12「唐揚げ」

 警察官からの事情聴取の数日後、私は退院することになった。

 左肩の傷はもう塞がっており、痛みもない。ここ数週間はやたら病室にいたなとぼんやり考えながら退院の準備をした。


 病院まで迎えに来たのは父だった。

 病室の窓からやけに聞き覚えのあるエンジン音が聞こえるなと外を眺めれば、見覚えのある真っ赤な流線的なフォルムをしているスポーツカーの「RE5i」が大学病院の駐車場に入ってくるのが見えた。

 今日が退院日と認識していた私はなぜ退院の日に父が見舞いに来るのか、と頭に疑問符を掲げていたが、午前中に病室に検温に来た看護師からの「今日のお迎えは誰が来るんですか?」という言葉を思い出し、父が退院の送迎をしてくれるのかと気がついた。

 しかし、退院の送迎に真っ赤なスポーツカーで来るとは父も私と同じく少しネジが外れているのかもしれない。

 私は大学病院から家に向かうまで車でどのくらいの時間がかかるか分からなかったが、数分間だけだとしてもあの真っ赤で流線的な空間に二人きりでいるのはとても気まずいことだけは分かっていた。

 あそこの車は別の誰かの物であれ、と強く願っていた私であったが、あの真っ赤な「RE5i」は「SATO」の最新作の車で、日本でも2〜3台しか出回っていないという兄の話を思い出したのは、肩幅の広いやけに馴れ馴れしい人間が病室に入って来た瞬間だった。

「よぉ」と右手を挙げ呑気な挨拶をした父の姿は伯父さんと重なる。性格と待ち遠しさの度合いが正反対だったが、やはり兄弟なんだなと思わざるを得なかった。


「散々だったな。もう大丈夫なのか?」

 助手席にいる私に父は話しかける。座席は例の映画館の席よりも、伯父さんの軽トラの助手席よりも高級感が溢れていて居心地が悪かった。

「うん。伯父さんはどうしたの?」

 助手席の窓を少し開ける。風が舞い込んできて私のショートボブが勢いよくなびく。いっそのこと、この吹き込んできた風で「気」の「まずさ」を吹き飛ばしてくれればと思った。

「さぁ? 何してんだろうな?」

 風の音がうるさかったが、父のか細いながらもよく通る声は私の耳に入った。

「──そう」

 その後は家に着くまで沈黙が続いた。

 眠りもせず、スマホをいじったりして時間を潰さなかったのは、ここでコミュニケーションをシャットアウトすればなんだか負けた気がすると思ったからだ。この空間で私は「私は全然気まずくないですよ、家に着くまでの時間なんか気にしてないですよ」と思っている方が勝者なのだと思い込んでおり、さらに言えば「勝者? 敗者? 気まずい? なんのこと?」くらいの境地に立てていれば最強だなと思い込んでいる。

