13「シリアル」

 いつもより朝食の食卓が騒がしかった。

 私は器に入った牛乳の海に浮かぶシリアルの陸に、スプーンで掬った牛乳の海をかけ浸水させているところだった。

 テレビをぼんやり眺めながら頬杖をついたままシリアルの陸を浸水させ続ける。慌てた兄がテーブルにぶつかり真っ白な海が波打つ。シリアルの陸がほんの少しの土砂崩れを起こす。

「やばいやばいやばい」とネクタイを締めながらリビングと2階の自室をドタバタ駆け回る兄の姿はまるで飼い主を探す犬のようだった。

「なんで起こしてくれないんだよ」

 嘆く振りで罪を擦り付ける兄は、休暇を満喫している私からすれば、滑稽で程よい日常のハプニングだった。

 私はシリアルの浸水作業を止め、靴箱の横の壁にかかっている家族共有の自家用車の鍵を手に持つ。


「送っていってあげようか?」

 鍵を見せびらかしながら兄に救いの手を差し伸べた私は兄に恩を着せられるチャンスだと思い、自然と口角が上がった。

 しかし兄はそんな損得を勘定している場合ではなかったようだ。「助かる」とだけ言い残し、すぐさま2階の自室へと戻り鞄を持ってきた。

 私は駐車場に停めてあった5人乗りの茶色のミニバンに乗りエンジンをかける。

 おそらく私が乗る前は母が乗っていたのだろう。座席が近過ぎたために後ろに下げる。「SATO」の主力商品であるミニバン型の乗用車、「RE20i」は街中でもよく見かけ、小回りが効き、悪目立ちしない良さがあるも性能はピカイチだと兄が話していた。

 車について全く興味無い私には運転がしやすいとも、しにくいとも言えなかったが、おそらく銃でいう「グロック17」的なことだろう。なんとなくこの車の特徴は理解できた。


「すまん、待たせた」と息切れしながら助手席に乗り込んだ兄は背もたれに背中を預けず前傾姿勢で「早くいけ」と言わんばかりの体勢でいた。

 私は温めておいたエンジンの回転数を上げた。伯父さんに比べると落ち着いた運転だと自負しているが、比較対象が当てにならないと言われれば何も言えない。

 走り始めた私達が乗っている車は、法定速度よりも10km/hほどオーバーするも兄の焦りは落ち着かない。スマホの時計を眺め「なんとか間に合いそうだな」と呟くまで兄の心拍は105回/分と上昇していた。

「そういえば」と運転中の私に話しかけてきた兄の息遣いはまだ荒かった。一呼吸置いてから続ける。

「そういえばお前がいた映画館のヤクザの抗争の事件だけどさ」

「うん」

 生返事をしている私に構わず兄は続ける。

「なんかおかしいところがあるって、阿部さん……、あぁ、あの、お前に事情聴取した女性の警察官が話してたんだよな。何度も現場検証して気付いたことがあるって言っててさ」

「へぇ」

「お前なんか知らないか? あの時なんか見たとか」

「……いや、頭伏せてたし、よく分からないけど」

 動揺しているのが伝わってしまってはいないだろうか。横目で一瞬兄の顔を確認するも、兄は前を向いており、気にしてはいないようで「そうか」とすぐに納得した。

 少しの間を置き私は口を開く。

「おかしいところって何?」

 尋ねた私に奥歯に何か物が詰まってしまったような言い草で兄は渋る。

「あー、まぁ、あんまり捜査情報って話しちゃいけないんだけどな……。まぁ礼央は被害者でもあるし──」

「話せないならいいけど」

「……分かった、誰にも言うなよ」

 兄は誰かに言ってくれと言わんばかりの前置きをした。

「あの映画館で死んでた組員の奴らなんだけどな、致命傷の傷が1〜2箇所ある程度なんだよ」

「──それで? それが変なの?」

「あぁ、普通は十何人の組員の抗争って言ったら銃乱射事件になるだろ? だから普通は何箇所か撃たれての失血死とかになるはずなんだけどな。あとは死体にも無差別に何箇所も撃たれた跡があったりな。でもあの映画館の組員の死体には撃ち抜かれた銃弾の痕とか、アイスピックで刺したような傷が1〜2箇所あるだけで死んでるんだよな。まぁ、阿部さんがいうには明らかに少ない手で確実に殺したような死に方なんだと。だから組員の抗争の現場っていうよりも、殺しのプロが十何人の組員相手に大立ち振る舞いした現場って言った方がしっくりくるらしい」

