14「オレンジジュース」

 伯父さんは謎の不審者から送られた封筒を開いた。私の場所からは封筒に入っていた手紙の内容が見えなかったが、手紙を見た伯父さんは「なるほどな」と小さく呟いた。

 私は身を隠していた場所から立ち上がり、自動ドアまで向かう。自動ドアが開き、無機質な駆動音が玄関口に響く。

「大丈夫そう?」

 一体何を心配しての「大丈夫そう?」なのか、口にした本人の私にも分からないまま訊いたが、伯父さんは「あぁ」とあっけらかんとした表情で答えた。

 伯父さんは受け取った封筒ごと手紙を、履いていた作業着のズボンのポケットに雑にしまい、そのままズボンのポケットに両手を入れたままエレベーターに乗り、先ほどいた10階の自室に戻った。私も伯父さんの後ろに続いた。

 部屋に戻った伯父さんはオフィスデスクの上の書類の山の中から何枚かの資料を取り出した。

 伯父さんは書類を手に「そうか」と呟いた。その表情はあっけらかんとしているわけでもなく、かと言って仕事のような真剣な面持ちでもなかった。

 伯父さんのなんとも言えないそんな顔を見るのは初めてだった気がして、私は唾を飲んだ。唾を飲んだ音が頭の中で反響する。

 まるでカーペットにこぼしてしまったオレンジジュースのように、徐々に緊張が私を支配していくのが分かった。自然と耳に集中してしまう。


 その瞬間、私の耳に穴を開けるように劈く電子音が鳴り響いた。

 音に驚き耳を塞いだ私は反響する音が弱まるのを待つため少し間を置き、音の出る方へ視線を向ける。音の正体は部屋の電話機が着信を受けた音だった。

 何度かのコールを受け、伯父さんはオフィスデスクに置いてあった電話機の受話器を取る。

「──よぉ、どうした?」

 まだ電話機の音が耳に残っており、微かな耳鳴りがしていて受話器越しの相手の声を聞くことが難しかった。

「ふーん、珍しいな。で、誰の? ──おぉ、分かった」

 伯父さんは受話器を下ろした。同時に耳鳴りが徐々に止み、伯父さんの心拍音がクリアに聞こえ始めた。

 振り返った伯父さんは後ろにいた私に視線をやり、口角を上げた。部屋のスタンドライトの光のせいで影が出来ており、伯父さんの口から上の表情は私の位置からは見え辛かった。

「依頼だ」

 その声に私の緊張は一気に高まり、カーペット一面がジュースのオレンジ色に染まる。

「いつ?」

 私の声がワントーン低くなったのが分かったのは、自分の声が耳に入ってからだった。

「今夜の23時から2時だ」

 私は指を折り、業務時間を数えた。

「4時間、40万円……悪くないんじゃない」

「あぁ、ただし対象者は元殺し屋だ」

 伯父さんは私の目に視線をやった。目と目が合う。その時、私の目が暗さに慣れたからなのか、伯父さんが動いて光の当たる角度が変わったからなのかは分からないが、伯父さんの口から上の表情を見ることが出来た。

「殺し屋?」

「元、殺し屋」

「どこの?」

「どこだと思う?」

 伯父さんは意地悪な笑みを浮かべる。嫌な予感がした。

「『G.O.』?」

「そう、『G.O.』」

 韻を踏んだように答えた伯父さんは、ニヤッと笑った。

 電話機から音が鳴りファックスが届く。それを手に取った伯父さんは書類の山に無造作に置かれたファイルに入れた。そのファイルを持ち、作業台の椅子にかかっていたウエストポーチを肩にかけた。

「先に行ってくる。現場はここから2時間くらいだ。余裕持って20時に出ればいいだろう」

「分かった。部屋で少し寝ていい?」

「おう、20時には起きてろよ」

「うん」と小さく頷く私の横を通り過ぎる途中で、私の肩を軽く2回ほど叩いた。

 伯父さんが部屋から出ると薄暗かった部屋に取り残された私の耳は、自然と伯父さんの足音を辿った。薄暗い部屋の中では作業台とデスクのスタンドライトは点きっぱなしになっていた。


