4-10【変わり始めた世界】
小一時間ほどして目覚めたイリアスは、赤面した顔で縮こまっていた。
よく見ると、目の周りが赤い。どうやら泣かせてしまったようだ。
「ごめんなさい……起きたのに邪魔しちゃって」
「いや、いいんだよ。どのみち無理に動いたら傷が開いちゃうし」
「あ、そ、そうですよね。うん、そうです」
自分を納得させるように何度もうなずくイリアス。
その姿がおかしく見えてしまい、吹き出しそうになるのを堪える。
だが、そんな穏やかな時間を過ごしている場合でもない。
意識を失った後のことを聞かなければ。
「そういえばイリアスちゃん。船でのことなんだけど」
「あっ、はい。えっと……」
少し思案した後、イリアスがその後のことを語り始める。
「ひとまず、ハルピュイアの皆さんは落ち着いてくれました。ですが船にやってきた衛兵の皆さんを見て、またちょっと険悪になって」
「えっ、まさか……」
「ああ、いえ。大丈夫です、衛兵長さんが話をしてくれて、皆さん理解してくれましたから」
なんだかんだ彼にも人望があるのだと、失礼ながら感心してしまうレイトン。
ともあれ、町に被害が出ることはなかったようで何よりだ。
「今はハルピュイアの皆さんをどうするか、町の偉い人達がお話しているみたいです。それと……」
わずかに俯き、口ごもるイリアス。
「私の正体、ばれてしまいました。皆さんに」
皆さんとは、おそらくこの町の住人達にということだろう。
しかし、それは仕方のないことだ。
大勢の前でセイレーンとして姿を現し、場を納めた。
彼女がいなければ、自分達は殺されていたのだから。
しかし、それはブロンズィーノやそれ以外のネプチューン派の人間に、目を付けられるリスクがあるということだ。
これからの彼女が、今まで通りの生活を送るのは難しいだろう。
「ブロンズィーノや奴の部下は、彼女が現れたときに意識を失っていた。おそらく気づいてはいないだろう」
奥の机の前に腰かけていた診療所の先生が口を開く。
少なくとも、それは不幸中の幸いというべきか。
それでも、イリアスの表情は少し暗いものだった。
「さて、僕はちょっと外出するよ。しばらくの間留守を頼む」
立ち上がり、机に置かれたカバンを手にすると、彼は足早に診療所を後にする。
残されたのは、レイトンとイリアス。
二人だけで話せるよう、気を遣ってくれたのだろう。
心の中で先生に感謝しつつ、イリアスと向かい合う。
しばらくの沈黙の後、イリアスが小さく口を開く。
「ハルピュイアの皆さんは、聖域から無理矢理連れて来られたらしいです」
イリアスがなぜそのようなことを語ったのか、レイトンは一瞬意図が読み取れなかった。
しかしそれは、ハルピュイア達は協定を破って人間の世界に来たのではないこと。
そして、今や正体が白日の下にさらされたイリアスは、協定を破って人間の世界に忍び込んでいる。
ハルピュイアには被害者相応の対応がされるだろう。
しかし同じ対応を、イリアスが受けられるかといえば難しい話だ。
彼女の暗い表情は、そんな先の見通せない未来に対する不安の表れだろう。
「でも、私。最後にレイトンさん達の役に立てたって、自分でも思えるし。だから……うん、満足してます」
彼女の中では、既にこの町を出るという結論が出ているらしい。
悔しいが、それは間違いないと言わざるを得ないだろう。
おそらく彼女は聖域へと送還され、そこで協定違反の罪を裁かれることになる。
そして二度と、彼女と出会うことはないだろう。
「……セイレーンって、歌が上手いのが当たり前なんです。だから逆に教えるということが出来なくて」
それは、出会った直後に聞きそびれ、レイトンも疑問に思っていたことだった。
歌唱力が能力の根幹であるセイレーンならば、仲間に歌を教えてもらえばそれで済むはずなのだ。
なのに協定違反という罪を犯してまで、ファンレイン音楽教室へやってきた。
それは熱心を通り越して、無謀とも思える。
しかし彼女から語られたそれは、納得するのに十分だった。
当たり前に出来ることを教える難しさ。それは人間の間にもあることなのだから。
「聖域内で歌の上手い方々にも会いに行きました。でもみんな、セイレーンに歌を教える実力なんて持っていないって」
「そっか。それでこの町まで……フローラ先生に会いに来たんだ」
小さくうなずくイリアス。
「人間の探究心は、私達より優れている特徴の一つだって教えてもらいました。あらゆる先生がいて、その中には歌の大先生もいるんだって……」
聖域の外に、彼女の望む一縷の希望が残されていた。
そこまでして、彼女は自らの歌声を直したかった。
美しい歌を奏でたかったということだ。
「フローラ先生に出会えて、私にどんな歌が歌えるのかなって、すごい楽しみだったんですけどね」
顔を伏せながら、イリアスは苦笑を浮かべる。
膝に置かれた両手は強く握られ、震えていた。
「パラスさんは文字を教えてくれるって言ってくれて、アリシアちゃんやアリスちゃんは、町を色々案内してくれるって……料理だって、メディアさんが」
堪え切れなくなった涙が、彼女の頬を伝う。
「でも……でも、一番楽しみだったのは」
もう笑顔を取り繕うことも出来なくなった、くしゃくしゃなイリアスの泣き顔。
それを向けられたレイトンは、彼女の言葉の続きを察してしまった。
バイオリン……。