 私の口からは「まぁ普通は気付いちゃうよね」と出そうになったが堪えた。

「つまり抗争じゃなかったってこと?」

「うん、まぁ、現場にいたお前がヤクザが殺し合いを始めたっていうならそれが真実なんだろうけどな」

「……でも私、よく覚えてない、というかちゃんと見てないし」

「まぁそうだよな。上の人たちは組員の抗争としか考えてないみたいだしな。と言うかそう考えた方が楽だからなんだろうけど」

「例えば、ヤクザの人達の中に殺しのプロって人がいるんじゃないの?その人が皆を殺しちゃったとか」

「その可能性は大いにあるんだけどな。だとしたらその殺しのプロは誰なのかってことになるんだよ」

「どういうこと?」

「今回死んだ組員達の所属は全員が石橋組っていうグループで、石橋組の内部抗争だということは間違いなさそうなんだけど、その石橋組に話を聞いたら、もう壊滅状態で数人の幹部しか残ってないんだと。自分の組にはそんな殺しのプロなんか生き残ってないってさ」

「……うーん、じゃあ、あの現場で殺されたんじゃないの?」

「うん、そうだとしたらその殺しのプロはいったい誰に殺されたのかっていう疑問が残るんだよな。大人数を相手に出来るような殺しのプロは一端の組員に殺されないだろ?」

「確かに」

 私が呟くとすでに私達の乗った車は兄の勤務先の警察署に到着していた。兄は「じゃあサンキューな」と言い終わる前に車から飛び出た。しかし慌てた様子で直ぐに戻ってくる。

「また阿部さんから何か連絡あるかもしれないから、その時はよろしく。あ、あと誰にも言うなよ」

 早口で言った兄は腕時計を確認し、警察署へ全速力で向かった。時間的には間に合いそうだった。


 警察署から出て車を走らせた私は、朝の通勤ラッシュの渋滞を横目に伯父さんのマンションへと向かっていた。

 警察に疑われるにしろ、石橋組に恨まれるにしろ、とりあえずは伯父さんと直接コンタクトを取らないことには、私はどうしていればいいか分からない。


 アイボリー色の10階建てのマンションは周りのマンションやアパートと隣接しておらず、両隣は更地でまさにポツンと建っていると表現するにふさわしい立地だった。

 マンションというよりは大きめのアパートといった方がしっくりくるだろう。マンションの築年数はだいたい15年程度であり、新築のマンションと言うには、少しアイボリー色がくすんでいた。

 玄関の自動ドアを通ると目の前にはもう一つの自動ドアが出迎える。入り口から見て奥の自動ドアは横についているダイヤルキーで暗証番号を押すか、居室番号を押した後で、ダイヤルキーについている電話の受話器のボタンを押して中の住人が開ければ中に入ることができる。


 私はいくつも並んだ郵便受けを横目にダイヤルキーを押した。「0101」。伯父さんによると「礼一、礼一」ということらしいが、安直過ぎる暗証番号に呆れてしまう。

 自動ドアが開き中へ入った私はエレベーターに乗った。

 相変わらずここは耳を澄ましても雑音一つなく、居心地が良かった。10のボタンを押す。微かな機械音と共に私の体が重力に逆らう。

 今朝も早く目が覚めてしまったからか丁度昼前のこの時間が眠たい。あくびが終わるのと同時に10階に着き、エレベーターの駆動音よりも無機質な女性の声が10階だということを改めて教えてくれた。

 エレベーターを降りた私は右の廊下に進み、一番手前の部屋のチャイムを押した。鍵が開く音がし、中から伯父さんが顔を出す。

「よぉ」とあっけらかんとした挨拶はいつもよりもトーンが高い気がした。伯父さんは私を中へ招き入れる。

「久しぶりだな」

「そう? 連絡は取ってたじゃない」

「直接顔を見ないと心配だろ?」

 その言葉とは裏腹に、すぐに背中を向け作業に移った伯父さんのペースに飲まれるのは久々だった。

 

