15「チョコ」

 月明かりに照らされた神田の鈍く光る目がこちらを捉えていた。望遠鏡越しに目が合い、その瞬間に私は全てを察した。


 伯父さんは対象者が神田だと知った上で私に秘密にしていたのだ。だから対象者の資料も見せず、曖昧な特徴を伝え、その上で「見たら分かる」というヒントだけを私に伝えた。

 確かに「見たら分かる」が、まさかあの神田が対象者だとは思ってもいなかった。というより、私が神田を始末出来るとは到底思えるはずがなかった。


 私は自分が始末できそうな相手であると自然と予想してしまっていた。

 人とは不確定な事実が目の前にあると自分の都合のいいように解釈してしまう生き物だ。自分の記憶の引き出しから対象者の特徴に合い、更に私が始末出来そうな人間を探していた。見当がつかない理由はその固定概念に縛られていたからかもしれない。

 まさに予想外だった。


 どうする?

 依頼を引き受けた以上は始末しなくてはいけない。しかし相手が神田だという一点においてまず始末出来るか出来ないかという根本的な問題が生じる。

 本来ここで私が正しく悩むとすれば、「どうする?」では無く「どうすれば始末できる?」もしくは「どうすれば殺されずに済む?」だった。しかし、相手は神田だ。一度敵に回せば、始末出来る方法を探している間に殺される。

 どうすればいい? 一度伯父さんに連絡してみるか?

 時計を見ると1時15分を過ぎていた。

 相変わらず望遠鏡のレンズにはこちらを捉えていている神田が映っている。時間は無い。伯父さんと連絡を取ったところで何も解決しないであろうことは確実だ。だが、何もせずここで望遠鏡とにらめっこしていても何も変わらない。

「とりあえずやれるだけのことはやってみよう」と思うことは難しかったが、「とりあえず動かせる体の部位は動かしてみよう」と思うことで少し気が楽になる。

 私が感じていた不安や恐怖や高揚は神田の出現のせいで全てが疑問符とほんの少しの絶望に飲まれた。それ故に私の感情は地に足がついておらず、この「HOTEL SAITO」の153号室の窓際で望遠鏡を覗きながら、ふわふわと浮かんでいた。

 望遠鏡から顔を離さなくてはいけない。私はその一心で体ごと後ろに下がった。望遠鏡を覗くのを止めた私は、その時に初めて自分の息が止まっていたことに気がついた。


 今出来ることだけを考えた。

 私はいつもの何倍かに感じる重力に逆らいながら足を動かす。そして、部屋のベッドの足元に乗っている黒のボストンバッグを開けた。その中にはいつものアイスピックと拳銃の「コルト・ガバメント」、そして伯父さんが用意してくれた狙撃銃が入っていた。

 中に見えた狙撃銃、いわゆるスナイパーライフルのサコー社製の「TRG42」を手に取り組み立てた。

 自分の呼吸音が荒く心拍数が上昇しているのが耳障りだった。私は窓を開ける。風が一気に吹き抜け私の金髪のショートボブをなびかせた。

 風でなびいた髪が耳に触れた時に仕事用の黒髪長髪のウィッグを被るのを忘れていたことに気付いた。


「……ちっ」

 ウィッグを被り忘れたことよりも余計なことを頭に浮かべた自分に苛立つ。そしてその苛立ちが、神田を始末しなくてはいけない状況になっていることへの苛立ちに飛び火する。

 ニューロンが電気信号を伝える時のように連鎖的に無数の苛立ちが頭の中を駆け巡った。

 一度目をつぶり深呼吸する。頭の中の着火寸前の苛立ちのニューロンを鎮めた。

 私はベッドを移動させ窓際につけた。ベッドの上に狙撃銃を置き、構える。

 マットレスで少し不安定だが問題ない。少なくとも今の私の感情よりかは安定していた。ベッドの上にうつ伏せになる形で狙撃銃を構え、弾を装填するためにボルトハンドルを握り、横向きで反転したL字を書くように手前に引く。装填される銃弾の音が心地良く感じることだけが私が今生きていることを教えてくれている気がした。