 今夜の対象者は元殺し屋。

 今回、私は死ぬことなく無事に家に帰れるだろうか。相手はどれほどの強さなのだろうか。それを知ったところで私は対象者を始末することが出来るのだろうか。

 不安は閉め切ったこの薄暗い部屋の中の空気と同じように私の頭の中で漂っているだけだった。

 考えてもどうしようもないことは分かっているが、どうしても考えずにはいられない。

 伯父さんはどんな気持ちでこの依頼を受けたのだろうか。私が死ぬかも知れないことをどんな風に考えているのだろうか。

 何度も依頼を受けてきて何人も対象者を始末してきた私が、今更なぜこんなことを考えてしまうのか自分でも分からなかった。

 もしかしたら、先日、紫仁しにと再会してまた会いたいと思っているから死にたくないのかも知れない。もしかしたら、最近父に言われた「伯父さんはこき使うから嫌な時は嫌と言え」という言葉が頭にあったのかも知れない。死にたくないし、もしかしたら死にそうな場所には行かなくてもいいのではないか。最近そんな思いが芽生えたのかも知れない。


 しかし、その思いとは裏腹に、伯父さんが依頼を引き受けたことを理解した時点で私の心拍は93回/分に上昇していたのも事実だった。それが元殺し屋と知った時も、さらに私の心拍が上昇していた。

 死に近付くほど心拍は上昇し、高揚する。つまり私の興奮に、死ぬかも知れないという不安が素晴らしいアクセントになっている。それは間違いなかった。

 私は伯父さんにこき使われているのではなく、私の自己満足のために伯父さんをこき使っているとも言えた。

 私は無理して業務にあたっているのではなく嬉々としてこの仕事を引き受けているのだ。私は自分が殺し屋に向いていないと自分で思っているが、私にとって殺し屋の仕事は、ジェットコースターのような最高に心が躍るアトラクションだということは、私の上昇する心拍とそれを心地良いと感じている時点で間違いなさそうだった。

 死に直面することは時に生きている自分を大いに実感できる。死に肥えた私は自分が死に近付くほどに、生きたいと強く思ってしまうほどに、恍惚してしまう。私はそんな性癖を持っているのかも知れない。

 取り残された薄暗い部屋の中で3つの光が部屋に舞う埃を照らす。

 重力に抗って下から上へと舞う無数の埃をぼんやり見つめる。もしかしたら私だけではなく、殺し屋の皆も同じような性癖を持っているのかも知れない。

 そう思いたい。この埃だらけの薄暗い部屋で一人ぽっちで思いついたこんな話を誰かにしてみたくなってしまった。共感して欲しかった。誰かいるだろうか。

 何箇所か古びた記憶の棚を引き出したが私の知っている殺し屋でこんな話を出来るのは今ではたった一人だけ、開けた引き出しの隅っこで小さく体育座りしている紫仁だけだった。

 

 伯父さんのマンションの10階にある私の部屋に入った。扉を開け、入り口側の電気のスイッチを押す。

 パチッという音と共に部屋がシーリングライトの暖色の光に照らされる。窓際に置かれた紫陽花あじさいの花びらを模したヘアピンが暖色の光に照らされキラリと光った。

 部屋の右側にはシングルベッドが置かれており、丸い木目のローテーブルが部屋の中心に置かれており、部屋の右側には小さめのテレビが置いてある。

 ローテーブルの上にはティッシュ箱とリモコンが置かれているだけだった。生活感の無い部屋だなと我ながら思う。しかし仮眠を取る程度でしか使われない部屋のため気にはしない。

 ベッドに横になって壁にかかった時計を見ると短針が2を、長針が8と9の間を指していた。日は落ちていないのでつまりは14時43分くらい。

 テレビをつけると洋画が流れており、筋肉隆々の男たちが小銃を振り回していた。チャンネルを変えニュース番組を眺めていたが、先ほどとは桁違いの情報量に眩暈を覚えた私はテレビを消した。

 同時に音が消え、私の部屋は静寂に包まれた。スマホを取り出してアラームを19時30分にセットした。目を瞑り私は暗黒に身を投じた。

 暗黒に慣れ始めた頃、今朝食べていたシリアルをそのまま家のテーブルに置きっぱなしにしていたことを思い出した。きっと、ふやけてほろほろになっているかとも思ったが、母のことだからすでに片付けてしまっていることだろう。シリアルの陸が牛乳の海に浸水して洪水被害になってしまったイメージを頭で描いていたら、気付くと眠りに落ちてしまっていた。


 軽トラに乗った私は黒いワイシャツを着て、黒のチノパンを履いていた。黒のパーカーを羽織り耳栓をしている喪服姿のような私を死に近付けるように軽トラは高速道路を走っていた。

 時刻は20時30分頃。窓から見下ろせる街並のような景色があの世に向かう三途の川のようにキラキラしているなと思った。

 三途の川にかかった橋も、今走っているこの高速道路と同じように何台もの車で、何人もの人間を時速100km近くで渡らせているに違いない。

 命が尽きるスピードはきっと夜中の高速道路に似たような速さで流れているのかも知れないなと、私はそう思った。実際に三途の川を見たことは無いけれど、きっとこんな風に違いないと確信していた。