自分の演奏を、彼女はそこまで楽しみにしてくれていたということか。
苦悩するフローラを前にした時と同じ、締め付けるような感覚が胸を襲う。
「どうして、私……歌が下手なんだろうって。姉さま達とは、違うんだろうって。そんな自分が嫌で」
もはや、流れ出したそれを止めることは出来なかった。
大粒の涙が次々と落ちていく。
きっと、誰にも言わんと堪えてきたのだろう。
それはイリアスの自己嫌悪であり、本心。弱音だった。
「だけど、それがあったからレイトンさん達に会えて…………ちょっとだけ嫌じゃなくなったのに」
彼女の小さくも大胆な勇気が、弱い自分を受け入れるきっかけになっていた。
初めて教室へとやってきたイリアスの姿を思い出す。
あらゆるものに怯え、不安を抱き、今にも押し潰されてしまいそうな少女だ。
共に食卓を囲む彼女はあらゆるものに興味を持ち、いつしか自分達に屈託のない笑顔を見せるようになっていた。
それが彼女にとっては、自身への大きな変化が起きる始まりだった。
正体がばれるというリスクを冒してまで助けに入ったその勇気も、育ち始めた自己肯定が生み出した強い感情だったのかもしれない。
それほどまでに、イリアスはポリュヒュムニアでの、ファンレイン音楽教室での暮らしに喜びを抱いていたのだろう。
「でも、言い訳はできないから。私は――」
「それなら、いっそのこと逃げちゃおうか」
諦めの言葉よりも先に、レイトンは口をはさむ。
こんなにも自分達に好意を抱き、あまつさえ命まで救ってくれたイリアスを、放っておくことなどできるはずがなかった。
自己嫌悪から抜け出そうとしている彼女に、手を差し伸べずにはいられなかった。
罪に背を向ける。それがどれほど危険なことかは、重々承知の上だ。
だが、不思議と恐怖心はなかった。
それ以上にレイトンにとっては苦痛だったのだ。
ここでイリアスを見捨てることが。
「えっ? 逃げる……そんな、そんなことしたらレイトンさんも」
「逃げるのは得意なんだよ、俺。だからどうということはない」
「得意とかそんなっ。逃げたらもう、フローラ先生達にも会えなくなってしまって」
それも全て、分かっている。
傍から見れば考え無しの発言と捉えられても仕方がない。
しかし、ただ逃げるわけではない。
イリアスと違い、レイトンはそれほど未来に絶望などしていない。
「俺さ、世界なんて早々変わらないし、理不尽とは一生付き合わなきゃいけないって、そう思ってた」
十九年の中で、二度も見ることになった大きな悪意。
故郷を焼かれ、大切な人を奪われかけ、そいつは大層ひどいものだと嫌気が差す。
それらを塗り替えるほどに、レイトンにとって衝撃的な出来事もあった。
右腕を伸ばし、イリアスの手を握る。
「でも今は、変わるかもしれないって思ってる」
それを教えてくれたのは、イリアスだった。
世の中に諦観し、折り合いをつけて生きていくのではない。
諦めるにはもったいないくらいの可能性だって、この世界にはあったのだと。
「これから先、どれだけ時間がかかるかは分からない」
悲観するイリアスの顔を、真っ直ぐ見つめるレイトン。
「だけど、聖域の住人が俺達と【交流】しようとしてくれた。それを目の当たりにした」
彼女が勇気をもって海を渡り、ファンレイン音楽教室の扉を叩いた。
そんな小さな出来事は、今思えば大きな変化の始まりなのかもしれない。
今のレイトンには、そう信じられた。
「それってさ、世の中が変わり始めるきっかけなんだと思う。協定を超えてさ」
「世の中が……」
「うん。だからきっと、ずっと逃げる必要はない。いつかイリアスちゃんのように、こちらと交流を持ちたいって誰かが現れるんじゃないかな」
小さな変化も少しずつ広がることだってある。
その異常を当たり前と呼べる変化が、互いの間に生まれるかもしれない。
そのときが来れば、イリアスが罪に問われないという未来も、あり得るのではないだろうか。
「だから、そういうことが当たり前になるまで、俺と一緒に逃げようよ。最後まで付き合うから」
レイトンはただ、そんな未来が見たかった。
どうせ変わるのならば、明るい未来を期待したかった。
挑むならば、そんな困難の方がずっといい。
それに、帰る場所を失ったあの時の逃亡とは違う。
ポリュヒュムニアという、自分達を待っていてくれる場所があるのだ。
いずれそこに帰るまでの逃亡劇ならば、きっと耐えられる。
二人きりの診療所に、イリアスが鼻をすする音が響く。
空いた左手で流れる涙をぬぐい、赤くなった目でレイトンを見つめる。
その表情は、先の見えぬ未来への不安と、自分に寄り添う言葉をくれたレイトンへの感謝が交じり合った、くしゃくしゃの笑顔だった。
「そんな風になるって……私も信じて、いいんですか?」
その言葉に対する返事など、一つしかない。
「一緒に信じてみようよ、イリアスちゃん」
これはイリアスにとって、そしてレイトンにとっての、望むべき未来なのだ。
ポリュヒュムニアの人々が、絶望に押し潰されていたレイトンに手を差し伸べ、その心を再び立ち直らせてくれたように。
今度は自分が寄り添う番なのだと、強く信じることができる。
同じ未来を望んでくれる、勇気ある少女の為にも。
そんな困難ならば、いくらでも挑んでやろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます