。不思議とそう思えた。

 神田の目の中の私に微笑みを贈る。

 すると苦しかった呼吸が少しずつ楽になっていくのを感じた。身体にまとわりつく空気と恐怖は徐々に濃度を下げ、次第に窒素と酸素と二酸化炭素に変わっていった。

 両手を握ることが出来る。両足を動かすことが出来る。歯を食いしばって体を這いずることが出来る。

 何よりもまだ腹を立たせることが出来る。


 私が伸ばした手の指にアイスピックが触れる。まだ大丈夫。まだ大丈夫。

 声にならない呻き声を上げながらアイスピックを握る。その姿を神田は黙って傍観しているだけだった。

 右膝を曲げ、右肘を地面に付け、右手で体を支える。左肘を地面に付け、左手の平で地面を掴む。両腕で体を支え、上半身を押し上げる。痛みは増すが気に止めない。左脚を曲げ、つま先で地面を掴む。クラウチングスタートのような姿勢から、私はまさにスタートした。

 地面を蹴り上げ神田に突進する。

 つま先でタイル状の冷え切った地面をしっかり捉える。走り出した私は何も考えていなかった。手に持ったアイスピックをどのように神田に刺すのか、どうやって神田の懐に入るのか、そんなことは後回しだった。今は何も考えずに足を動かす、地面を蹴り上げることで頭がいっぱいだった。

 謎の男は、私が走り出したことに気付いたようだ。彼は私の動きに合わせ、手に取った何かを神田に投げる。

 直線を描くように目に見えないほどの速度でそれらは神田に放たれた。神田は突進してくる私と謎の男の投擲物によって挟まれる。

 神田は右手のナイフを振り回し、投擲されたそれらを一つ一つ弾いていく。しかし、神田の手元で弾道を変えたそれらの一つが神田の左肩に突き刺さった。神田は顔をしかめる。謎の男は再度口に手を当て何かを手にし二度目の投擲を行おうとする。

 私は足を止めない。

 アイスピックを握り神田に飛びかかった。右腕を上げ、逆手に持ったアイスピックを大きく振りかぶる。その瞬間、神田がナイフで弾いたそれらの内の一つが私の顔面に向かって飛んでくる。首を傾げ、ぎりぎりのところで私はそれを躱した。

 私はアイスピックを振り下ろす。しかしその刹那、神田の真上の天井から不安定なノイズを察知し、同時に天井が爆発した。


 地響きのような音を立て、天井の一部が崩れ落ちる。煙を上げ、崩れた天井のコンクリートのいくつかが神田と私に降り注ぐ。

 私が振り下ろしたはずのアイスピックは硬い何かに引っかかったように動かない。しかし天井の崩落の煙で何も見えなかった。

 何が起きている? 疑問符を混ぜるはずの頭の中のスプーンが、天井の崩落した音と共にコンクリートに埋もれた。瓦礫の中で疑問符だけが姿を現す。


 コンクリートの破片や瓦礫が崩れる音が徐々に収まり、それに比例して白煙に包まれた駅構内の現状が鮮明になっていく。

 謎の男がいる場所まではコンクリートは降ってきて無かったが、私と神田の足元には大小様々なコンクリートの破片や瓦礫が散乱していた。

 私達の頭にコンクリートの粉塵が降りかかるも、かろうじて私達の頭上から大きな瓦礫が降ってこなかったのは奇跡的とも言えた。

 煙が止む。目の前に人影が見え、突如視界に現れた彼女は不安定なノイズを発しており、私の振り下ろしたアイスピックをサバイバルナイフで防いでいた。

 アイスピックとナイフが交差する左右で私と彼女が睨み合う。私の目の前の彼女は左に体を向け横目で私を睨んでいた。

「おっはー、れおちー」

「──シン、さん」

「シンちゃんでいいってばさ」

 神田と同じ濃度の黒のパンツスーツを着ているシンのコロコロしたビー玉のような声からは相変わらず殺気に近い不安定なノイズを感じる。彼女の芯のある低音域がいつもよりやけに落ち着いていた。


 鍔迫り合う私とシン、その他にも睨みを利かせている人物がいた。

 謎の男は口から出した何かを神田に向かって放つ寸前の体勢で固まっていた。

 正しくは動けないでいた。なぜなら謎の男の頭部には銃が向けられていたからだ。しかも2丁も。

 向けられた銃は「AWM」という狙撃銃と「P90」という短機関銃の2丁だった。

 謎の男の左側頭部に密着した「AWM」の銃口を向ける人物は、右腕で「AWM」のストック部分を脇に挟むように構え、左の脇を開き自身の頭部の高さまで上げた「P90」を、謎の男のこめかみに銃口を向け構えていた。

 その人物は私と同じくらいの身長で、黒いワンピースの上からトレンチコートの袖を通さず肩に羽織り2丁の銃を構えていた。

 癖という言葉を聞いたことがないようなストレートで長髪の彼女の黒髪は月明かりに照らされ煌めいていた。艶やかな黒髪のせいか、30代の成人女性の顔つきにしては幼く感じた。さらに彼女の綺麗に一直線に切り揃えられた前髪からは凛々しさを感じる。

 神田と同様に、普段の彼女からは聞こえるはずの音が聞こえない、彼女のその姿を見るのは久しぶりだった。

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