第8話

「もうちょっと引っ張ってくれ……。うん、大丈夫だ。ありがとう。」


「はい……。」


 次の日の昼休み。担任教師に教室で一人でいるところを見つかってしまい、この後行う新入生歓迎会の準備の最後の手伝いをしていた。正確に言うとやらされた。因みに私と担任教師以外いない。担任教師曰く、昼休みになるとみんな急に居なくなるらしい。私も逃げればよかった。私は担任教師と一緒に暗幕を広げて、ステージの装飾をした。この後、ここではダンスとか劇が行われるんだろうな。


「これで終わりですか?」


「ああ、本当にありがとな。助かった。」


「それでは、私はこれで……。」


「まあ、待てよ。お礼と言ってはなんだが、飲み物を奢ってやる。」


「あ、ありがとうございます。」


 そう言うと担任教師は体育館の自動販売機の所まで歩き始め、私もおどおどと先生の背中をついていった。先生は使い古した財布から小銭を取り出すと、自動販売機に入れた。


「飲めない物とかあるか?」


「あ、炭酸が苦手です。」


「そうか、じゃあジュースでいいな。」


 ぽちっと音がすると、がこんっと缶ジュースが落ちる音がして、オレンジジュースが出てきた。


「ほれ、冷たいぞ。」


「あ、はい……。」


 オレンジジュースは私の手の中でひんやりとしていて手が氷になってしまいそうだった。


「今のうちに飲めよ。俺が怒られる。」


「あ、わかりました。」


 そう言って、私は缶を開け、ぽとぽとと飲み始めた。私は少しほっこりとした時間を過ごしていた。冷たい柑橘が喉の裏を通る。少しすると、何か変な匂いがし始めた。ふと見ると、担任教師が何か吸っているのがわかった。手元にはあってはいけない物があった。


「ふう……。」


「先生……それって……。」


「ん? あっ。見なかった事にしてくれ……。」


「……。そうしときます……。」


 喫煙がばれた担任教師はおもむろに灰皿を取り出して、煙草を消した。


「先生もそういう所あるんですね。」


「まあ、人間そんなもんだ。ついついやっちゃうもんなんだよ。」


「……。そんなもんですか。」


「でもこういうの見られると、教師としての威厳が無くなっちゃうよなぁ……。なあ宮下、やっぱり教師ってのは頼りがいのないものなのか?」


「え、そんな事は無いと思いますけど……。」


「そうか……。最近の生徒の態度を見ると、俺たち教師としてのやるべき事ってのがなくなってきてる気がするんだよな。」


「は、はあ……。」


「先生は宮下の力になりたいんだよ。やっぱり、高校生はまだまだ子供だからさ。」


 そう語る先生の瞳はきらきらとしていた。


「まあ、なんか相談があったら遠慮なく言ってくれよな。力になるから。」


「は、はい……。」


 消した煙草は少し橙色を帯びていた。私は缶をぐいっと飲みきり、体育館を後にした。


 教室に戻ると、新入生歓迎会当日という事もあり、廊下がわいわいと活気づいていた。自分の教室に戻ると、木下さんが他の女子とお話をしていた。


「……。」


 私は今日だと決めていた。もし、話すタイミングを無くしてしまったらもうこれ以上の話にいく事はできないから。木下さんとは、あの後からまだ何も話していなかった。話をつけたい。また仲良くなりたい。そう思って、私はクラスの教室へと向かった。


「そういえば、木下ちゃんってさ! 足速いよね! 陸上とかやってたの?」


「いやー、なんもしてないよ? 普通じゃないかな?」


勇気を振り絞って声を出した。


「あ、あの……。木下さん……。」


「いやめちゃくちゃ速いよ! 絶対陸上部入った方がいいって!」


「えー、そうかな?」


 木下さんはこちらに気づいていなかった。声をかけても友達との会話に集中して聞こえていないみたいだった。だから、近づいて肩でも叩こうかと思った。それだけで良かった。

 でもそれが出来なかった。

 ふと手を伸ばそうとするとあるはずの無い壁が、どんどん厚く、硬く、高くなっていく。まるで私の侵入を拒むかのように、大きくなっていく。怖い。私みたいな奴が人の会話を遮っていいんだろうか。相手にどう見られてしまうか。私はただ、人を呼ぶ事すら恐れていた。手が届かずに留まっていると、ふとした時に木下さんとの距離がどんどん遠くなっていったように見えた。ああ、こうやって何も出来ずに失ってしまうのか。結局抗っても、私は変われないんだ。自分の醜さ、愚かさに涙が零れ落ちた。


「あれ? 宮下さん泣いてる? 大丈夫?」


 急に他の生徒が気づき、ざわざわとしてきた。その中には笑い声のような物もあった。それが堪らなく苦しく、余計嫌になった。


 ただ、木下さんは違った。


「あ……。宮下ちゃん……。」


 木下さんは私に気づくと、迷わず私の方へと近づいてきた。そしてそっと抱きしめてくれた。さっきまであった壁なんてなかったかのように。その壁を彼女はいとも容易く崩してみせた。


「気づけなくてごめんね。大丈夫、大丈夫だから。」


 木下さんはただただ私を抱きしめ、大丈夫、大丈夫と背中をさすってくれた。


「木下ちゃん、宮下さん大丈夫なの? それ?」


 木下さんと話していた友達が怪訝そうに尋ねた。


「うん。歓迎会の準備で疲れちゃったみたい。保健室まで連れていくね。」


「あ……、うん。」


 木下さんは私を連れて教室を後にした。


「あの……、木下さん……私……。」


「大丈夫だよ。ちょっとは落ち着いた?」


 木下さんはいつも通りの笑顔で答えてくれた。


「本当にごめんなさい。……ちょっと人目のつかない所にいこっか。」


 そう言うと、木下さんは私の手を掴んで廊下を歩き始めた。掴んでくれた右手はほんのりと温かかった。

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