 軽トラのエンジン音が私の耳たぶに触れるように微かに聞こえた。私はパーカーのポケットに手を突っ込んで目をつ瞑った。昼寝をしたせいで眠れなかったが目を開けることはしなかった。


 伯父さんからの情報だと対象者の元殺し屋は男性で40代くらいらしい。そして今夜0時頃には今から向かっている駅の南口にいるらしい。髪型は黒髪のツーブロック、中肉中背で黒のスーツを着ているらしい。

 伯父さんは対象者の資料を見せてくれなかったが「見れば分かる」と一言いうだけだった。私の知っている人間なのだろうか? 「G.O.」の人間ならば顔は分かるかもしれないが、数年前の記憶は信用できない。それに「G.O.」を辞めた人間なんて私には見当がつかなかった。


 近くのビジネスホテルに着いた頃には時計は23時を過ぎていた。ビジネスホテルの前の路肩に軽トラを停めて私を降ろした後、伯父さんは「じゃあ頑張れ」と手を振りすぐさま軽トラを発車させた。

 ホテルのルームキーを手にし、私の腰の近くにある感情の塊みたいな臓器がぎゅっと締め付けられた。奥歯が少し震える。心拍が上がるのが分かった。それは殺されるかもしれない不安と誰かを殺すかもしれない興奮とが入り混じった物だった。ホテルのルームキーをパーカーのポケットに入れホテルに向かった。


 ビジネスホテルはいつも清潔で安心して支度が出来る。

 今日は、雌牛や鼠、死にたくないと思った自分が同時に高揚している事実や封筒の中身、対象者の顔が分からないといった疑問や不安定な感情でいっぱいだったが、「ビジネスホテルが清潔である」ということ、それだけが安定して存在することに安堵した。

 このビジネスホテルの外見は暗くて分からなかったが、おそらく白い外壁であることは分かった。20階ほどの細長い全体像は遠くから見れば、摩天楼の中では底辺に部類するほどの高さだった。ベランダは無く、ただの長方形の箱のように見える。そのビルを下から見上げると私が小さい頃に厚紙で作った四角いペン立てのことを思い出した。

 手にしていたルームキーを見ると「HOTEL SAITO 153」と印字されていた。ホテルに入りフロントを抜け、5名ほどで満員になる大きさのエレベーターに乗った。15階のボタンを押す。15階に着いた私は上昇した心拍と同じリズムで足を踏み出すように廊下を歩く。

 フェルトのような床は人間の足音を消すのに特化しているように思えた。暖色系のダウンライトが廊下を照らし、暖かみを演出しているようだが廊下の狭さと壁の殺風景さも相まって妙な居心地の悪さを感じた。それはまさに取り繕う笑みのような内装だった。

 伯父さんに指定された部屋に入ると綺麗に整えられたベッドに歓喜した。そのまま洗面台、浴室を見渡す。アメニティは十分であったし、浴室の清潔さも文句なしだった。

 荷物がすでにベッドの上に置いてあり、窓から駅の南口が見えるように小さめの望遠鏡が置いてあった。

 きっと伯父さんの仕業だろう。ここで見張って対象者が現れたら現場に向かえ、ということらしい。時刻はまだ0時を回っていない。

 駅の周辺はまだ何人かの人間が歩いているのが窓から見えた。この状況では対象者が現れても始末出来ない。もっと人が少なくなってから、誰も居ない場所におびき寄せるしか無い。それよりも対象者の把握が先だ。望遠鏡を覗いた私はツーブロックの中肉中背の40代のスーツを着た男性を探した。

 望遠鏡で何人が覗くと困ったことに気付いてしまった。それは、対象者の特徴に当てはまる人物が簡単に見つかってしまったことだった。それも何人も。

 駅に向かおうとしている男性も、今エレベーターを降りた男性も、その近くで女性と会話している男性もツーブロックの中肉中背で40代くらいでスーツを着ていた。


 よくよく考えれば不思議なことではなかった。

 髪型の特徴のツーブロックといっても色々な長さやパーマのかかったツーブロックもあるし、この時間に駅周辺を歩いている大体の人間は仕事帰りでスーツを着ているし、40代男性は大多数が中肉中背だ。

 対象者の特徴の範囲が広すぎて誰が本命が区別出来ない。どうしたものか……。

 伯父さんは見れば分かると言っていたが、本当に私に分かるのだろうか。一目見れば分かるほど、私の人生を振り返っても印象的なツーブロックでスーツを着た中肉中背の40代男性は見当がつかない。一体対象者は誰だ? 伯父さんが対象者の資料を見せてくれなかったのはなぜだ? 何か理由があるに違いないと思うがそれを今考えたところで対象者は現れない。……どうする?

