4-5【あなたはあまりにも優しすぎる】

 いつの間にか、月は雲に隠れていた。

 停泊する船はあれど、ほとんど人気のない港に明かりはない。

 衛兵服に身を包むレイトンの顔は、暗闇が目立たなくしていた。


「あんまり離れるんじゃねぇぞ」


 ランタンを持ち、先頭を歩く兵長がささやく。


「この時間ならば、ブロンズィーノの奴は艦長室で酒でも飲んでるはずだ」

「船の中を調べるには、ちょうどいいってことですか?」

「ああ。元々人手も足りないってんで、俺ら衛兵も艦内警備をやってんだ。目立たなければ、歩き回る分には問題ねぇ」


 視線の先に見えてくる、小さな灯。

 おそらくは、王国管轄の埠頭前に設けられた詰め所だろう。

 一般の港とは壁で仕切られており、入り口はあの詰め所の横にある門だけだ。


 あの先に、現状を打破する手掛かりがあるはず。

 パラスは既に別行動で船へと忍び込び、探索を始めているだろう。

 自分達がやるのは、彼が証拠を見つけ出した後のバックアップだ。


 自分達の行動で、この先の運命が決まると言ってもいい。

 そう思うと、緊張のせいか自然と背筋が伸びる。


「おい、貴様ら」


 背筋の凍るような感覚が、レイトンを襲う。

 背後から実に聞き慣れた、そして今一番聞きたくない声が、自分達を呼び止めた。


「こんなところで何をしている?」


 二人の屈強な兵士を引き連れた、甲高い声の男。

 ブロンズィーノが、立ち止まった兵長の前へと歩み寄ってきた。


「おお、これは中佐殿。こんな時間にいかがなされましたかな?」

「話す必要はなかろう? 第一、貴様には崖上の詰め所で待機を命じたはずだが?」

「いやぁ、すみません。ちょっとこっちの方に用事がありましてね、へへっ」


 普段からブロンズィーノに対してはこのような感じなのだろう。

 へらへら笑う兵長を一瞥いちべつし、衛兵に変装するレイトンを睨みつける。

 粗雑な兜を深めに被っているため、この暗さならば気づかれないはずだが。


「……ふん、まあいい。その様子なら貴様らも暇なのだろう」


 レイトンからも目を離し、こちらからは死角になっている側に顔を向けるブロンズィーノ。

 その方向を目を凝らして見てみると、もう一人の人影。

 彼らより小柄な人物の姿が見えた。


 兵長がブロンズィーノの方を向いたことで、人影の方に明かりが向く。

 ……ランタンの明かりに照らされたその姿に、レイトンは息を飲んだ。


「これから大事な客人をもてなさなければならん。貴様らも手伝え」


 俯きつつ、ブロンズィーノの隣に立つその女性。

 フローラ・ファンレインが、そこにいたのだった。




 従うがままに連れて来られたのは、艦尾に設けられた艦長室だった。

 おおよそ船とは思えない、豪邸の一室のように飾られた広い船室。

 床には深紅のカーペットが敷かれ、部屋の奥には書類が置かれた執務用の机。

 その後ろの壁には、ガラス窓が数枚取り付けられている。


 フローラとブロンズィーノは、床に固定されたソファに向かい合って座っている。

 二人の間には白の縁取りをあしらった赤いクロスが敷かれたテーブル。

 その上には、ワインの注がれたグラスが二つ置かれていた。


「さて。まさかあなたからお誘いがあるとは、ひっじょーに喜ばしいですなぁー」


 早速下品な笑みを浮かべるブロンズィーノが、ワインを勧めるようにグラスの片方をフローラの前に寄せる。


 フローラは微動だにしない。相変わらず、無表情のまま俯いている。


(先生……そうか、俺が捕まったままだと思って)