 一体何と戦っているのか自分でも分からなくなるが、今はこの真っ赤な流線的な空間において目の前に出てきた、まずい「気」と格闘することで精一杯だった。


 家につくと礼奈が玄関まで走ってきた。足音ではしゃいでいるのが分かる。

「ねぇ! ねぇ! 警察の人から事情聴取されたんだって!?」

 礼奈の目は嬉々としていた。挨拶もせず私の左腕を引っ張る。左肩は痛くなかったが、意外と強い力で引っ張られたため、私は少し顔をしかめる。

「あ、ごめん」

 礼奈はすぐに表情を切り替え、私の左腕を離し謝罪した。後ろから母がやってくる。

「礼奈! お姉ちゃんは病み上がりなんだからそっとしてあげなさい」

 まるで幼稚園児を叱るかのように礼奈を注意した母は私をリビングへ案内する。テーブルには夕飯が準備されており、すでに祖父母が座っていた。


「おかえり」

 祖母の私を見つめる目はいつになく穏やかだった。

 祖父も「大変だったなぁ」と私を労ってくれた。礼奈と母が席に付き、遅れて父も席についた。どうやら兄は今日はいないらしい。

「それじゃあ、いただきます」

 祖母のいつもの掛け声は、私の耳を通り脳内に入り込み、安心という分泌物を生んだ。

 その後も食事中は礼奈の質問攻めにあった。警察官はどんな人だったのかや、事件の様子、本物の銃の感触について根掘り葉掘り聞かれた。話半分に聞いていたが、当時の状況を思い出すにつれ、連鎖的に映画館につく前の潰れたコンビニを思い出し、さらに潰れた肉屋と買い物帰りに買ってもらったコロッケのことを思い出した私は礼奈からの質問を回避するために話題を変えた。


「そういえばあのお肉屋さんの後にできたコンビニ、潰れてたよ」

 私は母に話す。

「あのお肉屋さんって、佐野さんのところの?」

 祖母が会話に入る。

「そう、前に無くなってファミレスになってからまた潰れてコンビニになったでしょ? そのコンビニも潰れてた」

「へぇ、コンビニって潰れるんだ」

 礼奈が会話に入る。

「ねぇ、あのお肉屋さんで買い物帰りにコロッケ買ってくれたの覚えてる?」

 私は母に尋ねる。母は箸で掴んでいた唐揚げを口に入れ、しばらく視線を右上に向け記憶を辿っているようだった。しかし母の答えは私の予想とは違っていた。

「知らない。そんなことしたっけ?」

「え? 覚えて無いの?」

「覚えて無いも何も、あんまり礼央と二人だけで買い物したことないんじゃないかな……」

 そうだったか? いや、でも確かにそう言われれば母と二人だけで買い物をした記憶はあまり無かった。買い物に行く時は母が一番小さい礼奈を必ず連れていて、兄か私のどちらかを連れていたことがほとんどだったように思える。

