3「おだんご」

 私は自分の部屋に荷物を置きエレベーターに乗り、ひとつ下の15階に降りた。

 北に向かい廊下を歩く。対象者の居る158号室に近付くほどに私の心臓を誰かに撫でられているように落ち着かず、さらには心拍が刻むBPMは190に近付き始めたことに気付いた。不意に私の頭の中では、礼奈から勧められた「あいみょん」というアーティストの曲のフレーズが繰り返された。


 156号室前で私は歩く速度を落とし耳に意識を集中させる。

 156号室から聞こえる男女の話し声を聞き流し、157号室から聞こえる男性の27cm程度の大きさの足から生まれた足音が2〜3回聞こえた。肝心の158号室からシャワーの音がかすかに聞こえた。しかし、まだ158号室でシャワーを浴びている人間が佐渡とは判断できない。

 より耳に集中する。微かに息を吐いたような、文字にすると「ん」と表現できる程度の声が一瞬シャワーの音の隙間から顔を出した。

 この声は佐渡だ。間違いない。158号室には佐渡が居る。

 緊張と憂鬱を唾と一緒に飲み込んだ。飲み込んだ後に鼻から出た息は何の感情もない空気に変わっていた。その空気を感じてから不思議と私の心拍は64回/分程度に落ち着き、心臓を撫でていた者はどこかに始末されたように消えた。いつの間にか、そいつの分の依頼料も払ってもらおうかとくだらない事を考える余裕が私には生まれていた。

 一度162号室に戻り、シャワーを浴びた。これは私の仕事のルーティンでもあり、髪の毛や垢などを現場に残さないためでもあり、ただの潔癖症でもあった。


 それにしてもホテルでの仕事は快適だ。これが対象者の家や、誰かの部屋であると浴室があればいい方で、浴室があったとしても「他人が使っている浴室を好んで使いたくない思い」と「体を綺麗にしたい思い」とで第三次世界大戦が勃発するのだが、結果的に勝敗は浴室の綺麗さで決まる。

 それに比べてホテルでは対象者の部屋から遠い部屋に予約すれば自分の居場所が出来る。それにホテルの浴室の清潔さは最高だ。アメニティは使い捨てのものだし、タオルも借りられる。業務に必要な荷物が少なくて済む。荷物と犯罪者は少なければ少ないほどいいとお父さんが言っていた。それには私も大賛成だ。


 シャワーを浴び終えた私は伯父さんが用意してくれたビルの清掃員のような作業着に袖を通した。

 ウエストポーチを腰につけ、帽子を被る前に鏡の前に立ち、腰ほどの長さの黒い長髪に金色のエクステが数束ついたウィッグを被る。

 いつものこの格好になると、158号室の佐渡の存在を確認した時から少しずつ上がってきた仕事のギアが桁違いに一気に上がる。

 二輪車のシフトアップで一瞬アクセルを戻すのと同様に一度頭の中で冷静さを呼び戻し、これからの手順をシミュレーションする。

 158号室の間取りを頭の中で思い浮かべ、私と佐渡の立ち位置と動きを予想する。佐渡の首にアイスピックを挿し、血管を引き裂き、始末する瞬間を思い浮かべる。それと同時に、アクセルをひねり速度を上げるように自分の中の回転数を上げる。その回転数のまま、私は持ち込んでいた「outdoor」の深緑色のリュックの中からアイスピック2本取り出した。そしてまたギアが上がる。


 取り出したアイスピックの一つは10cmの柄に5cmほどの針がついた大きさの物で、もう一つは5cmほどの柄に2cmほどの針がついた大きさの物を用意した。

 二つとも、柄は大きいマジックペンほどの太さの円柱状をしており、そこに針が刺さった一般的なアイスピックの形をしているも、針の部分は少し平らになっており両端は鋭利に研がれている。小型のレイピアとでも称した方が適切だ。刺して引き裂く時にはこの形状のアイスピックが役に立つ。ある程度の力が必要だが、佐渡ほどの細身の体格の対象者が相手ならば問題はないだろうと考える。

 私は帽子を被る前に、腰ほどの長さの黒い長髪のウィッグをゴムで縛り、ポニーテールにし、丸くまとめ、所謂いわゆる「おだんごヘア」にした。真っ黒のお団子の部分からはいつもと同じ色で光る金髪のエクステが何箇所か覗いた。髪を束ね終えた私は洗面所の鏡を見た。