 薄暗い6畳の部屋にはスタンドライトが3つほどあるのみだった。床は書類や木箱が積まれており、かろうじて足の踏み場がある程度だった。

 伯父さんの部屋はいつも散らかっており、部屋に入った私は毎回片付けたくなる衝動に駆られており、終始ソワソワしてしまう。

 部屋の入り口から見て右側には壁に向かうように設置された長いテーブルに、銃やナイフ、ドライバーやネジなど様々な作業用の工具や武器などが散らかっていた。そのテーブルの中央を照らすように左右から高さの違うスタンドライトが設置されており、各スタンドライトからはアームが伸びていて伯父さんが作業する時に自ら手で動かして高さや角度を調節しているようだった。

 薄暗さに目が慣れてくると、部屋の壁一面に飾られた様々な形や大きさの銃が目に入り、テーブルの横にはゴミ箱のような大きさの箱には槍や日本刀、レイピア等が立てかかっていた。

 そして左側にはオフィスデスクと椅子が置いてあり、デスクの上に置いてある書類の山が今にも崩れそうだった。

 オフィスデスクの前の壁にはホワイトボードがあり、新聞のスクラップや資料が貼っていた。オフィスデスクの書類の山を照らすように作業台と同じように設置された3つ目のスタンドライトが見える。

 映画で見るような殺し屋の部屋をそのまま実現したかのような部屋からはわずかに加齢臭がしたが、それを伯父さんに伝えてあげようという優しさ、もしくは無慈悲さを私は持ち合わせていなかった。


 私はそのへんに倒れていた頑丈そうな木箱を起こし、その上で胡座をかく。

「石橋組はどうなったの?」

「無くなったな」

 作業をしながら当たり前のように言う伯父さんに驚く。 

「無くなった? どういうこと? まだ幹部がいるんじゃないの?」

「始末された。組長もろともな」

 始末された? 一体誰に? 誰が石橋組を消滅させた? 依頼は誰が? 一体何のために?

 様々な疑問が頭に思い浮かぶ。しかし、私の口から出た言葉は「……そう」という納得の出来ていない相槌だった。

 私は少し間をおいて口を開こうとした。しかし私が疑問を投げかければ伯父さんは答えてくれるだろうが、その答えを知った私はどうすればいいのだろうかと思った私は考えるだけ無駄な気がし、口を開くのを止めた。


 伯父さんはデスクの書類の山の中から一冊の資料を取り出し、眺めていた。

 私は木箱から降り伯父さんに近付く。後ろから覗き込むと伯父さんが手にしている資料は土木作業で使う粉砕機またはウッドチッパーと呼ばれる機械のカタログのようだと分かった。再び疑問符が浮かんだが私はそれを頭の中のスプーンでかき混ぜてゆっくり溶かした。

 伯父さんはおでこを掻きながら溜め息と共に資料を戻した。

 伯父さんの手によってデスクの書類の山の一部と化した粉砕機のカタログは、他の書類と混ざりあってしまい、いつの間にか神隠しにあったかように、書類の山の中で行方知れずになってしまった。

