9「沢庵《たくあん》」

 迎えに来た伯父さんの軽トラに乗り、私は佐藤家と向かった。あの日以来、私の頭の中で奏でていた7番のスマホのタッピングのリズムは、伯父さんの軽トラのドアを閉めた音を合図にピタリと止んだ。

 伯父さんは私の怪我について、いくつか質問した後、自分の中で納得するように小さく何度か頷いていた。一方、私はというと、伯父さんの質問に対して少ない言葉で返すばかりで能動的な話はしなかった。

 軽トラの助手席にもたれると治りかけている背中の傷が押し付けられ、違和感を感じた。その違和感を気にしながら目を瞑っていると、軽トラのエンジン音が妙に腰に響いて心地良かったのか、私はいつの間にか眠りに落ちていた。


 佐藤家に着く頃になると、助手席を照らし始めた夕日の黄色が私の瞼の奥に届いて目が覚めた。

 ぼーっとした頭で辺りを眺めると、普段見かける黄金の稲穂でいっぱいだったり、稲が刈り取られ荒れ地のように何も無かったりする田園や、一昨年出来たばかりの駐車場の大きなコンビニを見かけ、乗っている軽トラが着実に佐藤家に近付いていることを確認する。

 そんな見慣れたこの道の光景が強制的に私を3番から礼央に切り替えるスイッチを押した。その音が、軽トラのエンジン音と伯父さんの呼吸音を一瞬掻き消したような気がした。そして私の心拍が68回/分と落ち着いていることに気付く。

 佐藤家に帰ってくると母と祖母が夕飯の用意をしていた。「ただいま」と声をかけると、キッチンにいた私の母は「おかえり。大変だったでしょ?」と夕飯の支度をしながら私の姿を確認することなく返事をした。伯父さん曰く私は伯父さんのアルバイトの手伝いのため、数日間で泊りで仕事をしてきたことになっているらしい。私を送ってくれた伯父さんは「じゃあこれで」と足早に帰ってしまった。祖母が佐藤家にいる時は居心地が悪いらしく、好んで佐藤家に足を踏み入れない。

「泊りなら言ってくれればよかったのに」

 母は完成した夕飯のおかずをキッチンからリビングに運ぶために、何度か往復しながら私に声をかけた。

「ごめん」

「とりあえず手、洗ってきなさい。あ、あと礼奈呼んできて」

「うん」

 まるで小学校低学年の子供が帰ってきた時のような会話をしたあと、私は礼奈を呼ぶために2階に上がった。

 2階の廊下には、右から兄、私、礼奈の順番で小学校の頃の図画工作で描いた、抽象画にも見えるどこか別々の場所の風景画が3枚並んで飾ってある。

 礼奈の部屋に向かうと、居室の扉には小さな看板がかかっており、そこには筆記体のアルファベットで「reina」と書かれていた。礼奈の年齢には似合わない、おしゃれな看板をつけた扉には背伸びをしているような印象を持っていた。それをノックする。

「礼奈」

 声かけに返事はなかった。もう一度ノックしようとしたタイミングでドアノブが回り、礼奈が扉を開けた。

「あ、おかえり。どうしたの?」

 礼奈は学校から帰ってきて制服から着替えたようだ。上はグレー、下は黒いスウェットを着ており、片方のイヤホンを外しスマホを触りながら扉を開けた礼奈は、私を一瞥するとまたスマホをいじり始めた。

「ご飯出来たって」

「あ、そう。もうすぐいく」

 そう言って礼奈は扉を閉め、再び居室に戻ってしまった。

「……もう出来た、って言ってるのに」

 私が漏らした言葉は2階の廊下に反響することなく、背伸びをしている印象を受ける扉にも跳ね返らず、床に落ちる前に静かに消えた。

 階段を降り、リビングに向かうと祖母がすでに夕飯が用意されたテーブルの椅子に腰掛けており「礼奈は?」と尋ねてきた。私が何も言わず首を横に振ると、祖母は「もう」と少し呆れたようだった。私は祖母の目の前の席に座る。

「お父さんは?」

 祖母に尋ねたが先ほどの私と同じように何も言わず、首を横に振った。

「今日は遅くなるって」

 夕飯をテーブルに並べ終えた母が答えた。そのまま席に着くかと思いきやリビングに続いている和室に向かい、祖父を呼んだ。

「お義父とうさん、ご飯出来ましたよ」

「はーい」

 まるで小学生のような返事に似つかわしくない、白髪で彫りの深い顔の祖父が和室から出てきた。少し腰が曲がっているが肩幅の広い肉厚な体型は80代の高齢者とは思えないなといつも思う。そして、祖父と同じような肩幅の広い肉厚な体型の人間が、ここにはあと二人いると思うと広いはずの我が家が窮屈に感じた。

