6「獅子」

 聞き馴染みのある二人の歪なハーモーニーには心地の良ささえ感じた。

 ここ数年間でもう一度この耳に入れたい音ベスト10があるとするならば、少なくとも2位〜6位くらいには食い込むかもしれない。それくらい、この二人の会話や関係性は歪だが、妙な安心感と癖になるくすぐったさを、彼らに出会った当時から感じていた。

「あれれ〜? アッシー? 礼央にやられたん?」

 シンは右手を眉に平行につけ、遠くを覗くような動作で、神田の後ろで出血を抑えながら倒れないようにと踏ん張っている彼女に言う。シンのその動作から彼女を煽っているように感じた。

「部長。3番って聞いてないし、まじメンブレなんすけど」

 ほとんど息しか吐いていないと勘違いするほどの発声をシンに放つ。

 アッシーと呼ばれた彼女は余裕のない表情を浮かべ、釣り上がった大きな目でシンを睨む。彼女の睫毛がまばたきと同時に上下に揺れる。それはまるで花びらが揺れるようだと私は思った。

「シンちゃんでいいってばさ。ていうかアッシーのスーツ姿、似会ってなさすぎ」

 余裕のない彼女に心配の表情を微塵も浮かばせず、右手で口を押さえ、「ぷぷっ」と吹き出すようにシンは笑う。

明日あした、もう下がっていいぞ。『獅子の餌付けは老人から』だ。救護課の奴を何人か向かわせてるから待ってろ」

「……うっす」

 明日あしたとも呼ばれた彼女は、神田の独特なことわざを耳に入れていない様子だった。

 そして、彼女は出血を抑えながら、おぼつかない足で158号室を後にし15階の廊下の壁を背に座り込んだ。グレーのスーツの赤いシミは留まることなく膨張を続けていた。彼女は相変わらず苦痛の表情を浮かべ、痛みに耐えるように、意識して深呼吸をしているのが聞こえた。

「礼央。もう大丈夫だ。戦わなくていい」

 平穏を装っているようにも感じた神田の声からは、一切のノイズやハウリングを聞くことが出来なかった。はぐれものである私に対して敵意が全くないのは前々から感じていたが、こうも何も感情を向けられないと何か裏があるように感じて仕方ない。

「どういうことですか? そのは会社から私の始末を依頼されてたんじゃないんですか?」

「だからー、もういいんだってば。納得しろよ、頭固ぇなー。ジジイかよ」

 シンは右手を腰に当て、呆れたように吐き捨てる。

 彼女の仕草はいつも忙しい。両手が縦横無尽に動き回り、表情がコロコロと変化する。そして彼女からはいつも、私に対して不安定なノイズが聞こえる。いつハウリングしてもいいようなノイズがBGMのように彼女の放つ言葉の下で奏でられている。

 きっと彼女は私が嫌いなんだろう。神田とは違い、こうも分かりやすい敵意を向けられるとそれはそれで彼女に安心感を覚えてしまう。

 私はシンに一瞥をし、神田に疑問を投げかけるように見つめた。

「おい、無視すんなし」

 眉をハの字にしてシンは吐き捨てた。

「お前の始末は中止になった。というか俺がした。『振替輸送は受け入れろ』って言うだろ? というか、お前を始末するなんていくら一桁のやつでも無理だろ?」

 私は神田から視線を逸らした。

「まぁ、単なる職権乱用ってことだろ。でも確かにこのおっさんの言うように、れおちーの相手は1番くらいじゃなきゃ無理っしょ?」

 シンが喋りながら私の左側から回り込み神田の方へ歩く。彼女の大きな口が上下左右に動く。相変わらず彼女は表情も動作も声もコロコロとしている。

「あとは……」神田の右隣に並び、彼に視線をやりながらシンが続けて言う。

「こいつくらいか?」

「こいつくらいか?」


 シンと神田は二人とも互いを指差しながら、シンが続けるのと同じタイミングで神田が言う。

 シンと神田、二人の言葉がまたハモった。

 私は神田とシンを交互に何度も見遣った。そして数秒の沈黙を切り裂いたのは神田だった。

「つまりはそういうことだ。とりあえず今回はこっちに任せろ。処理も治療もこっちでやってやるから」

「はぁ? ちょっと待て、勝手なこと言うなよな、おっさん。処理とアッシーの治療は経費で落ちるけど、こいつの治療は落ちないぞ? つーか絶対落としてやるもんか」

「うるせぇ、キーキー喚くな。こいつに迷惑かけるってことは礼一さんに迷惑かけるってことだぞ? お前が会社を背負って礼一さんに喧嘩売るっていうなら別の話だけどな」

 シンは怪訝な顔をした。

「……ちっ、これだからいぬは」

「どうすんだよ、落とすのか、落とさねーのか。『天秤は上がるにも下がるにも待ってはくれない』ってな」

「……意味分かんねー。わかったよ、噛みつくな狗野郎いぬやろう。落としてやるよ、こいつの治療もこいつが始末したヤクザの処理も何もかも全部持ってこい。あたしがまとめて全部落としてやる。それでオールクリア、これでいいだろ?」

「話が分かるじゃねぇか。サンキュー、シンちゃん」

「あーうぜぇうぜぇ」

 シンは大きな目をグリグリ動かしながら癇癪を起こし、私に背を向けて158号室を後にした。

「アッシー、行くぞ。……ったく、お前ら派手に散らかしやがって。こんな酸っぱい現場、処理するのにいくらかかるんだ?」


 158号室から出た廊下の壁を背に長座位で座っていたアッシーと呼ばれた彼女を抱え、愚痴をこぼしたシンは口を塞ぐ事なく「あれがあんくらいで、こいつがこれくらいだろう……」と費用の計算をし、ブツブツ独り言を発し続けながら15階を後にした。それと同時にシンの不安定なハウリングは徐々に遠ざかっていった。

「酸っぱい? 塩素臭ぇのはしょっぱい味なんじゃないのか?」

 去り際のシンの言葉を耳にしていたようで神田は不思議そうな顔をして呟いた。その顔を見つめていると、子供のような幼さを感じ、そのあどけなさの深く暗緑色の森が神田の本性を神隠ししたように感じた。

「とりあえずついてこい。礼一さんにはもう伝えてある」

 そう言った神田の目は笑ってなかったが口角は上がっていた。

 私に一瞥すると床に突き刺さっていたサバイバルナイフを抜き、神田も私に背を向けて158号室を出ていった。右足と背中を負傷している私は楽に歩けなかったが、そこまで大した傷では無かったため、何とか15階からフロントへ向かうことが出来た。

 私の右足から流れ出た出血が158号室からフロントに向かう私の導線をくっきりと照らし出すように残ってしまったが、神田達が処理してくれるとのことだったため、気にもくれないで歩いた。駐車場には黒いハイエースが4〜5台停まっており、その後も何台かのハイエースが駐車場に入ってきた。

 一番近くにあったハイエースの後部座席に乗るように神田に指示された私は、右足を庇いながら乗り込む。中に入るとすでに伯父さんが乗り込んでおり「よぉ」と緊張感のない挨拶を交わされた。その声を聞いて一気に気が緩んでしまった私は溜め息とともに緊張や焦り、不安といったノイズを吐き出した。

 後部座席の背もたれに寄りかかったが、背中にはベッドと窓ガラスの破片がいくつも刺さって痛かったので少し前かがみで座っていた。

「1日何もなければ大丈夫って言ったの、誰?」

「まぁちょうど今が昨日から24時間だな」

 少量の怒りと不服を含んだ私に対して伯父さんは自身の腕時計を私に見せつけ、昨日の業務終了時間とほぼ同じ時刻を示しているのを私は前傾姿勢で確認した。

 鼻で笑った私を無視し、伯父さんは助手席に座った神田に話しかける。

「すまないね、佐渡の処理を頼んでしまって」

「お気遣いなく。もともと邪魔をしたのはこちらですから。それに……」

「それに?」

「……それに自分の知らないところで、礼一さん達に関わろうとしている会社の人間がいるってこと自体が問題ですから。逆にこちらの問題に付き合わせてしまって申し訳ないです」

「そう。まぁ、なんであれこうやって神田くんとまた仕事ができるのは嬉しいよ。夏子がいたら喜んでるだろうな」

「……自分とシンには姐さんが喜んでるかどうかは分かりませんよ」

「そう? 夏子はああ見えて意外と表情豊かだったんだけどな」

 伯父さんは遠くを見るように話した。私が座っている席からは神田の顔は見えなかったが、声からは哀しみと懐かしさとほんの少しばかりの恍惚を含んでいたのが耳で理解できた。


 私は知り合いであった佐渡を始末したことについてどう思ってるのか、伯父さんに聞こうと思ったが伯父さんも神田も黙り込んでしまったため、なかなか言い出せるタイミングが見つからず黙っていた。エンジン音と車体が軋む音、そしてタイヤがアスファルトを蹴る音だけがこの空間を支配した。

 黒のハイエースの行列が派遣会社「働こGO」内の組織の「G.O.」の施設に着いた頃には、0時を過ぎていた。

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