「警察はなんか言ってたか?」

 伯父さんはデスクに置いてあった、いつ開けたものかも分からない埃だらけの缶コーヒーを飲みながら私に尋ねる。

「……殺し屋がやった的なことを勘繰ってる人がいるみたい」

 私は壁にかかっている短機関銃や小銃をひとつひとつ手に取り、様々な角度から眺めたり、構えたりしていた。

「だろうな。あれだけ荒らしたら証拠はたくさん見つかるだろうな」

 銃を置いた私は伯父さんの方を見る。薄暗い中でスタンドライトの光が書類の山と伯父さんに影を作る。

「現場、行ったの?」

「いや、礼斗に写真見せてもらった」

 今朝は捜査情報を教えることを渋ったり、誰にも言うなよとか言ってたくせに、一番口が軽いのは兄では無いか、と辟易した。

「でも、しょうがないでしょ? あの時は仕事じゃ無いし、普通に映画見に行っただけだったんだから」

 伯父さんは私の弁明に耳を貸していないようでニヤついていた。

「休みの日でもアイスピックは持ってるんだな」

「……」

 痛い所を突かれた私はぐうの音も出なかった。

「こ、心掛けが良いって言ってよ」

 必死の見栄も、どもってしまったことでさらに滑稽に見えてしまった。「分かったよ」と手で空中を払うような動作をしながら伯父さんは答える。

 私は続けて質問を投げる。

「警察はどうするの? なにか手を打つ?」

「いや、大丈夫だろう。警察はそんな面倒くさいことに手は掛けないし、石橋組の抗争で、相打ちって線で決まりだ」

「そんな悠長なこと言って、また佐渡さんの時みたいなことになったらどうすんの?」

「そんときはそんとき」

 ……全く。伯父さんの言う「そんとき」に出くわして身を削るのは私で、後処理をしなきゃいけないのも私なんだと強く訴えたかったが止めた。

 訴えなかった理由は遠慮した訳でも、優しさでもなく、私の耳がマンションの玄関の自動ドアが開く音を察知したからだ。

 私は聴覚の尻尾を踏まれたような悪寒を感じた。目で伯父さんに訴える。


「──どうした?」

 伯父さんはいつもより声のトーンを低くして私に訊く。

「誰か来た。玄関の自動ドアが開いた」

「今日は誰も来ないはずだけどな……」

「郵便?」

「いや、だったら送り主はまず俺に連絡するようになってるはずなんだよ……」

 その瞬間、玄関のチャイム音が鳴り響く。伯父さんは部屋の入り口近くにある受話器を取った。伯父さんが私の横を通る瞬間、ふと横目で見た伯父さんの顔が仕事の時の顔になっているのに気付いた。

「──はい」

 警戒心剥き出しの低い声からは先ほどのあっけらかんとした姿が想像つかなかった。私は耳に集中し、受話器越しの声を聞く。

「すみません。宅配便です」

 伯父さんからノイズを感じ取る。そして受話器越しの女性の声からは伯父さんのノイズよりも酷くうるさいノイズを感じ取った。私と同様に伯父さんの心拍が少し上がった。


 受話器越しの声からノイズが聞こえたのも怪しいが、なによりこのマンションに宅配に来た時点で、いやそれよりも前に、このマンションに立ち入る時点で怪しい。

 なぜなら、このマンションには伯父さんしか住んでおらず、全て伯父さんが使用している部屋しか無いからだ。だから宅配が来る時は事前に伯父さんに知らせが入るようになっている。にも関わらず、宅配便が来るなんてことは非常に怪しい。

 10階建てのこのマンションは1階〜5階までの全居室が資材置き場になっており、6階はワンフロアごと射撃訓練場になっている。7〜9階の全居室は作業スペースになっており、旋盤や電気溶接等の様々な作業が行える部屋となっている。

 そして、10階は唯一の居住空間になっており、今いる伯父さんの部屋の他にもう2つ部屋があり、私が仕事で使う荷物が置いてある部屋と、私が自由に使っている部屋が一つずつ存在している。さらにその他にも何部屋かあるが私は見たことが無いため、その用途を知らない。

 つまり伯父さんと私以外の人間がこのマンションで生活出来る程の隙間は全く無く、ましてや不審者が訪ねてくる隙なんかこれっぽっちだって無いのだ。

 そんな隙を縫って入ってきた不審者が、いま自動ドアの前におそらく宅配便の格好をして待っている。私達の非常用アラームが機能しないはずが無い。

「──私が行ってくる」

 伯父さんの部屋を出た私の後を追って、伯父さんも続く。

「俺も行く」

 ただならぬノイズを身に纏った二人がマンションの廊下を闊歩しているように見えるだろうか。仕事モードのスイッチが入った私達はエレベーターを降りマンションの玄関まで向かった。

 私は耳に集中する。玄関に近付くにつれ把握できた事は二つだった。宅配便を名乗る不審者の心拍は79回/分とそこまで高揚していないこと。ノイズが入り混じった呼吸音から20代後半の女性だということ。


