5「ワニ」

 私はゴキブリホイホイの中ではなく、周囲を見渡す。

 まずは先ほど私が侵入するために割ったベランダの窓、次は158号室の扉。しかし扉には鍵が掛かっている。さらに浴室には誰もいないことを洗面台にバスタオルを持ってきた時に確認済みだ。消去法で何者かが来るならばベランダの窓からであることは、火を見るより明らかだ。

 問題はどのタイミングで、どのように侵入してくるかだ。

 私は自分の耳に集中した。ハウリングはまだ一定の音量を保っている。近付いても離れてもいない。さらに集中する。ハウリングの湖の中に小石が落ちる音の大きと同じくらいの息を吸う音が聞こえた。それと同時にハウリングの音量が一気に上昇していく。

 凄まじい衝撃音が聞こえたのは後ろからだった。


 私が振り向くよりも早く、ベランダから衝撃音がした方へと一気に風が通り過ぎ、私の黒い長髪が誰かに引っ張られると勘違いするほどの力でなびいた。風の音が耳障りで衝撃音の正体への集中が途切れそうになる。


 振り向いた方向から、もう一度大きく深呼吸する音が聞こえた。その後に人間が力んだ時に漏れるような発声が聞こえた。

 その刹那、何かを蹴るにしては暴力的すぎる爆音が聞こえ、が、こちらに凄まじい速さで向かってくるのが見えた。

 高速で回転しているため、視覚的には何が迫ってきてるのか理解できない。しかしそれと同じ速度でハウリングの発生源が近付いている。

 間違いない。こいつだ。ゴキブリホイホイにかかったゴキブリが粘着質の罠をかいくぐるよりも早い、段違いのスピードで獲物は近付いてきた。こいつだ。こいつが佐渡のハウリングの正体だ。


 私は左方向にあるシングルベッドの方へ飛び移った。

 爆発と聞き違えるほどの衝撃音がした後、高速で私に向かってきた何かは、私が割ったベランダの窓にさらに大きな穴を開け通り過ぎる。

 そして、それはベランダで回転を弱め、着地と呼ぶには暴発といった方がふさわしいほどの衝撃音を部屋中に響かせた。そして、先ほど私が飛び移る前にいた床には、何か大きな刃物で切り刻まれたような跡が何箇所も重なっていた。あのまま留まっていたり、ほんの少しでも触れていたと考えると恐ろしい。

 ベランダで暴発したものを、私はベッドの上に膝立ちになり凝視する。ムクッと起き上がったそれは月明かりに照らされ、人間の形をしているのがわかった。

 しかし、その人間の形をしているものは、人間と呼ぶには両手が長く、先端に半円を描く輪郭が見えた。人間じゃないと判断したのは誤りだったと理解したのは、それから心拍と呼吸音が聞こえたからである。間違いない。異形ではあるものの、確実に人間だ。


 月の光に目が慣れてきて、こちらを向いたそれと目が合った瞬間、ハウリングは今まで以上の音量を上げ、一瞬耳鳴りを起こしたが、少しづつ一定の音量に治まってきていた。さらに目が合うことで、それの正体が女性であることが認識できた。

 陰で分からなかった、両手が長く半円の輪郭を描いていたものの正体は、片手で扱えるほどの大きさの斧を一つずつ両手で持っていると認識できた。

 その女性の肩まで軽くパーマのかかった黒い髪と、綺麗に切り揃えられた前髪が風になびいていた。ぷっくりした唇が光で照らされ、ほんの少し釣り上がった大きな目が私の姿を捉えていた。グレーのスーツを身にまとっていた彼女の顔つきからは、スーツを着るには似合わない幼さを感じた。

 

 彼女は深呼吸をするのと同時に両手に持つ斧を胸の位置で交差するように構え、刃先を私に向けた。落ち着いたはずの彼女のハウリングの音量はさらに大きくなり、耳鳴りを引き起こす。

 彼女は中腰になって力んだ瞬間、。と勘違いするほどの勢いで。そしてベッドの上で膝立ちになっている私に向かって、斧を構えたまま全身を軸に、ドリルのように高速で回転をしながら飛び込んできた。

 私は佐渡をアイスピックで始末した場所である玄関の扉付近に飛び移り、回避した。

 高速回転を躱したと思ったが少しタイミングが遅かったのか、私の右足のふくらはぎに5cm大の裂傷が2〜3箇所ほど出来ていた。作業服のズボンが切り刻まれており素肌が見え、裂傷部から出血しているのが確認できた。思ったよりも傷は深く、ふくらはぎの肉が私に向かって挨拶を交わしてきた。その生々しい怪我を目視した後、痛みが襲ってくる。

 目の前に目を向けると158号室から廊下が見えていた。部屋の扉は室内側に倒れていたために廊下が丸見えだった。扉の中心部は大きな亀裂が入っており、何かに思い切り突進されたような傷跡を残していた。その傷跡を目に入れ、初めて私は玄関付近からした衝撃音の正体は、彼女が勢い良く扉を倒して室内に侵入した際の音だったと察した。


 彼女が私のいた場所に向かって高速回転をしたために、凄まじい音を立てながらベッドのクッションは切り刻まれ、着地した衝撃でベッドの土台は粉々に破壊された。破片が周囲に飛び散る。

 切り刻まれたベッドのクッションは原型を留めておらず、綿が虚しく飛び出ており、所々、針金よりも少し太い金属のスプリングが覗いていた。さらには私が初めに割ったベランダの窓は、計3回目の衝撃に耐えられるはずも無く、跡形もなく窓の枠だけが残っていおり、ガラスが散らばり粉々に破壊されたベッドの土台の破片と混ざり合い、私たちのいる部屋の面積の大半は足の踏み場がなくなっていた。

「ちっ」

 舌打ちをした音が聞こえた。高速回転をした彼女が粉々になったベッドの破片を下敷きに起き上がった。

「誰? 会社の人間?」

 右足の痛みをじわじわと感じ、血液が床に垂れる音が聞こえるが、私は彼女と会話を試みる。

「つか、耳人じじんって女の人だったんすね」

 やる気のないような息の多い独特の発声で彼女は話した。

「『耳人』って呼ぶってことは、会社の人間? まぁ、斧持って回転してくる時点で察しはついてたけれど」

「……それな」

 鼻で笑うように彼女は同意した。少し上がった口角からは礼奈と同じあどけなさを感じた。年齢は礼奈と同じくらいか?

「とりま、会社からの依頼なんだわ」

 彼女の独特な息の多い発声からは、先ほどから一定のハウリングが聞こえたが、その中により濃い殺意のノイズが覗いた。私はポケットに入っていた刃渡が2cmほどの、佐渡を始末した物と別のアイスピックを取り出して逆手で構える。

「それ、ま? あたおかかよ。草生えるw」

 小さなアイスピックを構えた私を見て彼女はその姿を嘲笑う。

「まじやばたにえん」

 彼女は息の多い発声で溜め息のように呟いたと同時に深呼吸をし、ベッドの残骸の中で再び中腰になって力んだ。 

「──熱川バニ園。まじやばたん」と私は自分でも意味不明な言葉を語感を頼りに呟き、持っていたアイスピックを握り込んだ。彼女が胸の位置で交差するように斧を構える瞬間を見計らって、彼女に向かって走り込み、スライディングをするように滑り込んだ。

 彼女は構わず、床を爆発させるように踏み込んだ。

 私も構わず滑り込む勢いを止めない。いや、もう止められなかった。

 床を踏み込み、回転が高速になるまでにはほんの少し時間がかかるはずだ。その隙を狙う。

 彼女は床と平行に体を宙に浮かせ、独楽のように大きく半回転をしそのまま回転を速め、私がいた方向に向かってくるかと思いきや、天井に体を向けた彼女は交差していたはずの二つの斧を胸の位置で同じ向きに並列で構えていた。

 床に仰向けのまま滑り込む私と、私の上で床に背中を向けるように宙に浮いた逆さまの彼女の顔が振り返るようにこちらを捉えており、ニヤついた彼女と目が合った。

 その瞬間、ハウリングが高まり、耳鳴りを生んだ。

 並列に構えていた二つの斧を、体を回転させる勢いとともに私に向かって大きく振り下ろす。

 滑り込んだ私の頭の上で連続した二つの衝撃音が聞こえた。うるさくて顔をしかめたくなるも我慢し、両手で握りこんだアイスピックで彼女のがら空きになった腹部へ突き刺す。刃渡りが2cmしか無いため、柄の部分も突き刺すように思い切り奥深くに突き刺した。そのまま下半身に向かって引き裂こうとするも、彼女は床に突き刺さった二つの斧を支点として肘を曲げた後でバネのように勢い良く手離した。その反作用で彼女の体は半円を描くように部屋の扉の方向へと飛んで行った。

 滑り込んだ私は勢いを止めることなくベッドの残骸に突進した。背中に割れた窓の破片とベッドの破片がいくつも突き刺さるのがわかった。

 彼女は空中で前方に一回転をし背中から落ちたが、受身を取ったようだ。床にぶつかった音は思ったよりも小さかった。彼女はすぐに起き上がったが、私が突き刺したアイスピックによって出来た腹部の小さな穴からは血液が溢れており、床に垂れる液体の音が聞こえた。

「うっ」

 彼女は腹部の傷に痛みで気付いたようだった。

「……えぐぅ」

 息の多い独特の発声により息の成分が増え、口から漏れるように彼女は呟いた。

 ベッドの残骸から起き上がった私は、背中の痛みに臆することなく彼女の方に体を向けた。先ほど耳鳴りを生んだ彼女のハウリングは一定に治まっていた。


 腹部の傷口に手を当て出血を抑えているも、グレーのスーツには血が滲み、彼女の手からは血液が滴り落ちていた。こちらを向いた彼女だったが腹部の痛みは彼女の全身に響いているらしい。前傾姿勢の彼女に向かって私は再びアイスピックを構えた。

「つーか、何番?」

 ゆっくり呼吸をする彼女の口から、息を吐くと同時に質問が漏れた。

「3」

 私は右手を出し、OKサインを親指と人差し指で丸を作り、それ以外の指を立て3を表現しながらぶっきらぼうに答えると彼女は引きつった微笑みを浮かべる。

「ま? 無理ゲーなんだけど……がん萎え」

「無理ゲーサバゲー乙女ゲー」

 無表情で語感を頼りに放った意味不明な言葉を口にした私に対して、彼女の眉はハの字を描いた。前傾姿勢の彼女に向かって飛びかかろうとしたその刹那、私の目の前の床に一本のサバイバルナイフが刺さった。


 これは?