 部屋にかかっている時計を見ると時刻は0時50分を指していた。


 私は望遠鏡を覗くのを止めた。一旦落ち着かせなくては。今日の依頼の業務時間は23時から2時まで。まだ余裕はあった。


 私は浴室に向かい、着ていた洋服を脱いだ。

 鏡に写る頭頂部が黒くなった金髪の全裸の女性は相変わらず無表情で冷たい目をしており、何を考えているか分からなかった。

 本当に自分は死に対して不安と高揚を感じているのかと不思議に思うが、私の両手が汗ばんでおり、心拍も98回/分と上昇していることは間違いない。

 浴室に入りシャワーを浴びた。対象者は一体誰なのか、それだけを考えていた。

 シャワーのお湯が顔や体に当たる感触が温かく柔らかかった。感覚が鋭くなっているのか、シャワーのお湯、一粒一粒が体に当たる感触がちゃんと分かった。それが私の体を上から下へと這いずり、床に落ちていく。

 顔や胸から太ももやふくらはぎに這いずってきたお湯がくすぐったかった。頭を洗い、タオルを泡立て体を洗う。頭を洗ってから、ボディーソープをタオルに出し、タオルを泡立てた所までは何も考えずに体が動いていたことに気付く。

 頭が空っぽになっていたことに気付いてしまってから、先ほどまで感じていた対象者の正体が判明していない不安とそれに伴う死に対する高揚が先ほどのシャワーのお湯と同じように体を這いずり始めた。

 泡立ったタオルで擦っても、シャワーで泡と共に流しても消えない「それ」は、浴室から出て、ドライヤーで髪を乾かし洋服を着るまで、体を這いずっていた。


 いつものルーティンが終わり私の中の私は、不安と高揚を両隣に座らせながら少し落ち着きを取り戻した。

 誰であろうと関係ない。私は私の出来ることをするだけ。伯父さんの言葉を借りれば「そんときはそんとき」だ。

 しかし、対象者が確認出来ないことには何も動き出せない。余計な物をお湯で流し切ることはできなかった私はらほんの少し湿った髪をなびかせ、窓際に向かい再び改札口を凝視し続けている望遠鏡を覗いた。

 何人かのスーツ姿の男性が確認出来るも、おじさんが言う「見れば分かる」といったような人間は見当たらなかった。


 駅の南口改札は地上から階段を上った先に存在する。駅自体が二階建てになっており、一階はバスターミナルやタクシー乗り場に繋がっており、二階は駅のちょっとしたショッピングエリアになっており、そのエリアが改札と繋がっている。そして地上の道路からはいくつかの階段があり、それが駅の一階と二階を繋げていた。

 改札を抜けずに左側に目を移すと駅構内のカフェや、雑貨屋に続いており、改札の右隣には小さめのショッピングモールがあり、最上階には市営の図書館がある。そのショッピングモールの目の前には階段とエレベーターがあり、階段を下るとバスターミナルに続く。改札階に続くエレベーターはその一台のみで、私のいる場所から見るとポツンと小さな無機質の三角帽子を被ったような小屋があるように見える。

 改札の南側にはデパートがあり、その奥には歯科医院などが入った雑居ビルとマンションがそびえ立っている。

 私の今いるビジネスホテルはそのデパートの後ろに存在しており、そのビジネスホテルの15階から望遠鏡で改札の近くを眺めている。

 私は先ほどより人気が少なくなった改札付近を覗き、対象者の特徴に合う人間を探し続けていた。そしてそれはすぐに分かった。


 ポツンと見える小さな無機質の三角帽子を被ったような小屋の屋根に男性が立っていた。

 どうやって登ったのかは見当もつかない。しかし実際に三角帽子の頂点に突っ立っている。そしてあろうことかその男性と目が合った。しっかりと確認は出来ないがおそらく微笑んでいるように見える。

 ツーブロックのスーツを着た中肉中背の40代男性がエレベーターの屋根に立ち、明らかにこちらに視線をやっている。

 それが目に入った瞬間、私は確かに驚いた。しかし、この異様な光景よりもその人物の正体の驚きのほうが上回り、私は望遠鏡から目が離せなくなっていた。


 ツーブロックのスーツを着た中肉中背の40代男性、という名前の対象者がそこに居たからだ。

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