4-6【レイトン・アポロドロスという人間】

 レイトンとって、それは紛れもない救いだった。

 故郷、家族、日常、想い出。

 誰もが帰る場所と呼ぶ全てを失ったレイトンにとっての救いだ。


 失えば、もう二度と取り戻すことは出来ないと絶望した。

 だが、それは間違いだと教えてくれた。

 それがレイトンにとってあまりにも心強く、そして優しく寄り添ってくれた。


 本気でそれを望めば、家族になることだって出来る。

 そこに帰りたいと望めば、第二の故郷というものも確かに存在する。

 失った絶望に打ち負かされ、全てを捨てる必要もない。

 レイトン・アポロドロスという人間を構築するそれを、捨てなくてもよいのだ。


 かけがえのない幸福だろうと、投げ捨てたくなるような絶望だろうと、そこから生まれるものは必ず存在する。

 レイトンにとって、それこそが【歌】。

 あらゆる情念、情景を、言葉と旋律で紡ぎ、伝えることのできる美しき魔法だ。

 それを教えてくれた人がこの瞬間、自身の歌を葬り去ろうとしている。


 ――絶対に、ダメだ。


 自分でも信じられないくらいの反応だった。

 一気にフローラの元に詰め寄り、喉を潰そうとするその手を掴んだ。

 決して離したりはしない。

 自分を救ってくれた魔法が失われる光景など、絶対に見たくはない。


「あっ」


 傍から見れば、兵士がフローラの行為を制止しただけにしか見えなかっただろう。

 ここで初めて、フローラの表情を間近で見ることになった。


 怒りだ。

 眉をひそめる彼女のそれは、レイトンが生まれて初めて見る、憤りの表情だった。

 だが、その怒りの矛先はどこに向いているのだろう。

 決意をくじいた自分自身にか。それとも……。


「離して、ください……」


 返事は出来ない。声を出せば、ブロンズィーノに正体がばれてしまう。

 レイトンは無言で万年筆を握る彼女の手をほどき、手放させる。

 床に落ちる万年筆。赤いカーペットに黒い染みが浮かぶ。


「ふぁ、ファンレイン女史……ぐぅうぅぅッ」


 こちらもまた、レイトンが見たことのない表情をフローラに向けていた。

 自分の思い通りにならない行動を取った彼女に対し、ブロンズィーノは歯を食いしばり、憎悪にも似た憤怒を顔に滲ませていた。

 小刻みに震える顔。歯が小刻みに当たる音が、こちらの耳にまで届く。


「そ、そうか。こ、こ、ここまで私が、下手に……で、出たというのに。そういうことならなぁ、私にだって考えが……」


 席を立ち、部下二人に目配せをしてから艦長室のドアへ向かう。


「貴様ら、その女を自由にさせるなよ。利用価値がなくなってしまっては困る」


 ついにフローラに向けて本心を吐き捨てるブロンズィーノ。

 荒々しく開け放たれたドアが、けたたましい音を立てて閉まる。


「せ、先生、大丈夫かい?」


 ブロンズィーノを見送った兵長が、恐る恐るフローラへと近づく。

 フローラはその場に力なくへたり込み、俯く。


「どうして……誰かを不幸にするくらいなら、私の歌は……」


 誰に言う訳でもなくつぶやくフローラ。

 その言葉が、レイトンに気付かせる。


 自分の想像以上に、彼女が責任というものに押し潰されかけていたことを。

 ブロンズィーノはフローラの歌を求め、障害となるもの全てを排除しようとした。

 それらの原因が自分に……自分の歌にあると、彼女は考えてしまっていた。


(どうして、先生がこんなに苦しまなきゃならないんだ)


 それだけではない。

 きっとフローラは、自分が捕まる以前から苦しんでいたのだ。

 ただ、それを表に出さないようにするのが、あまりにも上手すぎた。

 故に彼女の本心を察することを怠ってしまった。


 断り方を相談されたときも、フローラならどうにかするだろうと誤解してしまった。

 世渡り上手の器用な人物だと思っていたレイトンにとって、苦悩を胸に秘めていたことを気付けなかった自分が許せなかった。


 赤いカーペットに、涙が落ちる。

 怒り、悲しみ。

 初めて目にするフローラの激情を前に、レイトンは言葉を詰まらせる。


『現状を自分のせいだと責めるのは、責任感を通り越して身の程知らずだぞ』


 あの時のパラスの厳しい言葉。その裏にある感情が、少しだけ分かった。

 こんなにも、一人で抱えて欲しくないと願ってしまうのだから。 


 ――ダメだ!!