 祖父は自分の指定席である祖母の右隣に座った。母は祖父を呼んだ足で階段まで向かい、階段の下から礼奈を呼んだ。礼奈は「今行く」と大声で返事したが、足音を立てないどころか、その場から微動だにしていないのを私の耳は察知していた。

 母が私の左の席に着いたところで玄関が開いた音がした。兄が帰ってきたのがわかった。

「ただいま」と言いながらコートを脱いだ兄は手を洗ってから私の右の席に着いた。肩幅の広い体のせいで食卓が急に狭くなったように感じた。

「おかえり」と頬杖をついたまま言うと兄は微かな声で「おう」と返事するだけだった。


「はい、じゃあいただきます」

 祖母のその掛け声は昔から変わらない。佐藤家では昔から家族が揃ってから祖母のいただきますを合図に皆で食事するのが決まりごとだった。

 私達兄弟がまだ子供であるな躾のためだとわかるが、大人になった今でも続いてるのは、誰かが辞めようと言わないからであり、誰もが辞めたいとも思ってないからだ。

 ちなみに以前「いただきますの合図がおじいちゃんじゃなく、なんでおばあちゃんなのか」と尋ねた時に、「私から始まった家族なんだから、私が先頭に立たなきゃ駄目でしょ?」とよく分からない理屈を話され、結局何故、いただきますの掛け声をするのが祖母なのかが分からないまま、その後の会話は途切れてしまった。

 

 お風呂に入った私は数日ぶりの湯船に昇天しそうだった。

「G.O.」の病室では毎日の体の清拭と2日に一回のシャワーしか出来なかった。入浴できないことに対して紫仁に文句を言うと「ずっとここにいたいならそうすればいい」とあしらわれた。

 数日前までは夜寝る前に汗や垢やらで体がベトベトしたままじゃ気持ち悪いと嘆いていたが、今日でその嘆きともおさらばだ。湯船に浸かる際、治りかけの背中と右足の傷がヒリヒリしたが、温かいお湯の気持ちよさが見事勝利した。

「あ、」

 浴室から出て体を拭いた私はドライヤーをかけながら、もしかして神田に体臭がキツいと思われていなかっただろうかと、ふと気になり、声が漏れてしまったがそれも全て水滴と共に乾かしてやった。


 お風呂から上がると、「一杯付き合え」と兄が晩酌を要求してきたので仕方なく、可愛い可愛い愛しの妹が付き合ってあげる事にした。

「なぁ、礼奈は彼氏いるのか?」

その肩幅のある体を体を丸めながら焼酎をちびちび呑み、夕飯の残りの沢庵をポリポリつまんでいる兄の背中は小さく見えた。夕飯の時は邪魔なくらい大きかったはずのに。

「知らない」

 私が冷蔵庫から出し、注いだのは数日前から定期的に母が作っているバナナオレだった。

 バナナオレのつまみが沢庵だとは不思議な組み合わせだったが、口が寂しいので一つだけつまんだ。

 異様に泡立っているバナナオレの泡を口につける私の姿は、何を飲んでいるか知らない人からすればビールだと勘違いしてしまうのではないかと思った。

「俺さ、子供の頃さ、沢庵ってこういう色のこういう食べ物かと思ってたんだよ」

 沢庵を一つ箸でつまみ上げ兄は呟く。

「は?」

 理解不能な兄の言葉を勢いよく突き飛ばす。

「いや、だからさ。沢庵ってこの黄色い棒状のまま自然界にあるもんだと勘違いしてたんだよな」

「……はぁ」

「で、味付けして食卓に出てくるもんだと思ってたけど違ったんだな。お前まさか大根だっただなんてな」

 目を細めながら労をねぎらうように、つまみ上げた沢庵に話し掛けた。

「だけどさ、人間も同じだと思うんだよ。私の知ってるあの人はずっとあの人のまま生きてきたって思い込んでいるけど、実は今のその人になるまでは長い道のりがあって、土から引き抜かれて、いいように形を揃えられて、ずっと漬けこまれて、袋に入れられてさ、それでやっと俺達の目の前に現れてるんだよな。例えばさ、俺の知っている親父やお袋は『俺が生まれてからの親父とお袋』で、俺が知らない『俺が生まれる前の親父とお袋』がいるのは当たり前なんだよな。まぁ、タイムスリップでもしない限り会えないんだけど」

 酔っているのか素面なのか判断できなかったが、兄が深いことを言っている自分に酔っているのは間違いなかった。それによくよく考えるとそんなに深い話ではないことに気付いた。


「で、お前は彼氏いるの?」

 何が「で、」なのかは分からなかったが、急に兄が沢庵の話から男女の話に切り替えてきたのは丁度私が沢庵を飲み込んだ時だった。

「……お兄ちゃんが知っている私は、お兄ちゃんと一緒にいる時の私だけでしょ?」

 飲み込んだはずの沢庵とバナナオレが胃から食道を通って喉までせり上がってきた。沢庵とバナナオレのゲップが出そうになったのを飲み込んだら口の中が酸っぱい何かでいっぱいになった。

 兄は丸めた背中を伸ばしてあくびをしながら「あ、そう」と全くと言っていいほど興味無く言った。そして急に視界に現れた母が私と兄が使った食器類を片付け始めた。

「明日は何時?」

 母はキッチンで私達が使った食器類を洗いながら私達に尋ねた。

「休み」

「同じく」

 キッチンの母に届くような声で答えた兄に続けて私も答えた。数秒の沈黙の後で「あ、そう」と母は先ほどの兄と同じくらい興味無さそうに返した。聞いといてその程度の興味かと思ったのは私だけでなかったようで、兄は小さく「聞くだけ聞いといて……」と反論したがその声は私にしか届いていなかった。


 私は階段を上がり自室へ向かった。階段を一段一段登る足音のリズムが何かに似ている気がした。

 なんだっけ? と思い出そうとしているとその正体が喉元まで出てきそうな気がしてきた私は、それを吐き出そうとうなだれているうちに気付けば自室のベッドに寝転がっていた。頭の中で先ほどの階段のリズムを再現する。タンタンタン。タンタンタン。

 しかし、一向に喉元から吐き出てくれないそれの正体にモヤモヤは募る一方だった。私はそのモヤモヤを掻き消すようにベッドに寝転がりながら、インスタに投稿されているパフェや夜景、知りもしないカップルのツーショットなんかをぼんやり眺めた。

 この投稿されている画像だけで世界が作られていたらどんなに幸せだろうかと思ったが、兄の沢庵の話がふと頭をよぎる。この投稿をしている人達がこの場所に行って、写真を撮って、加工して、インスタにあげるまでを私は知らない。

 これを投稿した人達が幸せなのか不幸せなのか、今生きてるのか死んでるのかはスクロールしても分かりっこない。このスマホに映し出されるのは、完成するまでの上下を切り取った画像のみであって、これらはずっとここにいたかのような顔で下から上にとめどなく流れていく。とめどなく流れる川の水を掬って飲んでしまっても誰も気付かないだろう。それと同じように、とめどなく流れる誰かの投稿が昨日で途切れていても誰も気付かないだろう。そしてそれが私のせいであることは誰も気付かないだろう。ふと、そう思い立った私は殺し屋とはそういう作業の一つなのかもしれないと自己弁護した。


 そしてそれは突然やってきた。

 喉元からモヤモヤの正体が顔を出した。

 あのリズムは7番がスマホを高速でタッピングしていたリズムに合わせ、私が「G.O.」の廊下を歩いたリズムと同じだった。そうだ、そうだった。

 タンタンタン、タンタンタン。

 私は耳の奥深くで残響するその音を出来るだけ正確に思い出す。やっぱりそうだ。間違いない。私はスッキリして少し嬉しくなり誰かに共有したい衝動に駆られ、インスタにでも投稿しようかと思ったが、どうやってこの一連の流れを投稿すれば良いのかと考えたところで手を止めた。そもそもこの感動を誰かに伝えたところで「あ、そう」とあしらわれそうな気がするし、何より私の詰まっていた何かがスポンと取れた体験でさえも、一度流れる川に放ってしまえばどこへ行ったかも、ほんの少しだけ嬉しかった感情でさえも一緒に流されてしまう気がして、私は寂しくなった。

 さらに私は、その7番がスマホをタッピングしたのが今日の出来事であったのに、自分でも思い出すのに苦労するくらい、3番と礼央の切り替えのスイッチは硬かったのかと思った。案外私は3番の存在から遠ざかることができているのかも知れない。

 さらに芋づる式で記憶は蘇る。

 礼奈に夕飯の声掛けをした時にイヤホンをしながらスマホをいじっていた姿が記憶の棚から落ちてきた。そしてその今どきの女子高校生を体現するかのような姿は、病室にいた7番の姿と重なる。

 礼奈と7番はきっと同世代だろう。しかし重なった姿が同世代に思えないと感じたのは7番の言葉遣いが「ぴえん」なだけでは無く、彼女達を見ている私の内側が3番か礼央なのかが原因なんだと、ベッドに寝転がった私は気付く。

 今、7番は何をしているだろうか。「働こGO」に依頼され、真っ暗な夜空の下で高速回転しながら誰かを始末しに行っている頃だろうか。3番が知らない7番を、礼央が知らない7番を、ほんの少しだけ私は知りたくなった。

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