 飛び掛かるのをやめた私はサバイバルナイフが床に刺さるまで全く音がしなかったことに驚く。彼女に目をやるもナイフを飛ばしたようには見えなかった。それ以上に彼女が驚いている顔が目に入った。


 一体、誰が?

 その答えは彼女の後ろから出てきた人物によって解決した。


「よぉ、礼央」

 中肉中背の背の高い男性が廊下に立っていた。黒いスーツを着た彼の少しかすれた声の低音域は多くの倍音を含んでいた。黒い短髪でツーブロックに刈り上げ、毛先は少しウェーブしている。目つきは鋭いが、いま私を呼んだその顔は、柔らかい表情をしていた。

 彼の皺の深い顔は実際の年齢よりも老いているように感じた。鼻筋がしっかりとしており銅像のような顔立ちだと感じる。この体格で、この腰にくるような低音域の声、この若作りしているような髪型で、気配の音がしない人物は私の知っている中では一人しかいない。

「……神田、さん」

 そう呟くと神田は右の手のひらを私に向け、パッと大きく開いた。大きく歯を見せ笑った顔は子供のような印象を持っているが、真剣な表情を知っているこちらからすると、どの顔が本当の「神田さん」なのかいつも分からなくなる。

 私は握りしめていたアイスピックを下ろし、構えを解いた。目の前の彼女は神田の声のする方に顔だけを向けた。

「……神田、部長」

 安堵の溜め息とともに呟いた彼女の左肩を叩き、神田はこちらに歩いてきた。

「うわ、塩素臭ぇ。なんだこれ?」

 塩素の匂いは風に流され消されているはずなのだが、神田は鼻を摘みながら顔をしかめる。塩素臭い原因の張本人である私は、神田に申し訳なく思う暇もなくベランダから不安定なノイズを感じ取った。それは殺気に近い不安定なノイズだった。


「よぉ、礼央」

 振り向いた先のベランダの手すりには、神田と同じ濃度の黒さのパンツスーツを着た女性がヤンキー座りをしており、先ほどの神田の第一声を真似るように私に声をかけてきた。彼女から不安定なノイズを感じるのはいつものことだった。

「ほっ、と」

 手すりからベランダに飛び降りた彼女の身長は改めて見ると女性にしては大きく、細身でありながらも引き締まった体はモデルのようだと私はいつも感心する。

 彼女の大きな口が横に開き笑みを浮かべた。さらに大きなくりんとした目が私に向けられる。赤茶色の短髪は耳にギリギリかかるほどの長さで、襟足は短い刈り上げになっており、前髪は左に流れていた。両頬にかかる長い垂れた触覚のような横髪の束が風に揺れていた。

 黙っていれば愛嬌のある美人という顔立ちだがコロコロと変わる表情と毒舌がその印象を見事に上書きしていた。彼女の声はコロコロとしたビー玉のような印象を受け、その中に芯のある低音域が聞こえる。彼女も知った顔だった。

「……シン、さん」

 彼女の名前を呟いた私に対してシンは微笑みで返したが、私はハウリングしそうな彼女の不安定なノイズを至近距離で感じ取った。そしてベランダから入ってきたシンの左手にはサバイバルナイフが逆手で持たれていることに気付く。

「おい、シン。真似すんなよ。お前、馬鹿にしてるだろ?」

 神田が私の目の前にいるシンに対してぶっきらぼうに注意した。

「うっせぇ。何カッコつけちゃってんの、おっさん」

 あしらうようにシンは答え、ナイフを持っていない右手を振り、あっち行けという動作をした。部屋の中心にいる私を囲むように扉側に神田、ベランダ側にシンが立っている。

「蛇に睨まれたカエル」ならぬ、「犬と猿に睨まれたカエル」になってしまった私だか、せっかく同じ緑の生き物であるならカエルではなく、初恋の生き物であるワニにしておこうと思った。

「……犬と猿に睨まれたワニ」

 そう私は呟いたが、その場面をリアルに想像してしまい、その場合は犬と猿は逃げた方がいいんじゃないか? と思い、的外れな慣用句になってしまったことに気付く。

 それを聞いた神田は「それは……」と呟き、そのまま続けた。

「犬と猿は逃げた方がいいんじゃないか?」

「犬と猿は逃げた方がいいんじゃないか?」

 神田が続けるのと同じタイミングでシンが口を挟んだ。

 神田とシン、二人の言葉がハモった。

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