 スコープを覗き、引き金に指をかける。スコープには相変わらずこちらに視線を向けた神田が三角帽子の上に突っ立っていた。


 心拍音がうるさい。耳には集中しない。耳に音を入れない。それだけを考える。それだけを頭の水槽に貯める。

 吸って、吐く。吸って、吐く。吸って、吐く。吸って、息を止めた。

 スコープのレンズには神田を捉え続けている。

 引き金にかけた右人差し指に力を入れる。

 引き金を引いたのと同時に銃身から両手、右脇、右胸から全身に衝撃が走る。凄まじい発砲音が部屋中に響いたが、音に耳を貸さないようにしていた私の耳には、アクリル板の向こうで聞こえた音のように鈍く曇った音のように聞こえた。

 どうやら発砲音は改札口付近にも届いたようで、数名いた改札口付近の人間は発砲音に驚き、身を屈める者や、悲鳴を上げ足早にその場から去っていく者もいた。


 発砲の衝撃でスコープは大きく標準をずらしたため、三角帽子の上の神田を狙撃出来たか分からない。

 もちろんあの神田を一発で仕留められるとは思っていない。私はすぐにボルトハンドルを先ほどと同じように手前に引く。心地の良い装填音と共に銃弾を装填する。そして二の矢を放とうとスコープを覗く。

 しかしスコープのレンズは三角帽子の屋根をしっかり捉えていたがそこに神田の姿は無かった。

 どこだ? どこへ逃げた?

 スコープで神田の姿を探す。しかし見当たらない。

 エレベーター付近の地面には神田の倒れているような姿は無い。つまりは先ほどの狙撃は失敗したということだ。

 どこに逃げた? 銃を握る手が汗ばむ。

 窓からの風は焦る私を嘲笑うかのように吹き抜け、私の髪を撫で続けている。今は風の音でさえもうるさく感じる。必死で探すも未だに神田の姿は見つけることは出来なかった。


 すると突如、発砲音が聞こえた。

 発砲音と同時に改札口周辺にいた一般人が倒れるのが見える。もちろん私が狙撃したわけではない。

 発砲音の位置は私のいる位置よりも遥か右後方。おそらくデパートの奥のマンションか雑居ビルから狙撃したと思われる。


 さらに続いて4発の銃声が聞こえ、改札口周辺にいた一般人が4人倒れる。

 何人からの呻き声や悲鳴が聞こえる。

 彼らが倒れた場所から黒くも見える血液がじんわり広がる。その光景を見た周囲の二人組の男性が声を上げ走って逃げるのが見えた。

 同時に終電を過ぎた駅構内から灯りが消える。その消灯を合図にするかのように再び2発の銃声が聞こえた。

 逃げようとした二人組の男性を撃ち抜いた銃声は二人が地面に倒れると共に静まり返り、駅の南口には7つの死体が転がっているだけだった。


 私はその光景をただ指を咥えて眺めているしか無かった。

 スコープ越しに何人もの人間が倒れていくのを目に入れ、ただただ困惑していた。

 一体誰が?

 考えられるとすれば、私から狙われていることを知った神田が「G.O.」の殺し屋を連れて狙撃の準備をしていたということ。しかしそれでは一般人を狙撃するメリットは無い。ただ大事になるだけだ。神田はそんな事しない。

 じゃあ他に考えられることは?

 私はスコープから目を離し、周囲を見渡す。発砲音の出どころを探そうと試みたが、もちろんこの部屋から右後方に存在するマンション、または雑居ビルを確認することはできず、私の目には、虚しく「HOTEL SAITO」の153号室内の内装の様子が入ってくるだけだった。

 辺りを見回した私は一つの考えがよぎった。

 もしかして、狙撃手の狙いは神田か?