 レイトンと兵長は、並んでブロンズィーノの背後に立っている。

 自分が檻から脱走していることなど、フローラは知る由もない。

 その結果、彼女はブロンズィーノの元へ赴いたのだろう。

 無用な重荷を背負わせてしまったことに、申し訳ないという気持ちがこみ上げる。


「いやはやしかし、この度は大変でしたなぁ。まさか身内が人外の化け物を飼っていたとは」


 どうやら、公でのレイトンの罪はそういった内容で伝わっているようだ。


「しかも取り調べじゃあ何を考えているのか、あの小僧が隠し場所を口を割らないもので困ってますよー」


 一つたりとも真実が存在しないことを、さも実際の出来事として流暢に語るブロンズィーノ。

 この嘘吐きは、もはや生来の才能なのかもしれない。

 あまりの嫌悪感に、レイトンは心の中で毒づく。


「……私が関与しているとは、考えていないのですね」

「あったりまえですよ! あなたのような清廉潔白な方が、神々との協定を破ることなど有り得ない!!」


 沈黙。フローラの表情は変わらない。

 その表情から意思を読み取ることは出来ず、おそらくブロンズィーノもこの様子に困惑しているのかも知れない。


 話題を切り替えようと思ったのか、ブロンズィーノが咳ばらいをする。


「とはいえ、我々もエリシオンとの国境に睨みを利かせなければならない故、このような些事に時間を浪費するのは私としても不本意」


 白手袋をした手を合わせ、フローラの方に身を乗り出す。


「そこで今回の一件。あなたが私の元に来ていただけるというのなら、不問ということに致しましょう!」


 何という奴だ。冤罪とはいえ、犯罪行為を私利私欲優先で握り潰すのか。

 しかも、それを手中に収めたいとする女性相手に平然と言えるという。

 無神経の極みか、それとも勝利を確信している故の余裕か。

 少なくとも、悪い意味での大物ということだけは誰も理解できたことだろう。


 しかし、それでもフローラは表情を変えない。

 彼の悪意にまみれた交渉にも眉をひそめず、一向に心の内を見せようとはしない。

 それが、ただひたすらにレイトンを不安にさせる。

 彼女が何か、必死の覚悟を決めてしまっているのではないかと。


「そうですか……そう、ですか…………」


 そして何を思ったのだろうか、フローラは席を立つ。

 ゆっくりとした歩みでソファを離れ、執務机のそばに立った。


「ブロンズィーノさん」


 感情の読み取れない顔を向ける。


「私の歌に対して、大層な価値を見出していただけているようで、何よりです」

「へ? え、ええそりゃあもう! あなたの歌は素晴らしいですとも!!」

「そうですか。分かりました……ですけど」


 執務机に手を伸ばし、何かを手にするフローラ。

 そこにあったのは、ブロンズィーノの私物であろう黒地に金の文様が描かれた万年筆だった。


「きっと、私が思う私の価値と、あなたが思う私の価値は、決定的に食い違っているのでしょうね」

「そ、そんなことはないでしょう。えー、あー……あ、サインですなっ。はいはい今書類を」

「おかげさまで私は、これまで声楽で生計を立てることが出来ました」


 懐から書類を取り出そうとするブロンズィーノを気にすることなく、フローラは言葉を続ける。


「心から愛する歌が、皆さまに価値あるものと認めて頂けたこと、本当に喜ばしいことだと思っています」

「ふぁ、ファンレイン女史? 先ほどから何を……」


 さすがにフローラの様子を無視することが出来なくなったか。

 ブロンズィーノは困惑した様子で彼女を見つめる。


 対するレイトンは、彼女の一挙一動に、漠然とした不安を抱いていた。

 震えを抑えるように、手を握る。

 革手袋がこすれ合う音が、やけに大きく聞こえる。


「ですが……」


 ほんの僅か、フローラが言葉を詰まらせる。


「もしもその価値というものが、他者に不幸をもたらすようなものだとしたら」


 レイトンは察した。察してしまったのだ、彼女の決意を。


 ――それだけはダメだ。


 彼女の手の動きが、レイトンにはまるで時間が極限まで引き延ばされたかのように、ゆっくりと進んで見えた。


「それはもう、私の求める歌ではなくなってしまったんですね」


 場の空気が、一瞬にして凍り付いた。

 万年筆を手にした右手を胸元に構え、両手で握りなおすフローラ。


 その鋭利なペン先を、自らの喉元へ――。

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