 じゃあ、あの記憶は…。

「じゃあ、おばあちゃんとじゃないの?」

 礼奈が口を挟む。すかさず祖母が答える。

「礼央と買い物したことは何回かあるけど、私は買い食いなんてはしたない事、教えないからねぇ。夏子さんじゃ無いのかい?」

 確かにそうだ。祖母はそんなことを子供の前でやらない。

「確かに」

 同じことを思った礼奈は呟き、箸を止め口を窄ませる。そして窄ませた口を開く。

「じゃあ、伯父さんとか? お姉ちゃんと伯父さんはいつも一緒にいるイメージだし」

 可能性は高いなと我ながらに思ったが、不思議と伯父さんと一緒に道を歩く、といった記憶はどこを探しても見つからなかった。

 母が口を開く。

「でも、伯父さんは車が好きだからねぇ、礼央と出掛ける時は必ずあの軽トラで行くんじゃない?」

 なるほど。鋭い意見をいった母は澄ました顔で味噌汁を啜った。

「なるほど。それもそうか」

 母の言葉に納得した礼奈は腕組みして頷く。

 しばらく沈黙が続きおそらく各々が私のあの記憶に該当する人物を思い浮かべていた。すると思わぬ伏兵が会話に入ってきた。

「それ多分俺」

 家族皆が一斉に父の方へ向く。

 父はそれに気付いておらず、白米を口に運んでいたがふと視線を上げ、皆を一瞥して何事も無かったかのように食事を続けた。

「え? ちょっと待って。お姉ちゃんがお父さんと二人で買い物したことあるの?」

 驚きを隠せないのは礼奈も同じだったようだ。

 父と二人だけで買い物をして、さらには肉屋でコロッケを買って食べながら二人仲良く家に帰ったなんてことあるのか? とにわかには信じ難かった。

「え、嘘でしょ?」

 私は父に尋ねる。父は視線を上げずに「いいや」と即答した。さらに母が続ける。

「あぁ、そうね。お父さんだわ。お父さんの休みの日に買い物お願いしたら、礼央、いつもついて行ってたもん」

 あっけらかんと言った母は昔を懐かしみ微笑んでいた。

「……そう、なの?」

 私は再び父に尋ねたが、帰ってきたのは先ほどと同じトーンの「うん」という返事だった。

「──でも伯父さんみたいに、お父さんとでも車で出掛けるんじゃないの?」

 私は目の前に本人がいるのにも関わらず、なぜか母に訊いた。

「え? お父さん、車で出掛けるの好きじゃないものね。仕事の時以外はいつも歩きか自転車か電車よ?」

 父は自動車メーカーの代表取締役社長なのに車に乗るのが好きでは無いという事実よりも、それを当たり前の事のように言う母に驚いた。

「え、そうなの?」

 今度は礼奈が父に尋ねたが先ほどと同じく「うん」と即答された。どうやら質問の相手で返事が変化することも無いようだ。

「いやいや、ちょっと待って。買い物が終わってお肉屋さんに寄ってコロッケ買って、皆には内緒だって言ってたのって本当にお父さんなの?」

 私は自分でも状況を整理するように丁寧に口に出し、父に尋ねる。

「うん」

 三度目の父の返事は少しトーンが高かった。しかし何事もきっちりこなして「冷徹社長」と言われる程の父が私とそんな子供っぽい事をしていたなんて全く信じられない。

 今でも父との二人きりの空間はあんなにも気まずいのに、昔は二人きりで買い物をして、帰りにコロッケを買食いをして「皆には内緒だよ」なんて言われて嬉しがってた私がいるなんて考えられなかった。

 さらにその父との記憶が私の中で大切に眠っている事が何よりも驚きだった。てっきり母との記憶かと思っていたがまさか父との記憶だったとは。

 何度も上塗りされて厚くなった手の感触は、まさか父と繋いだ手の感触だったとは。


 私はいつから父との二人きりの空間が苦手になったのだろう。小学生の頃は大丈夫だった、と思う。多分中学生から苦手になったような気はする。

 隠し事が増え始めた中学生時代は兄や母とでさえも接するのが気まずくなっていた。自分を取り巻く環境が、見知らぬ他人と仲良くしなければいけない環境に変化し、当時の私の社交性は、急に上がってしまったギアのせいでエンストを起こしかけた。

 あの時の心の拠り所である伯父さんとだけは今でも変わらず気楽に接することが出来る。当時距離を置いていた兄とは、彼が警察に就職してから徐々に私との会話が増えた。お互い大人になってから、世知辛い社会と戦う戦友のように思い始めたのだと思う。

 母は私が生まれた時から相変わらず独り言のように私に話しかけてくるため、私も無理やり返事をしていたが、それもいつの間にか母のペースに飲まれ、何気なく会話できる関係になっていた。

 私は当時、もう中学生になる前の関係性には戻れないと思っていた。確かにそれは間違ってはいなかったが、成人を超えた今、当時の関係性とはまた違うベクトルの接し方が出来ている気がする。

 しかし、あまり家に居らず、家にいても会うことない父との関係性は中学生の時の私のままで、何かのきっかけで自然と会話できるような機会も無いまま今に至っているのかもしれない。

 中学生になる前はどんな感じで父と接していたのだろうか。父といる時の私は時間を止めたかのように中学生のままで留めておくにも関わらず、悲しいことに、時間は私の身体だけを23歳に老けさせたままだった。小学生の記憶など無いに等しい。

 何度自分の中で父の「それ多分俺」という言葉を思い出すたびに、当時の私は父と仲良くしていたんだと思うと、録音された寝言を聞かされたように恥ずかしくなった。


 昨日の驚きはボディーブローのように効き、次の日の朝まで持ち越された。

 起きた瞬間にふと自分の両手を眺める。握られた手の感触を思い出す。

 コロッケの味はやはり思い出せなかったが、あれは父の手だったのかと昨日何度も反芻した言葉をもう一度繰り返す。

 私は、大人になるにつれて何度も記憶が塗り替えられても無くならない塗膜が分厚くなった手の感触を、父との二人だけの空間の気まずさに重ね、とりあえず大事にしておくことにして一旦区切りをつけ、記憶の上の方の引き出しに片付けておいた。

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