 私に神田の始末を依頼した人間は、私だけではなく他の殺し屋も雇っていた可能性もある。

 相手はあの神田だ。二人がかりでも始末出来るかどうかも分からない。しかし、確実に一人で相手をするよりも始末できる確率は上がる。

 今回の依頼人が神田の始末のために、私含め二人の殺し屋を雇っていたとしても不思議では無い。私以外の殺し屋が神田を狙うために邪魔な一般人を狙撃したとも考えられる。

 狙撃した人間は私の敵か味方かは不明だが、目的のためなら一般人の殺しも問わない野蛮な人間だということだけは確かなようだ。


 スコープを覗くと改札口付近は灯りが消え、動く人間は誰一人いなかった。

 死体が転がる改札口付近の人工的に創り上げられたような静けさがこの距離からでも分かる気がした。

 背筋を誰かに撫でられたような感覚に陥り、唾を飲み込む。呼吸をする度に吹き込んでくる風が鼻に抜けツンとした冷気を鼻腔で感じた。

 私はベッド上でうつ伏せになり、構えた狙撃銃のスコープで死体の転がった周辺を眺める。すると誰もいなかったはずの改札口に、二人の男性が間合いを取っているのが確認出来た。5m程の距離を保ち、お互いに隙を見て相手の懐に入ろうとしているようだった。


 顔が見えた。

 改札に背を向けているのが神田だ。もう一人はショッピングモールを背にしており神田と同じ程の背格好の男性だったが、顔を見ても誰かは分からなかった。


 神田はサバイバルナイフを構えている。それに対し、もう一人の男性は何も持っていなかった。

 しかし、彼からはこの距離からでさえも、ただならぬ狂気めいたものを感じる。近付いたら噛み付かれて肉や骨までも噛み砕かれてしまう、そんな野生の獣が目の前にいるようなおぞましさをその佇まいから感じる。

 改札口で神田と対峙している謎の男の正体が分からなくとも、神田の始末を依頼されている私にとっては好機だった。

 現状、私の右後方にいる一般人を撃った狙撃手と、神田と対峙している彼と私、3人の人間が神田を狙っている。神田を始末できる確率はさらに上がった。


 私も対峙している彼に加勢するように狙撃を開始する。

 スコープで捉えて続けていた神田の姿に穴を空けるイメージを頭で浮かべ、引き金を引く。けたたましい発砲音が部屋に響く。

 銃身から弾丸が放たれるのを感じる。相変わらず発砲の衝撃は上半身に響くが、構わず次の銃弾を装填し引き金に指をかけスコープを見る。

 当たったか?

 しかし、そこには未だ謎の男と対峙している神田の姿があり、弾は地面を撃ち抜いたようだ。先ほどよりは距離が離れているが、神田はまだ謎の男と対峙していた。


 先に動いたのは神田だった。

 謎の男に向かってナイフを投げる。

 謎の男は斜め前に走り、投げられたナイフを避ける。神田は腰から別のナイフを出し構える。謎の男は躊躇せずに神田の左半身に向かって飛び掛かる。

 神田はヒラリと右側に避け地面に着地した謎の男の背中に向かって逆手で持ったナイフを突き刺そうとする。しかし謎の男は着地後にすぐに向きを変え、神田のナイフを持ってる右手を両手で掴む。そしてあろうことか神田の右腕に噛みついた。

 神田が苦痛の表情をした。その攻防にあっけにとられていた私は自分の目的を思い出し、神田を狙って狙撃する。

 しかし、神田は噛みつかれた右腕を軸にし両足で踏み込み、その場で側転した。

 私の放った弾丸は回転する神田の体をすり抜けるように地面に撃ち込まれた。

 その場で回転した神田は着地と同時に自分の右腕に噛み付く謎の男の左後方に密着し、噛みつかれ続けている右腕で謎の男の首を絞める。神田に密着された謎の男は神田を引きはがそうとしてもがく。

 私は三度目の狙撃を試みるも神田と謎の男が密着しており、神田に標準を合わせられない。

 謎の男は両手で首を絞める神田の腕を掴み、そのまま勢いよく前傾姿勢を取り、神田を地面に打ちつける。背中から落ちた神田は衝撃を受け流すかのように2〜3回ほど前転をし、駅構内へ向かっていった。