 そこには今朝と同じ冷たい目をした私と三度目の再会かと思いきや、鏡に映った私の冷たい目には、自分の黒い長髪のウィッグの金色のエクステの量と同じ量ほどの恍惚や興奮を含んでいた。


 着替えを済ませ自室から出た私はスマホのストップウォッチを起動させた。ズボンのポケットにスマホを入れ、作業着のポケットの中にある小さい方のアイスピックを手で触れ存在を確認しながら階段を降り、佐渡の居る158号室へ向かう。

 途中、廊下でグレーのスーツを着た小柄な女性とすれ違ったが顔は合わせていない。そんな何気ない事も、今の感度が上がっている私には気に触ることだった。

 すれ違った数秒後、微かなハウリングが聞こえた。

 158号室はあと2〜3mの距離にある。佐渡が警戒してるのかどうかを確かめるべく耳を研ぎ澄ませる。158号室からは佐渡の話し声が聞こえた。

「林は何やってるんだ。なんで連絡がつかないんだ!? こっちは組から逃げてるんだぞ? 簡単なことじゃないんだよ、林が逃走用の車を手配してるはずなんじゃないのか!? 一体どうなってる?」

 佐渡の苛立ちと不安を含んだ声が聞こえ、彼の声から微かなハウリングが少しずつ強弱をつけ、波のように聞こえる。先ほどのハウリングの正体はこれだと理解した。


 私の耳は異常に発達しており、音だけでは無く人間から出る強い感情を耳で感じることができる。特に殺気めいた感情は私の耳ではハウリングのように不快な高音を不規則に奏で、そのハウリングが大きければ大きいほどその人の殺気は強いものだと感じる事ができる。

 その他にも、殺気に近いような焦りや不安、恐怖や緊張などはノイズのように聞こえることもあり、ラジオのチューニングがずれた音のようにガサガサと聞こえる。そのチューニングがずれればずれるほどノイズはハウリングに近付いていく。

 どうやら電話口の相手に微かな殺気を向けているようだ。その相手は誰であれ、佐渡が林に騙され、このビジネスホテルから逃げる手段がなく焦っているのは、彼のハウリングと電話の内容から理解できた。今であれば、殺気立った佐渡は理性をほんの少しばかり失っているため始末するのは多少楽になるだろう。

 もしかしたら今がチャンスかと思ったが、佐渡の顔を思い浮かべた私の、ほんの少しばかりの理性が邪魔をした。

 躊躇してしまった数秒の間に先ほどすれ違ったグレーのスーツの小柄な女性が後ろから折り返し私に向かって歩いてきた。その足音を察知した私は、とっさに帽子で顔を隠しながら今いる位置の158号室とは逆方向の152号室の方へ歩き出す。

 佐渡のハウリングはノイズに変わっていた。先ほどと同じようにグレーのスーツの女性と再びすれ違う。ポケットの中のアイスピックの存在を手で確かめる。今回もお互いに顔を伏せていた為に顔は合わせていないが、さすがに二回も作業服の女とすれ違うと彼女に不審に思われているのではと勘ぐってしまう。アイスピックを握る手がより一層堅くなった。

 万が一の為にこのグレーのスーツの女性も始末しなくていけないかもという考えを、頭の片隅に小さいゴキブリホイホイのように見たくない物として隠しておく。


 すれ違った後で再びわずかなノイズがハウリングに変わったのが聞こえた。佐渡が158号室で電話口の相手に罵声を浴びせているのが聞こえた。私はグレーのスーツの女性の行く末を耳で感じ取りながら152号室を通り過ぎ、先ほど自室から降りてきた階段へ向かう。

 階段を駆け上り16階へと向かう。緊張と困惑を含んだ私の足跡が無機質な階段に響いた。私は自室の162号室へと戻る。扉を開け、すぐさまリュックの中を漁る。これ以上15階の廊下を徘徊すれば他人の記憶に残ってしまう。それだけは避けたかった。

「持ってきて良かった」

 どうやら私の口の栓が緩んでいたのか、安堵の声が自然と漏れたのを耳で聞いた瞬間に初めて気付いた。

 リュックの中から腰に巻くタイプのハーネスとランヤードと呼ばれる命綱を用意した。用意したランヤードは通常よりも長く作られている。腰、太ももにベルトをつけハーネスを全身に装着する。162号室のベランダに出た私は手すりに紐を結び、そこに大きなカラビナがついたランヤードをかける。ランヤードに力を何度か加え簡単には外れないことを確認する。

 覚悟を決めた私は雲がかった夜空を仰ぎ見る。風が私の顔を撫でた。少し生ぬるい風だったが不思議と不快に感じなかった。

 思えばこの不快ではない風を前に感じたことがあるなと思い頭の中の引き出しが勝手に開いた。


 この前アイスを買いに礼奈と夜中にコンビニに行った時の記憶が引き出しから顔を出した。あの時の帰り道で礼奈と一緒に食べ歩いたミントチョコバーが口の中で溶ける冷たさと、それに対比する、顔を撫でる少し生ぬるい風の心地よさと今感じた生ぬるい風が似ていいるような気がした。

 その光景を目に浮かべた瞬間に緊張が緩み、心拍が一瞬75回/分程度に落ち着いた。


 意を決した私は、自分の体が少し重いのを感じながら手すりの上に登り両足を乗せた。

 手すりの上の私は、悪く言えばヤンキー座りをし、よく言えば獲物を察知した忍者のような体勢で、外の見惚れてしまうような夜空とは逆方向の生活感のない162号室の室内の方を向いた。

 手すりを乗り越え壁を向く形で足を壁にかけた。本来であれば、移動するビルの上下の階にワイヤーを垂直につなげ、そこにランヤードをかける。そのままランヤードで落ちないようにゆっくり上下に移動するのが正しいランヤードの使い方だった。

 しかし今はそんな道具はないし、余裕も時間もない。つまり162号室のベランダの手すりとハーネスがランヤードという一本のワイヤーで繋がっているだけであり、私が足を踏み外し落ちてしまえば、風で162号室のベランダを支点に左右に振られ、はたから見た格好は催眠術で使われるような五円玉を紐につけ暗示をかける道具のような「人間催眠術具」に見えることだろう。

 もちろん古びた白いタイル状のビルの外壁に全身をぶつけて怪我をする可能性だって大いにある。またはベランダに落ち頭を打って死ぬことだって考えられる。その危険性を、手すりから降りてビルの外壁に足をかけた時の風の音で察知した。


 その風の音に耳を貸さず、一心不乱にビルの外壁を降り、15階へと向かう。踏み外さないように一歩一歩、足をビルの外壁のタイルの境目の隙間に引っ掛けて降りる。

 吹き込んできた風が私と外壁の間を通り、反発する磁石のように私の体が外壁から離れそうになる。手足に力を入れ、離れないように体を外壁にくっつける。これが想像以上に辛い。離れてしまったら「人間催眠術具」になることは間違いない。絶対に離れまいとする私を嘲笑うかのように、耳を貸さないつもりだったはずの風の音が耳を劈く。

 悪魔の声よりも無機質でかつ不規則で、生ぬるいはずだった風の温度は、先ほどよりもいっそう冷たく感じた。後ろを振り返ると、夜空はLサイズの容器に無数に積まれたポップコーンを一つだけつまみ、口に放り込むかのようにあっけなく私の危機的状況のこの葛藤をいとも簡単に飲み込んでいるように感じた。


 162号室から一階下の152号室の手すりに降り、そのまま腰につけていたハーネスをランヤードごと外す。ハーネスは回収したいところだが今は難しい。後で回収することにする。

 152号室には人の気配がないことを耳で把握できた。152号室のベランダに降りた私は先ほどの風の音がしないことで、命に危険がないことを再認識し胸を撫で下ろした。しかし、先ほどまで私のコマクを貫いていた風の音がまだ耳の中で残響していた。

 上を向くと「人間催眠術具」の一部であるハーネスが風に煽られており、私の命もあのハーネスのように一本の紐で繋がれているだけなのかもしれないと感じた。まるで今にもこの夜空の口の中で咀嚼され、飲み込まれてしまいそうだ。Lサイズの容器に無数に積まれた中から夜空の気まぐれで選ばれるのか選ばれないのか、それは今日なのか明日なのかはわからない。しかし、ただ一つ分かっていることがある。私の命はたった一つのポップコーンでしかない。それだけは確かだった。


 憂いを味わっている場合ではないと自分に喝を入れ、両頬を叩いた。152号室のベランダから耳を集中させここから先の数部屋の状況を聞き分ける。156号室の男女と157号室の男性の存在を再認識できた。

 さらには新たに155号室から蛇口から水が出る音と158号室から聞こえる微かなハウリングが入り混じって聞こえた。155号室からの音はおそらく洗面台からの音だろう。顔を洗うような音が聞こえたがおかしなことにこの近距離にいるにも関わらず、性別や体格までは把握できなかった。

 私に一抹の不安がよぎる。ここまで近くにいるのに性別や体格等が把握できないことは珍しく滅多にないことだった。

 警察関係者や探偵、または極少数一般人の中でもまれに気配が少ない人がいる。155号室の住人はおそらくそういった人種なのだろうか、はたまた考えたくはないが同業者なのだろうか。


 155号室に細心の注意を払い、152号室のベランダから153号室のベランダへ飛び移る。

 各部屋のベランダの間隔は1mほど。先ほどの上下階の移動よりも飛び移ることは他愛ない。この程度ならば私はLサイズの容器からつままれずに済むであろう。

 154号室のベランダに移った私は身をかがめ息を殺す。

 耳に集中して155号室の様子を詳細に把握できないものかと試みる。しかし先ほどと同じように洗面台からの水道の音と微かなハウリングしか聞こえず、眉をしかめる。

 今朝と同じ「Why?」を、礼奈とコンビニにアイスを買いに行った記憶の引き出しの隣にあった引き出しから取り出し、今度は私ではなく155号室の住人に贈る。

 耳を澄ますも、先ほどと同様に水道の音と微かなハウリングしか聞こえない。2〜3分の間、耳を澄ますが何も変化はない。しかし迂闊には動けない。まだ158号室には佐渡がいることは耳で把握している。大丈夫だ。まだ時間に余裕はある。

 すると水道の蛇口を止めた音がした。ぽたぽたと水滴が3滴垂れた音も聞こえる。その数秒後、155号室の扉が開く音がした。バタンと扉が閉まると同時に155号室からは何も音が聞こえなくなる。

 どうやら155号室の住人は自室から出たようだ。安堵した私の感情とは正反対に私の体はより一層、依頼の成功が目と鼻の先にあることを感じ、緊張が高まり動きが鈍くなるのを感じた。

 155号室に飛び移る。大丈夫。まだ夜空はLサイズの容器の中の私をつまんではいない。

 心拍が86回/分程度に上がったのを耳で感じた。155号室から156号室、157号室へと飛び移る。156号室と157号室の住人はまさかベランダに人がいるとは思っておらず、こちらに気付く様子はなかった。158号室に近付くにつれ、佐渡のハウリングがノイズに変わるのが聞こえた。それは丁度、佐渡が電話を終えたタイミングであった。

 私が158号室に向かう廊下から引き返し、162号室のベランダから152号室に降り、この157号室のベランダまで来るまでに15分ほど経過しただろうか。その間佐渡は電話を続けていたのを耳の片隅で把握していた。そして電話を終えた佐渡の足音がベランダと逆方向に向かうのが聞こえた。


 すぐさま私は158号室のベランダに飛び移った。ベランダの窓には厚手のカーテンが締め切っており、通常の人間なら多少の物音や、人の気配を感じ取ることは難しいだろう。

 158号室のベランダに身を潜めつつ片膝を立たせ、腰についたウエストポーチから養生テープを取り出した。それをベランダの窓にバツを作るように窓の角から対角線上に2枚貼った。そして真ん中を右肘を当て、右の拳を握り、呼吸を整えてからそれを左手のひらで包み勢いよく押し込む。エルボーの形で窓を割った。

 窓が割れ、破片が床に落ちる。風が音を立てる。先ほどビルの外壁で格闘していた時に聞こえていた音と同じ音が聞こえた。

 穴の開いた窓に手を入れ、中から窓の鍵を外す。そして窓を開くと一気に風が入り込みカーテンが大きく揺れた。室内に入った私は大きく揺れたカーテンと開いたままの窓の間に身を伏せた。床には窓の破片が散乱しており、潔癖性の私は少し気持ちがサワサワした。