 だから、心は叫ぶ。

 レイトンは被っていた兜を脱ぎ捨て、床に投げつけた。


「先生ッ!!」


 その聞き馴染んだ声に、フローラは驚愕の表情を向ける。

 涙が溢れる彼女の目には、レイトンの悲しみをこらえる表情が映っていた。


「レイ、君……?」

「ああっ、パラスや兵長さんが助けてくれたんだよ。だからもういいんだ……だから!」


 言葉が整理できない。堪え切れない震えで、歯がガチガチとうるさい。

 ただ、頭に浮かんだ言葉を口にすることしかできない。


「ダメだよ、先生。先生悪くないのに、こんなことしたら」


 彼女の前に膝をつく。


「俺、先生の歌に助けてもらったんだよ? なのにこんなの見たくないよ」

「でも……私がいたから、レイ君は…………」

「そうだよ、先生がいたからだ! だから俺、やっていけてるんだって!」


 侵入者であることも忘れて、声を荒げる。

 だが、どうしても抑えられないのだ。自分を救ってくれた人への、強い想いが。

 感謝か、親愛か、尊敬か。

 あらゆる言葉が浮かぼうとも、どんな言葉でも決して表現しきることのできないそれを、口にせずにはいられない。


「どうすりゃいいか……分かんなくなってた俺がさ、ここまでやってこれたのは」


 床に付いたフローラの手に、自分の手を重ねる。


「兵長さんも、診療所の先生も、フローラ先生も、みんなが俺のこと助けてくれて! それで!」


 奇跡といえば、陳腐かも知れない。

 だがレイトンは、誰に導かれることもなくポリュヒュムニアに逃げてきた。

 誰に導かれたわけでもなかったのに、出会うことが出来た。

 それが出来たからこそ、これまでの自分を投げ捨てずにいられた。

 レイトン・アポロドロスという十九歳の若者が、終わらずに済んでいる。


 過去を捨ててしまうのではなく、過去と共に成長することが出来たのだ。


「だから、俺……俺さ、自分のこと諦めなくて、済んだんだよ……」


 誰しもが帰る場所と呼ぶものを、全てを失った。

 だからこそ、二度目の喪失には何があろうとも抗う。抗わなければならないのだ。


 例え目の前が滲んで、フローラの顔がよく見えなくとも。


「放っておきたくないんだよ、先生のこと。頼りないかも知れないけど……」


 今は決して離すまいと、フローラの手を強く握る。


「頼って、くれよ。お願いだから……傷つく前に…………」


 笑ってしまいそうになるくらい震えた、頼りない声で告げる。

 切に願う言葉を。


「私のこと……許して、くれるんですか?」


 震える声で、フローラが問いかける。


「許すって……許さなきゃいけないことなんて、何もないよ」


 それ以上の言葉は必要なかった。

 フローラが自責の念を抱く必要はない。

 彼女に向けられる悪意こそが、全ての元凶なのだから。

 そして、自分がそれを払う一助になれるのならば……。


「兵長さん。先生を連れて、船を脱出してください」

「お、俺が? おいレイトン、お前さんはどうする気だ?」

「パラスを手伝います。もうこんなのこりごりだ」


 涙をぬぐい、立ち上がるレイトン。

 その腕を兵長の手が掴む。


「馬鹿野郎ッ、言っただろ、俺の目の届くところにいろって!」

「でも、あいつら先生をここまで追い込んで!」

「分かってる。分かってるからまずは落ち着け!!」


 普段の姿を知る人々からすれば、兵長がここまで真剣な顔を見せた記憶は一度もないだろう。

 兵長は兵長なりに、この町への愛着があるのだろう。

 だからこそ、先ほどのフローラの様子を見て怒りを抱かないはずがない。

 だが、それでもレイトンの両肩に乗せられた手には、この場から動かすまいという強い意思が伝わってきた。


「レイトン、気持ちはよーく分かる。俺だって先生泣かしたあのバカをぶん殴ってやりてぇ」

「それならっ!」

「だがそいつは今じゃねぇ! ここで返り討ちに遭って、今度はテメェで先生泣かすことになったら……」


 その言葉は、熱を帯びるレイトンの頭を冷やすのに、十分なものだった。


「自分のこと、許せるのか?」


 ……許せるはずがなかった。

 これ以上傷ついてほしくない相手を、自分が傷つけることなど。


「あのバカは今相当冷静さを欠いている。ありゃあ絶対に何かボロを出すはずだ」


 兵長の言う通りだ。

 思い通りになると思っていた相手が、とんでもない意趣返しを見せたのだ。

 傲慢が服を着て歩くような男が、そんなものを見せられて一体どう思うだろうか。


「その瞬間を、パラスが見逃すはずがねぇ。だからお前さん達は家に戻って――」


 ――兵長の言葉を、強烈な振動が遮った。


 ガラス窓は激しく揺れ、固定されていないインテリアや小物類が床に転がる。

 船底からは木材や金属の激しい破壊音が響き渡り、まるで沈没を始めるのではないかという様相を見せ始めた。


「な、なんだっ!?」


 兵長が叫ぶ。

 各々近場の固定された家具にしがみつき、レイトンはどうにか状況を把握しようと周囲を見渡す。


「兵長さんっ、この船の下ってっ?」

「俺達でも入れない船倉があるはずだが……まさか、あのバカ中佐が何かしたってのかっ!」


 その可能性は否定できない。

 だが、怒りに任せて船を沈めるような行動に出るほどの愚か者とは考えにくい。

 自分の砦でもあろう、大事な船なのだから。


「と、とにかく脱出だ! 甲板に出るぞ!」

「は、はいっ!」


 兵長の声に従い、互いにフローラへ肩を貸し、彼女を支える。

 そして、砲弾でも撃ち込まれた後のように荒れた艦長室を、三人で脱出した。

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