 私の位置からは屋根のある駅構内に入ったせいで神田の姿は見えなくなってしまった。謎の男は首の締め付けから解放され呼吸を落ち着かせている。


 すると三角帽子の小屋のエレベーターの隣の階段から大学生らしき男性は3人ほど上がってくるのが見えた。

 彼らは改札口周辺の倒れている死体に驚く。そして残念なことにその光景が彼らの最期になってしまった。

 私の右後方から3発の発砲音が聞こえ、例の狙撃手が大学生3人を射殺した。

 彼らの頭部から血が飛び出るのが見えた。そのまま階段を登り切ることなく大学生3人は倒れる。

 その状況を謎の男は一瞥した。神田はその瞬間を狙い、謎の男との間合いを詰めてきていた。

 神田のナイフは順手に持ち替えられていた。神田は謎の男の懐に入り、右腹部を刺そうとする。しかし、謎の男はその手を左手で掴み、またも噛みちぎる。

 神田の右腕から血が飛び散った。神田は噛みつかれた右腕に持ったナイフを宙に放ち、左手に持ち替える。神田の右腕を噛みちぎった謎の男の顔が神田の体の前方にあった。謎の男の右側頭部にめがけ、ナイフを突き立てる。謎の男は瞬時に左腕で自分の顔を防ぐ。謎の男の左腕に神田のナイフが突き刺さった。

 謎の男は顔をしかめるが、左腕にナイフが刺さったまま右手で神田の首を掴む。

 彼は神田の首を片手で締め付ける。しかし、神田は動じず、謎の男の左腕に刺さったままのナイフを握り、左腕の肘側から手首側まで引き裂こうと力を入れる。

 謎の男は痛みに耐えながら神田の首を絞めるのを止めない。


 私は神田と謎の男の動きが緩慢になったことに功を奏し、神田に標準を合わせ狙撃を試みる。

 狙撃銃のスコープを覗く私の目と、謎の男と格闘しているはずの神田の目が合った。

 スコープの奥で神田がニヤついたのが分かった。しかし気付いた時にはもうすでに遅く、私は狙撃銃の引き金を引いていた。

 神田は力ずくで謎の男の体を動かし、私の位置から自分と謎の男の体が重なるようにした。私の放った弾丸が謎の男の背中に撃ち込まれる。

 出血とともに謎の男は銃弾を背中に撃たれた衝撃でバランスを崩し、締め付けていた神田の首が右手から離れる。

 謎の男はその場でうずくまった。銃弾による背中の傷と神田のナイフによる左腕の傷からの出血が止まらない様子だった。

 失態を犯してしまった私だったが、構わず再度銃弾を装填する。

 神田に狙いをつけ再度狙撃する。しかし、またもや弾丸は神田には当たらず、凄まじい発砲音と共に地面に撃ちつけられるだけだった。

 何もかもがうまくいかないことに焦りと不安を覚える。銃のグリップを握る手が汗ばみ、握りこむ度に汗で湿った手とグリップが粘着質のような嫌な音を立てる。その音が不快に聞こえたのは現状が全くもってうまくいってないからだと分かっているも、そうは思いたくないのか私は全てを汗のせいにし、何度も手汗をズボンで拭った。


 うずくまる謎の男に向かって神田はゆっくり歩みを進める。

 左手に持ったナイフに付いた血液が地面に垂れて神田の行く道を辿っているかのようだった。神田はうずくまる謎の男の顔を見つめる。


 私はもう一度神田の狙撃を試みようとスコープで神田の姿を捉え、引き金に指をかける。

 しかしその瞬間、うずくまる謎の男は自身の口に手を当て複数のを手にしたのが見えた。それらを神田に向かって投げる。

 投げた勢いは人間が投げたとは考えられないほどの速さで飛び、近付いてきた神田に放たれる。

 神田は左側に避けたが謎の男から投擲されたものが複数あったと認識出来なかったようで、何個かは避けられたが神田の右肩にいくつかの傷を作った。

 神田は顔をしかめる。思わぬ攻撃に神田の意識の糸が一瞬ほつれた。


 私からは何を投げたか認識できなかったが、謎の男の投擲により神田がよろめいたのは好機だ。

 私はスコープで捉え続けていた神田がよろめくのを目にし、狙撃した。

 発砲音と鈍い音の二種類の音が聞こえた。私が放った弾丸は神田の右太ももを撃ち抜いた。神田は右足を撃ち抜かれた衝撃で右側に崩れる。私が作った神田の右太ももの傷から溢れた血液がスーツのズボンを汚していくのが分かる。