 そして5mほど離れた場所から銃を握りこむ音が聞こえ、佐渡がこちらに向けて「M19」というリボルバー式の拳銃を構えているのを理解した。

 佐渡は何も言わない。まだ私が誰かを把握していない様子だった。月明かりに照らされてカーテンの中でうずくまっている私の影を見ているだろう。私はカーテンに隠れたまま腰につけたウエストポーチのベルトにぶら下がっているスモークグレネードのピンを抜き煙を立たせ、身を隠すには十分なほどの量が出てから、カーテンの手前に転がした。

 佐渡が半歩ほど下がった音が聞こえたのを合図にカーテンから飛び出す。その瞬間佐渡が銃を三度発砲した。しかし弾は煙の中に消えた。

 私は銃を発泡させた時に発生する火花の位置から、158号室の玄関を背にして窓に向けて銃を構えている佐渡の影を目視で確認した。佐渡は煙が充満していない足元付近に銃を向け緊張の糸を張り詰めさせていた。

 その様子を目に入れ、刃渡が5cmの方のアイスピックを右手で握り、そのまま真っ直ぐ佐渡にめがけて助走をつける。一気に佐渡に向かって飛び込む。飛び込む勢いで帽子が頭から離れ床に落ちたが気にはしない。私の黒い前髪が大きくなびく。

 佐渡にぶつかる瞬間に彼の右目にアイスピックを突き刺そうとする。しかし佐渡は左腕で身を庇い、右手に持った銃を左腕の下から出し、飛びかかってくる私に銃を向けた。

 私はすぐさま佐渡の左腕にめがけ、両足で蹴りを入れる。佐渡はバランスを崩し、仰向けに倒れる。放たれた銃弾は天井に向かって真っ直ぐ飛んだ。

 蹴った反動で私は空中で後方に一回転をし、片膝立ちで床に着地する。左膝に衝撃が走り、一瞬顔をしかめる。顔に前髪が掛かり、視界に黒いカーテンがかかる。しかし私はその鬱陶しいカーテンに目もくれず、すぐさま立ち上がり、倒れている佐渡のもとに走り、佐渡が握っていた銃を足で蹴る。佐渡の手から勢い良く銃が離れ、壁に当たってから玄関の扉にぶつかったところで止まった。

 虚しくその場で5〜6回転した銃の回転が止む頃には、佐渡の左胸には私のアイスピックが刺さっており、私はアイスピックを刺さったまま彼の体の外側に向けて肋骨に沿って一気に押し込む。

 アイスピックを抜いた傷口から血液が大量に流れ始めた。

 佐渡の意識はまだあり、起き上がる力も残っているようだ。私は万が一のことを考え彼から距離を取る。左胸を抑えながら立ち上がる彼の手足は力がうまく入らないようで、いつもより細く見えた。

 銃を探し後ろを見回し、玄関の方に屈み私に背を向けた佐渡の姿からは、いつも依頼を受けていた時のような気さくな表情を感じ取ることが出来ない表情をしていたと思うが、私の方向からは見えなかった。

 銃を取り、こちらに向いた佐渡だが、左胸からの出血は止まることなく逆に勢いを増していた。

 彼の足元に大きな赤黒い水溜まりができ始めていた。

 彼は私に銃を向けたが、その場で膝から崩れ落ちた。

 私は倒れている佐渡の銃を取り上げる。

「……お前は、誰、だ? ……どこの、奴だ?」

 佐渡は虫の息で私に質問した。

 右に目線をやってから佐渡を見つめ、落ちていた帽子を被りながら私は答えた。

「ばにお。熱川、ばにお」

 それを聞いた佐渡は疑問符を顔に出しながらそのまま力が抜け、絶命した。

 絶命した後でも出血は継続しているが、この出血もいずれは止まり、今日起きたこのビジネスホテル「トウカイ」での私の業務は、佐渡のたった一つのポップコーンと共にこの夜空に咀嚼され飲み込まれてしまうのだろうと思いながらポップコーンから漏れた液体が床に広がっていくのをじっと見つめた。


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