4「水」

 佐渡の始末を終えた私は、持っていた血まみれのアイスピックをウエストポーチに入っていたジップロックに入れ、158号室内の玄関付近に仰向けで倒れこんでいる『物』を抱えベランダまで運ぶ。出血は落ち着いてきたが、部屋の玄関付近は血の池と化していた。

 さすがに女性の力では脱力した成人男性を運ぶことは容易ではない。『それ』の両手であった部分を両肩に回し、リュックを背負うように背中に抱え『それ』を宙に浮かせる。

 ベランダまでの数歩は重力が2倍ほどの惑星を探索しているかのようにゆっくりと、どっしりとしたものであった。

 足がふらつくことはないが床に血液が垂れないようにと思いながら運ぶことは、『これ』を始末するよりも気を使うことだった。

 やっとの思いでベランダに辿り着いた私は『それ』を手すりにかけ、布団を干すかのようにぶら下げる。そのまま一気に足であった部分を持ち上げ手すりの外、ビルの下へと落とす。

 それは鈍い音を立てベランダから見える芝生へ落ち、転がっていた。


 私はスマホを取り出し伯父さんに連絡した。

「──もしもし、伯父さん?」

「おう、終わったか?」

 三度ほどのコールで伯父さんは出た。

「うん。さっき車を停めた反対側の芝生に落ちてる」

「わかった、すぐ行く」

 スマホをズボンのポケットに戻し、帽子を取った私はそのままヘアゴムを外し、「おだんごヘア」を解いた。黒い長髪がベランダから吹く生ぬるい風になびいて、その髪の隙間から月明かりが差した。月明かりで158号室に出来た自分のシルエットを見ながらどうしたものかと辟易した。

 洗面台に向かい、バスタオルを何枚か用意した。水道で全てのバスタオルを濡らし、水分を少し含んだ状態で玄関付近の血の池に被せる。靴を脱ぎ、靴下のまま158号室を出る。

 162号室に向かい、伯父さんが用意してあった荷物の中にある小型のライト、雑巾、ビニール袋の束、台所用の漂白剤と空のペットボトルが入ったバッグを持ち出す。158号室に戻り、置いたままにしていた靴を履き、血の池を染み込ませたバスタオルを両端から床に押し付けるように真ん中へ寄せる。真ん中に寄せた血を染み込ませたバスタオルをビニール袋に入れる。これを何度も繰り返した。


 ある程度血の池がなくなったところで漂白剤を空のペットボトルの蓋で測り、ペットボトルに入れ、あとから水で薄める。この薬剤を床に撒き、雑巾で拭き取る。

 拭き取った後の雑巾も血の付いたバスタオルが入ったビニールに入れ縛った。塩素系のツンとした匂いが私の鼻を突き刺した。もし私の鼻ではなくて耳にでも突き刺さっていたら卒倒しそうだなと思い、鼻がいい殺し屋ではなくて良かったと神様に感謝した。

 床を拭き終えた私は、室内を念入りに確認し血痕が無いか確かめる。玄関付近の壁と手すりに向かった道筋に残っていた血痕を拭き取る。もう一度室内を見渡し、始末した証拠は無いかどうか念には念を入れ確かめる。部屋の電気を切り、持ってきていたライトのスイッチを押し、床と壁を中心に照らす。

 このライトはブラックライトを内蔵しており、床や壁を照らすと通常では確認できない汚れを見ることができ、拭き残していた汚れを新しい雑巾で拭いた。それを何箇所かで行い、入念に証拠を消す。

 最後にベランダの窓に貼った養生テープとスモークグレネードの残骸を回収する。窓のガラスは割れたままになってしまうが私が来たことを証拠つけるものではないと判断しそのままにしておく。


 ひと段落ついた私がようやく一呼吸することができたと理解したのは自分の呼吸の音が聞こえたからだ。

 あとは162号室に戻りハーネス一式を回収すればいい。スマホを開きストップウォッチを停止させようとしたところで違和感に気付いた。スマホに表示されている時刻が21時46分と表示されていた。


 私は記憶の引き出しから出すまでもない、すぐそばに落ちてあるその記憶を拾い上げた。

 伯父さんは、佐渡が22時頃にこの158号室に戻ってくるはずと言っていたのではなかったか? まだ22時になっていない。どういうことだ?

 伯父さんからの情報だ。嘘であるはずは無い。それとも林から情報が間違っていたのか? そういえば佐渡は、電話口で林と連絡がつかないことを気にしていた。そのことからするに佐渡が林と連絡をとっていたことは間違いないが、ここ数日間でコンタクトを取っていないのではないかと想像がつく。

 つまり、今日の22時に158号室に戻ってきて私が佐渡を始末することを知っている林は、余計な詮索をされないためにおそらくここ半日以上、佐渡とのコンタクトを取っておらず、それに対して佐渡が不満に思っているのではないかと、佐渡の電話の内容から考えられる。

 しかし、ただの私の思い込みと言うこともある。佐渡が林の予想よりも早くここに戻ってきたのかという簡単な結末であったと私は思いたい。しかし、そう思い込んで冷静になろうとすればするほど、私の心拍の音が98回/分と上昇していくのを感じる。

 

 ここで、ある事実に私の心臓がぎゅっと掴まれた。

 


 佐渡の帰宅時間のズレに気付いた私は耳に集中した。すると158号室のベランダの窓を割り、佐渡に飛びかかり乱闘に至るまで当たり前に聞こえていたハウリングがまだ止んでいないことに気付いた。

 なんということだ。私はイヤホンのホワイトノイズのように、このハウリングが鳴っていることを当たり前に感じてしまっていた。

 目に見えるものが真実ではないとよく言うが、目に見えたものだけは信じようとしてしまった私自身の失態に足元を掬われた。


 誰だ? 誰かが近くにいて誰かを殺そうとしているのか。ハウリングの大きさからして、私が殺気の対象でない確率の方が低いが、まだ断言できない。誰だ、このハウリングは。

 しかし、私の耳と私の記憶は先ほどから答えを導き出していた。

 


 始末してからずっと、このハウリングは変化していない。通常、私には殺気がハウリングに聞こえるのだが、そのハウリングはあらゆる負の感情から聞こえるノイズの集合体である。そのノイズは人によって異なり、高い音のノイズからなるハウリングもあれば、低い音のノイズからなるハウリングもあり、今まで対象者の多種多様なハウリングを聞いてきた。その経験から、先ほどから薄っすらと流れているこのハウリングは佐渡のもので間違いないと断言できた。

 まさか、まだ佐渡が生きているのか? 私はそう思い、ベランダに向かってビルに隣接している芝生に目をやるとそこにはまだ先ほどと全く同じ形で、『それ』が置いてあった。耳に集中するも、それから呼吸音や心拍は聞こえない。


 ──じゃあ?

 その問いの答えを頭をフル回転させ見つけようとする。じゃあ、誰なんだ? あのハウリングは? 自分の心臓から出る音と血液が血管を流れる音に邪魔され集中できない。その音で余計に焦りと不安が心の中で渦を巻く。自分の音がうるさくて考えに集中できない。少し静かにしてくれと自分の体に怒鳴るが、それが余計に私の鼓動をより一層騒がせた。

 あのハウリングが佐渡のものじゃないとしたら今まで聞こえていた音は一体……。

 私はハウリングが聞こえたタイミングを思い返す。まず、この158号室に入った時にはすでに聞こえていた。その前、ハウリングが聞こえ始めたのは155号室に飛び移る前だ。


 嫌な予感は的中した。やはり155号室の住人が怪しい。

 よく考えてみれば、155号室の水道の音とハウリングが一緒に聞こえていた。もしかしたら、私は始めから155号室の住人の気配をハウリングで感じていたのかも知れない。しかし、それを佐渡の物と勘違いしてしまった。

 今思えば155号室の水道の音が数秒間聞こえていた点もおかしい。最初に水道の音が聞こえ、顔を洗う音が聞こえた。その後も数秒間水道の音が聞こえていたということは、顔を洗ったあとも水道を流し続けていたということになる。なぜそんなことをする必要があったのか。

 答えは、おそらく水道の音で殺気の音であるハウリングを消したかったのだろう。しかし私の耳は155号室の住人が思うより良く、ハウリングの音がしっかり聞こえていた。

 この事から155号室の住人は私の能力を知っている人物だと言う結論に至る。しかし、ハウリングと水道の音で消そうとした点からいえば、私の聴力がどれほどまでの性能かは理解できていないということだ。つまり、その人物はまだ私が出会ったことがないか、まだ対峙したことのない者。残念ながら同業者であることは間違いない。問題はなぜ私はそのハウリングを佐渡の物と勘違いしたのか。

 記憶を辿る。いつあのハウリングを佐渡のものだと思い込んでしまったのか。155号室に向かう以前に佐渡の物と勘違いしたハウリングが聞こえたのは、佐渡が電話に出た時だ。私は佐渡とは何度か会っていたが、彼が殺気立ってハウリングを発した場面には遭遇しておらず、彼のハウリングを聞いたことがなかった。そのため、本来はハウリング単体で誰の物が判断すべきではなかった。それなのに私は林と連絡が取れないことに苛立った佐渡から、殺気のハウリングが聞こえたのかと思い、それを佐渡のハウリングと思い込んでしまった。


 あの時、私は……。

 そう、あの時私は15階の廊下にいた。ハウリングが聞こえた瞬間、何があったのかを思い返す。

 佐渡のシャワーの音が聞こえ、その中に佐渡の声とも捉えられないような発声が聞こえた。それで私は158号室に佐渡がいるのを確信した。その後は……。


 そうだ。女の人とすれ違った。グレーのスーツの。小柄の。

 すれ違った後からハウリングが聞こえ始め、音に集中すると佐渡の電話の声がした。そして折り返してきたグレーのスーツの女性とすれ違うように私は15階の階段へ向かった。

 その時にもすれ違った後で佐渡のノイズに変化していたはずの音がハウリングへと変わっていた。

 あれは佐渡が電話で怒鳴っていたハウリングでは無いのではないか。もしかしたら、佐渡はもともと電話口で怒鳴っていたが殺気立てておらず、ただの不安や焦りといったノイズだけをずっと放っていたのかも知れない。


 ということはグレーのスーツの女性がハウリングを放っていたことになる。

 さらにはグレーのスーツの女性から距離が離れた際にノイズがハウリングに変わった。つまり、グレーのスーツの女性は私が背中を向けた瞬間に的確に殺気を放つような、所謂いわゆる、「戦闘モード」に切り替えていたということになる。そのことから彼女も同業者であると推測できる。

 いま思えば、あのグレーのスーツの女性が何の目的もなく、あの短い距離の廊下を往復する行為自体、不自然ではないか。

 なぜもっと早くに警戒していればよかったと後悔する。

 きっと佐渡を始末する私の存在を知って警戒してたのか、佐渡を護衛しようとしたのか、色々と理由のおおよその検討はつく。

 つまり、今まで聞こえていたハウリングの正体は、15階の廊下ですれ違ったグレーのスーツの女性。そして彼女はハウリングが聞こえないように水道の音で紛らわせようとした155号室の住人という可能性が高い。そしてあるとすれば155号室の住人がグレーのスーツの女性であるか、もしくは水道の音でハウリングを消そうとした人物とグレーのスーツの女性の二人組。

 残念なことに仕掛けておいた目に入れたくもないゴキブリホイホイに目に入れたくもない獲物がかかってしまった。しかも、ゴキブリよりも厄介な物が。

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