 その場で左足を軸に膝立ちする神田に謎の男が攻撃を仕掛ける。神田の左足を狙い謎の男は飛び込む。神田は立ち上がれず、右手に持ったナイフを飛び込んでくる謎の男の視線上に沿うように突き立てる。構わず飛び込んだ謎の男は神田の左足に噛みついた。

 神田のナイフを突き立てたが、謎の男の突進により剣先がぶれ、的が外れる。しかし、神田は距離を詰めてきた謎の男の左脇腹にナイフを刺す。神田のナイフは、謎の男の左脇腹に刀身が見えなくなるほど深く刺さった。しかし両足を負傷しバランスを崩した神田の方が不利なようだった。

 地面に仰向けで倒れた神田に謎の男が神田の左足に噛みついたまま覆いかぶさる。私は神田の息の根を止めるために狙撃を続けようとしたが、謎の男が覆いかぶさったせいで神田に標準が合わせられず、引き金を引くことが出来なかった。

 謎の男ごと発砲しても私の弾丸が神田には届かないことは目に見えていた。


 聞こえたのは間違いなく発砲音だった。そしてそれは私の右後方から聞こえた。

 例の狙撃手の銃弾が神田に覆いかぶさる謎の男の背中に撃ち込まれる。神田を狙ったのだろうが、その弾丸は誤って謎の男の背中を貫く。

 無理もない。神田の姿は謎の男の背中で全く見えない。例の狙撃手からの角度では神田を捉えられたのだろうか、もつれ合う神田と謎の男が動いたことによって例の狙撃手の標準から外れたのだろう。私はそう思っていた。

 しかし、もう一度銃声が鳴り響き、謎の男の背中に銃弾が撃ち込まれたことで私は自分の考えに警報を鳴らす。

 ? 確実に神田の姿は謎の男によって覆いかぶさられ、狙撃できないと分かった上で狙撃手はなぜもう一度発砲した?


 もしや例の狙撃手の狙いは神田では無く、初めから謎の男なのか?

 私は勝手に神田対私、謎の男、狙撃手の構図を描いていたが、もしかすると狙撃手は神田側の人間かも知れない。そう考えた私は無意識に唇を噛んでいた。

 でも、だとしたら一般人を何人も射殺した理由が思い浮かばない。私は神田を始末しやすくするために一般人を射殺したと思いこんでいたが、謎の男を狙っていたとしたらおそらくそれは間違いなはずだ。


 例の狙撃手が神田の味方だと仮定して考える。

 一般人を射殺して何がメリットになる? 神田の味方だということは十中八九で「G.O.」の人間だ。「G.O.」の人間ならば、一般人に殺しの現場を見られることは仕事が不十分であった証だと教育されている。さらに対象者以外の人を殺してしまうことは以ての外だ。それなのに狙撃手は一般人を7人も射殺した。ありえないことだ。

 しかし、逆にいえば7人の一般人を射殺する必要に迫られるほどの状況だということだ。「G.O.」の人間でさえ、一般人を犠牲にする危険を冒す必要があった状況で考えられるのは、一筋縄ではいかない人間を相手にしている場合、もしくは組織全体で始末する必要がある人間を相手にしている場合。

 ここで考えられるのは、狙撃手は初めから神田と協力して、謎の男、もしくは私のような神田を狙う者を始末する目的があったのではないかということ。そう考えてみると7つの命を無駄にした理由が納得できる。

 神田は「G.O.」の職員、つまりは狙撃手を動かし、自分を狙う者を返り討ちにあわせようとしていると考えられる。神田が狙われているとなれば「G.O.」が組織全体で動かないはずはないであろうし、神田であれば「G.O.」を自由に動かすことができる。神田のたった一つの命と一般人の7つの命であれば、「G.O.」にとっては神田の命のほうが重いであろう。

 自分の命が狙われていると勘付いた神田は、自分の始末の依頼を請け負った殺し屋をおびき出すために、発見し辛い同じような特徴を持つ人達の中で、三角帽子の小屋の屋根という、わざと発見しやすい場所にいた。そしてこちらの場所も把握していた。