 伯父さんはダイヤルキーで開けられる方の自動ドアを通り、横に郵便受けが並んでいる玄関口で不審者を出迎えた。

 私は一階の廊下で、入り口側の自動ドアから見えない場所かつ、いつでも自動ドアをぶち破って不審者に飛び込める位置に身を屈める。

「こんにちは」

 女性の声からは無理矢理取り繕った微笑みの音がした。伯父さんが彼女を一瞥したその瞬間、ぷつりと途切れるように伯父さんからのノイズが消えた。

「……おぉ、誰かと思えば、お前はねずみのところの」

 伯父さんの警戒心が一気に緩む。

「はい、無駄にお久しぶりです」

 彼女の無駄の使い方が気になったが、それよりも気になったのは彼女の格好だった。

 よく見る黒い猫が目印の宅配会社の制服を着用してるが、彼女の豊満な胸のせいでコスプレに見えるのは気のせいだろうか。

 彼女の言葉を借りるならば無駄にスタイルが良く、眼鏡をかけた奥の顔つきは無駄に凛々しく、帽子で隠された少しウェーブのかかった黒髪からは無駄に綺麗に手入れのされた印象を受け、配達員としては無駄に不釣り合いだった。

 さらに腰に差した長さ35cm程度の木製の柄のない杖のような物が違和感を放つ。足が悪そうにも見えないし、そもそも杖をつくには杖自体が小さ過ぎるなと感じる。

 伯父さんはそれが目に入っていないのか、違和感を感じている様子もなく答えた。

「どうした?」

「社長からのお便りです。無駄に届けにきました」

 伯父さんのノイズは無くなったが、彼女からの酷くうるさいノイズは止まなかった。

「なんでわざわざ? 郵便でいいだろうに」

「ええ。私もそう思いますが、社長のご意向ですので。無駄にしないでください」

「古臭いやつだからな、鼠は。でもわざわざなんで無駄ちゃんが? お便りだったらヤギでも羊でもいいのに」

 羊は手紙を届けないだろうに。彼女も伯父さんのくだらない冗談に苦笑いをするかと思いきや、無表情で続けた言葉は私には意味が分からないものだった。

「ヤギなんて人は居ませんし、羊は起きません。無駄に忙しい私が無駄に来ました」

 なんのことを言っているか分からないが伯父さんには理解できたのだろう。伯父さんは突っ込むことなく続けた。

「で、便りって?」

「あぁ、すみません。こちらです。無駄にしないよう、お受け取りください」

 彼女の手から封筒のような物を受け取った伯父さんは何かを思いついたようでニヤけていた。

雌牛めうしさんからお手紙ついた」

「はい? 無駄に違います。私では無く社長です」

 彼女は眉をハの字にしながら答える。その言葉から発されるノイズが突発的に音量を上げた。

 それにしても雌牛とはなんだろうか? 私には理解できない会話ばかりだったために考えるのを止めたせいか、私は少し気が緩んでいた。

「では、無駄に長居してしまいました。失礼します。ありがとうございました。礼一様。それに耳人じじん様も」

 彼女が伯父さんにお辞儀をした後に私が身を伏せている方向にお辞儀をした。私は気が緩んでいたため、急に名指しをされ驚いてしまった。

 気付いていたのか……。教えてくれれば良いのにと思いながら、馬鹿正直に身を隠している自分が少し恥ずかしかった。

「あいつの名前は礼央だ」

 恥ずかしくなっている私にお構い無しで伯父さんは彼女に注意した。

「そうでしたか。無駄に失礼しました。では、礼央様」

 廊下に隠れている私に再度お辞儀をした彼女は一瞬にしてこのマンションの玄関口から音もなく消えた。

 足早に帰ったという誇張の表現ではなく、間違いなく彼女は消えた。一瞬にして影も形もなく彼女の酷くうるさいノイズと共に消え去ってしまった。


 私は瞬きを何度かしたが見間違いじゃなかったようだ。玄関口には伯父さんの心拍音だけが響く。

 足音も無くここを立ち去った彼女は何者なのだろうか。

 鼠とは、雌牛とはなんのことだろうか。伯父さんに聞いてしまえば答えを教えてくれそうだが、余計な考え事を増やしたくない私は、またしても疑問符を頭の中のスプーンでかき混ぜた。

 答えを知ってもどうしようも無いことは分かっている。それを知ったところで私は何も出来ないかも知れないし、何かをする必要もないのかも知れない。それはまさに無駄なことだなと私は思った。

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