2.
「はぁ? 倫理? 何それ? 美味しいの?」
そんな寝言を言っていられたのどかな時代は、過去のものとして過ぎ去った。
「倫理」が企業にとって、国家にとって、社会にとって、そしてただの一般人にとって、現実的な脅威となったのがいつだったか、正確なところは未だに議論が続いている。
あるいは「ネット傷害」ないし「ネット殺人」と呼ばれている事件の件数が一〇〇〇を超えた頃だ、という人もいる。例の「お茶汲み問題」から始まったハラスメント・ショックで、世界的大企業の数々が倒産に追い込まれたのがその始まりだったという人もいる。よりにもよって世界でもそれなりに「平和」だとされていたこの島国で、一つのささやかな書き込みによって発生した「倫理災害」によって、一つの小さな町のごく普通の住民の八割が「善意」の人々たちの手によって一晩で老若男女問わず虐殺された例の事件が起こったときには、たぶんもう始まっていたことは確かだ。もっともっと早く、SNSが普及し始めていた頃からもうとっくに始まっていた、という人もいる。
どうでもいい。
どちらにせよ、今の僕たちは倫理と戦わなければいけない世界に生きている。
倫理戦争。
そんな通称で呼ばれている正真正銘の本物の戦争。ただ見えないだけの戦争。
第三次世界大戦――そんな風に呼びたがる老人たちも未だいるが、これは「その程度」の戦争ではないのだ、という意見が専門家たちの間では有力だ。なんせ、全世界の全人類を巻き込んで未だ進行中で、しかも、どこの誰が何かの理由で始めた戦争というわけでもないので、戦争終結の目途はまるで立っていない。
ネットの世界を主戦場として、倫理によって構築された銃弾は砲撃は爆撃はミサイルは核弾頭は、今、この瞬間もありとあらゆる場所に向かって放たれ続けている。誰が、いつそれに巻き込まれてもおかしくない。この倫理戦による犠牲者は、自動運転普及以前、交通事故によって生まれていた犠牲者の件数にすでに並び、それを超えようとしている。
そんなわけで、規模の大小の違いはあるものの、企業内には倫理対策を専門とした部署が存在し、各国は倫理作戦に従事する組織を当然に擁している。その手の分野で後れを取り続けていると言われていたこの島国ですら、それは例外ではない。
通称〈Nシステム〉と呼ばれる、僕らの組織もそれだ。
そして僕と言繰は、そんな巨大組織における下っ端の、さらに下っ端だった。
倫理対策実行組織における対SNS部門の、その協力者であるただの民間人。
「おう。邪魔するぜ――」
と、一仕事終えて、その辺のファミレスでSNSの動向をチェックしつつ待っていた僕と言繰の前に現れたそのおっさんが〈Nシステム〉の構成員の一人――僕たちの上司ということになる。
「――今回も、見事な焼き捨てだったな」
「はい、それで雇われてるわけですから」
僕は、営業スマイルを浮かべてみせる。
おっさんは、にっ、と笑みを浮かべる。
「お礼にここの支払いは俺が持ってやる。遠慮せずに食え」
「僕が自分で払いますから、ちゃんと報酬で払って下さい」
「可愛くねーガキだなあ……あ、そこの美人なおねーさん」
「セクハラですよ」
「うるせえよ黙れ」
とおっさんは僕を睨んでから、にへにへ、とだらしない顔を、笑顔でやってきた店員のおねーさん(たぶん大学生くらいだと思う。ヘアピンをしていて、ちょっとヒナさんに似ている)向けて、ステーキセットを注文をする。「倫理」的にはアウトなのだが、例えば、この店員のおねーさんがこのおっさんを写真で撮って「セクシャル・ハラスメントを受けました」とSNSに投稿しないが限り「倫理」は動かない。たぶんこの店員さんはしない。目の前のおっさんも同意見なのだろう。僕たちの戦場に存在する「倫理」に、現実は半分くらい置き去りされている。公共の場所やネットでは即座にアウトな発言が、その辺の電車の学生の雑談や酒場のおっさん同士の会話では普通に使われていたりする。