 さらに改札口付近の人混みが少なくなったところで現場にいた目撃者になるであろう7人を射殺し、最低限の犠牲を払った。

 それは戦闘中に邪魔が入らないようにということと、神田を目撃する人間を消したかったということ。この2つの理由で一般人を射殺したと考える。

 神田は三角帽子の上から私を見ていた。私の存在に気付いていたのは事実だ。

 しかし謎の男の存在には気付かなかったのだろう。油断した神田は謎の男によって実際に危機的な状況に陥った。狙撃手はそれを助けるために謎の男の背中に穴を開けた。こう考えるのが自然な気がする。

 どういう事実であったにしろ、もし狙撃手が神田の味方ならば、謎の男と互角の戦いを繰り広げ、現在危機的状況にいる神田を始末できる絶好のチャンスであるはずの現状が反転してしまう。

 私は今ここから追撃も出来ない。かと言って謎の男を当てにはできない。彼は負傷を負いながら神田に覆いかぶさっているだけで精一杯のように見える。私が今改札口に向かって神田に近付き始末しようとすれば、敵か味方か分からない狙撃手に狙われる可能性も高い。

 どう動けばいい? それを頭に浮かべた時には私の体は動いていた。


 私はベッドに置いてある荷物の中から拳銃の「コルト・ガバメント」を1丁取り出す。そして荷物から取り出した刃渡り2cm大のアイスピックを黒のチノパンの後ろのポケットにしまった。

 私はベッドにかけてあった黒のパーカーを手にし部屋を出る。足早にエレベーターを降りフロントを通り過ぎた。そしてホテルを出る。自動ドアが開き、人間の欲を混ぜて固めたような真っ黒いアスファルトが敷き詰められている道路に足を踏み入れる。

 パーカーに袖を通しながら走っている最中、雲一つない夜空の下で居酒屋やコンビニの灯りだけが道標のように見えた。私は外に出た冷気を感じている暇もなく、すぐさま改札口へ続く階段を駆け上がる。

 階段の途中には三角帽子のエレベーターの小屋が横に見えた。先ほど射殺された大学生の死体を避けながら私はエレベーターの扉を背に息を潜める。ここからならば狙撃されないはずだ。

 数m先には神田が自分に覆いかぶさる謎の男ともみあっているのが見えた。

 階段の手すりに触れ、その冷たさによって、私が先ほどまでスコープで覗いていた場所に足を踏み入れたことを実感する。

 謎の男の左脇腹と背中から出血が続いておりスーツの黒色が一層深くなっているように見えた。周囲には4つの死体があり、地面の血痕で神田と謎の男の乱闘の様子が手に取るように分かった。

 神田は謎の男に噛まれ続けている左足を何度か蹴り上げ、自分の体から振り払った。謎の男の体が左側に飛ばされ、宙で回転しながら地面に転げ落ちる。肉がまな板に叩きつかれたような鈍い音がした。彼の呼吸音はまだ荒い。死んではいないようだった。

 神田の唸り声が聞こえる。

 神田は両手で硬く冷たいタイル状の地面に手を置く。汚れた乳白色のタイルの黒い目を道標に赤黒い血液が流れる。

 右足を軸に立ち上がった神田の黒く澄んだ瞳に私の姿が映る。左足に力が入らない様子の彼は立っているのもやっとなように見える。

 神田と私が直接対峙したこの空間を見下ろす紺色にも見える夜空には、相変わらず一つの雲も無かった。


「よぉ、礼央」

 いつもの陽気な挨拶とは裏腹に神田の声は掠れていた。

 いつもより低音が濁っていた神田の声を数m先から拾った私は、後ろポケットの拳銃を取り出し神田に銃口を向ける。

「──殺し屋らしい挨拶だ。まるで『武将の息遣い』だな」

 神田の意味不明なことわざは、まるでツイッターのように私の頭の中で下から上へとスクロールされる。神田から発せられる音が聞こえないのは彼を相手にしている時はいつものことだった。

 私は深呼吸しながら引き金に指を添える。拳銃のひんやりとした感触が、走ったせいで火照った私の皮膚の高揚を鎮める。唾を飲み込み、引き金を引こうとする。


 しかし私の右方向から発砲音が響き、同時に私の手から拳銃が吹き飛ばされる。

 おそらく伸ばした手が狙撃手から見えていたのだろう。右手は撃たれてはいなかったが、拳銃を吹き飛ばされた衝撃で右手が左に持っていかれる。

 右肩が外れているのではないかとさえ感じた。私の持っていた拳銃は宙を舞い、階段へと落ちる。無惨にも私は拳銃の行く末を眺めているだけしかできなかった。

 一段ずつ階段を転がり落ちた拳銃は大学生の死体に引っかかりその場で静止した。

 私が考えているよりも狙撃手の射撃の腕は確かな物のようだ。


 神田は腰の辺りから新しいナイフを取り出す。そしてそれを私に向け投げつける。

 常人のスピードでは考えられないほどのナイフの速度が私に近付くにつれ増していくように感じる。

 私はその場で飛び上がり、ナイフを躱しつつ、エレベーターの屋根の縁を掴み下半身を振り子のように助走をつけ三角帽子の屋根の上に登った。

 斜めの屋根の上でバランスを取るのが難しく、落ちそうになる。すると私の右後方からノイズが聞こえる。

 この場所だと狙撃される。それは分かっていた。

 私は三角帽子の屋根の上から神田に向かって一気に飛び降りる。宙を舞う私の姿を月明かりが照らす。

 発砲音が響き、私がいた三角帽子の屋根が撃ち抜かれ煙が立つ。数m先に飛び込んだ私は両手で地面を押し前方に倒立回転する。そのまま宙で体をひねり、体の向きを変え私は何度も回転をしながら神田に近付く。

 回転する私の後を追うように狙撃手は何発も発砲した。しかしその銃弾は私には届かない。回転して舞った空中で体を素早く独楽のように横回転させる。

 回転する私は神田の横を通り過ぎ、灯りの消えた駅構内へと着地する。神田を正面に捉え着地した私は、駅構内に入ったことで狙撃手の射程範囲から外れたことに安堵した。


 私の体操選手のような動きを横目で見ていた神田は両足で立ち上がる。

 両足の出血は続いていたが先ほどまで立つのが必死だったとは思えない程、神田の動きは自然だった。

「黙ってさえいれば可愛い女の子なのにな」

 神田はスーツの内ポケットから拳銃を取り出す。その黒い丸い一つ目の怪物が私の目と合った。

 神田の声は落ち着きを取り戻したように聞こえ、いつもの通り倍音が多く含まれていた。

「──さっきから一言も喋ってないけど」

 私の言葉を聞いた神田は、してやられたような顔をして鼻で笑った。

「懐かしいな。仕事になると敬語じゃなくなるのは昔と変わらないな。その様子じゃ俺の居ないとこじゃ、まだ呼び捨てか?」

 余裕を見せる神田に私は視線を反らす。パーカーのポケットに手を入れアイスピックを手に取り構える。持ち手を撫でるように触れ、木の感触を確かめる。

 神田の銃は私から視線を逸らさない。

「この匂いも懐かしい。お前のはチョコの匂いがする」

 私は神田へと歩みを進める。徐々に歩みを速め神田へと迫る。彼もゆっくり歩き、駅構内に足を踏み入れる。私に近付いた神田は銃を突きつけたまま動かない。

「来る前にシャワー浴びただろ? 余裕だな、礼央」

 神田の言葉に眉をひそめる。だからこの人を相手にするのは嫌なんだ。

 この人はなんでも見透かしている。しかもそれをわざわざ口に出し、まるで手のひらで転がしているかのように余裕綽々でいる。神田を相手にしていると調子が狂うから苦手だ。

 私は一気に走り出し前方に向かって倒立回転をする。

 宙に舞った私は体を独楽こまのように回転させる。神田が発砲した弾丸が回転する私の体をすり抜ける。

 着地と同時にアイスピックを神田に向かって突き立てるように振りかぶる。しかし、神田は勢いよく後ろに下がり避けた。地面に向かって突き立てたアイスピックは着地の衝撃と共に地面に突き刺さる。伯父さん特製のアイスピックの刃は折れていない。