だから、勘違いをして「倫理」に八つ裂きにされる人間は、未だ後を絶たない。
この男も八つ裂きにされればいいのに、と少しだけ思うが多分されないだろう。
「他に」
と、店員さんが僕に笑顔を向けてくる。妙に近い。
「ご注文はございませんか?」
なるほど確かに美人さんだった。特に、営業スマイルっぽく全然見えない笑顔が素敵だ。胸も大きい。ぶっちゃけタイプだ。もし口説くなら、とりあえず水でも「うっかり」溢した後、片付けに来てくれた彼女に謝りながら、適当な世間話から始め、頭に付けてるヘアピン(それなりの値段がする奴だ。こだわっているのだろう)に話を振ってみて、と頭の片隅で彼女とお付き合いするためのシミュレーションを組み立てつつ「あ、ドリンクバー二つお願いします。以上です」と、僕と言繰の分のドリンクバー注文する。店員さんは「ご注文承りました」と素敵な笑顔で一礼して去っていく。その後ろ姿を目で追っていたら、隣の言繰に肘で突かれた。
「鼻の下が伸びてる」
「鼻の下は伸びない」
そう否定しておいて、目の前のおっさんと無駄な会話を続ける。
「っていうか普通に食べるんですね」
「腹減ってんだよーもー大変でなー」
上司について、僕たちは何も知らない。
古井、と名乗っているがたぶん偽名だ。
彼の組織内での地位も知らない。昔であれば、年齢的にそれなりの地位に就いていそうなところだが、年功序列は「倫理」的なリスクが高いとして企業内の倫理対策によって廃止されつつある制度だ。下っ端かもしれないし、窓際かもしれない。そもそも構成員ではなく、僕らと同様に組織にバイトで雇われたその辺のおっさんかもしれない。
なんせ、ひょろり、と痩せた彼の顔立ちは、何だかいまいち締まりがない。
その格好はいつも同じ――ダブルの革ジャン(テクノレザーの台頭でとんと見かけなくなった本革の代物だ)に、加工ではなく色落ちしダメージの入ったジーンズ(なんと本日二人目だ)に、それから頑強そうなブーツ(これも本革)。たぶんこれでバイクにでも乗れば完璧なのだろうが、この男は原チャリにすら乗れない。つまりただのファッションだ。まあ一応似合ってはいるのだが、革ジャンもジーンズもブーツも、十年以上前から使ってるみたいな代物だ。というかたぶん実際に十年前以上前から流行ガン無視で同じ服を着続けてきたのだろう。良く言えば使い込まれているのだろうが、僕から言わせてもらえればただの小汚くてみすぼらしいだけのオンボロだ。さっさと捨てて新しいの買えばいいのに、といつも思う。
要するに、この男は僕には小汚くみすぼらしいおっさんにしか見えない。
それが「いかにも外見はあれだけど有能な構成員」っぽ過ぎて、嘘臭い。
「貴方が直接来たということは」
ややあって運ばれてきたステーキセット(ウェイトレスのおねーさんの笑顔はやはり素敵だった。そして僕の頭の半分では、そんな彼女とお付き合いしてお洒落な街を散策するところまでシミュレーションが進行していたが、僕には今のところヒナさんがいるので、無駄なシミュレーションはそこで打ち切った)を美味そうに頬張る中年男に僕は言う。
「何か厄介な案件でも起きたんでしょうか?」
「鋭いなあ」
と、にやにや笑う中年男。
「攻撃ですか?」
「防衛任務さ」
「そうですか」
いかにもこの島国らしい言い方だ。
「大変ですね」
「おいおい。何いってやがんだよお」
にやにやにやにや笑いながら、あっと言う間にステーキをたいらげる古井。
ごっそさん、と一言。
「お子ちゃまがよお」
「言ってくれますね。そんなお子ちゃまに頼らざるを得ない癖に」
「へっへっへっ」
「……」
僕と古井は睨み合う。
と。
「男の子ってさ」
そこで、それまで黙っていた言繰が言った。
ぶくぶくぶく、と緑色のソーダを泡立てて。
「そういうの好きだよね。何歳になっても」
「……」
「……」
僕と古井はお互いに黙り込んだ。
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