 地面にアイスピックを刺している私に神田は再び銃口を向ける。

 しゃがんだまま地面を蹴り上げ、低姿勢で前に突進する。神田が撃った弾が、突進の風圧になびく私のショートボブの髪に掠り右耳の上辺りを掠める。右耳の上に一直線の裂傷が出来るが、構わない。文字通りの掠り傷だ。

 神田の直前まで突進し急停止する。神田の銃を持つ手をめがけて右脚を伸ばし、蹴る。Y字バランスの体勢で蹴りを入れた右脚を神田は両手で防ぐ。

 衝撃で身動いだ神田の左側頭部にめがけ左脚で回し蹴りを食らわす。しかし、その回し蹴りも神田の両手によって防がれる。

 回し蹴りをした左脚を神田に掴まれる。右足で踏み込み、掴まれた左脚を支点に宙に浮き、右脚で彼の頭頂部をめがけ踵落としを食らわせる。

 神田は首を傾ぐように避けた。私の右脚が神田の左鎖骨に振り落とされる。

 神田から小さめの骨が折れる音がした。衝撃で神田は左脚を掴んでいた手を離す。私は並行のまま地面に叩きつけられる。

 いくつかのタイルの溝の角が体に当たり鈍い痛みを伴った。衝撃で声が漏れる。

「うっ」

 私が起き上がった時にはすでに立ち上がっていた神田が、こちらに近付いてきており臨戦態勢に入っていた。

 銃を持った右手で私の顔を裏拳で殴る。口腔内の皮膚が切れたのが分かった。さらに神田は左手でアッパーを喰らわせようとする。

 その拳を両手で防いだ私は、神田の拳を掴みながら右脚で神田の左側頭部を三度蹴る。

 三回目の蹴りが入るのと同時に神田は右手に持った銃で私の左太ももを撃ち抜く。耳を劈く発砲音に遅刻することなく左太ももの痛みは現れた。私の呻き声が無意識に漏れる。


 神田は私の腹部に前蹴りを放つ。

 蹴りの衝撃で数m後ろに飛ばされ尻もちをつく。地面に体を打ち付けられた衝撃で、水面に岩を投げたように左太ももの痛みが下半身に拡がる。

 気付けば痛みの中心部にべっとりとした液体が付いており、そこで初めて私の脳は神田に撃たれたのだと実感する。

「礼央、朝はもっとバランスよく食わなきゃダメだぞ。あんなのおやつみたいなもんだろ?」

 そんな余計な話よりも私は撃ち抜かれた左の太ももの痛みに耐え立ち上がることで精一杯だった。

「……日清シスコ、舐めんな」

 奥歯を食いしばり必死で放り出した言葉はタイル状の地面に転がずに神田に届いたようだった。

「あれ? ケロッグじゃねぇのか」

 言葉と声色がちぐはぐな私の冗談に食いついてきた神田はまさに犬のようだった。

 神田の声は聞こえるが、相変わらず神田からは音が聞こえない。

 ノイズキャンセリングのように一定の周波数を切っているように心拍や呼吸音が全くと言っていいほど聞こえない。

「……あれはコーンフレーク」

「そうだっけか?」

 耳の後ろを掻きながら見せた神田の微笑みは本物か偽物か、区別がつかない。

 少ない会話でさえも蟻地獄のように神田のペースに私が飲まれていくイメージが頭で鮮明に想像される。もがけばもがくほどに蟻地獄の中心に吸い込まれていく。


 神田は相手のある一定の過去までなら把握出来る。相手の過去を知っているだけどれほど心理的優位に立てるだろうか。神田はそれを言葉巧みに利用する。

 神田は沢庵が黄色いコイン状の食べ物になる前に何をされたか、何をしてきたかある程度のところまで知っている。

 沢庵を沢庵として食べている私達とはまるで別次元にいる。だから神田を相手にしていると何もかも神田の手の中で躍らせられている気分になる。

 これだから神田を相手にするのは嫌なんだ。

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